第六十六話 今昔


川の畔だった。
しんと聴こえてきそうなほどの静かな空間。早朝の空気が辺りを包み込んでいる。耳を澄まして聴こえてくるのは川のせせらぎ。喉の乾きに水を求めて来た鳥たちだけが、時を動かしているようだった。

そんな場所で突如、鳥たちが一瞬で飛び立ってしまうほどの川の水が跳ね上がった。

木々の間から見える空を遮ってしまうほどの水しぶき。それが、時間をかけて一つの形にできあがっていく。最早それは水しぶき程度のものではない。かたちどっているものは、龍。


「水遁 水龍弾の術」


大口を開けた龍は、天を突き破るように舞い上がる。まるで生を受けているかのような大迫力、その姿に付近の動物たちは驚き、鳴き声をあげて逃げて行く。先ほどの静けさは既にそこになかった。
水龍は数秒の間 天で地上を見下ろしていた。
その間にも龍の源である川の水はどんどんと量が減っている。そのうちに水中で泳いでいた魚たちまでも水の勢いにのって龍の体内に入れ込まれていくーーーが、全ての水がなくなる直前、水龍は唐突に姿を崩した。ばしゃりと、一気に川の水に息が吹きかえる。魚は逃げるようにすぐさま姿を消した。

じゃり、とその川の側に誰かが寄った。水面に映るのは、銀色の煌めきだ。

「...ごめんね」

カナはぽつりと呟いた。眉間に眉が寄り、苦々しげに微笑む。魚たちへの謝罪は、しかし誰に受け止められることもなかった。静寂が戻って来た森の中。カナは無音で立ち上がり、下唇を噛み締めた。

「(なにやってんだろ、私......)」

心中で唱えた言葉は自嘲を含む。その瞳はふっと木々の間から見える空へと向けられた。

「(一人でできるわけ、ないのに)」

修行。一人でできることなど限られている。扱える術を増やすことが目的だというのに。

カナは昨日から、一度もテンゾウと話していなかった。テンゾウがカナに与えた時間はカナを癒すことはできなかった。しかも、カナが避けているのはテンゾウだけではない、カカシとサスケもだ。
こうして早朝に抜け出して来た理由は、一人の時間が欲しいから。
けれど今のカナを包むのはやはり絶望ばかりで、考えても考えても一歩も先へ行けそうもないのだ。

"新しい力でまた仲間を傷つけてしまうかもしれない"ーーー

ふっと降りてきた思考にカナはブンブンと頭を振った。また何かを考える前にと印を素早く組む。

「水遁 散水破!」

水の塊はカナの上空にできあがった。印を解いたカナはゆらりとそれを見つめる。すぐさま降ってきた水の粒は、チャクラが少なかったからか、テンゾウがやってみせた時のような勢いはない。ただの雨のようだった。
甘んじてそれを受けるカナ、その髪がどんどん湿っていく。カナは何も気にする様子はなかった。

ただどうしようもない願いを思う。この雨で、嫌なものが全て流れていけばいいのにと。
しかしそれも、術の効果が切れたことによって消え去る。ゆっくりと瞼を開けたカナは、天に上げていた顔を下げ、俯く。銀色がカナの顔を隠すように覆った。

「後戻りはしないって......決めたでしょ......?」

独り言。自分に、戒めを突き付ける。どこまでも真っ直ぐなナルトを見続けて、その生き方に敬う気持ちすら覚えて、カナが心に誓った忍道だ。
ーーー進んだなら戻らない、決して後ろを振り返ってはいけない。サスケと共に進み続ける為に。

「(......情けないなあ、私......)」


すい、とん__と。

カナは無意識に呟いていた。頭の中では術のことなど一切考えていない。
だというのに、無意識に印を作り出し、無意識に術を発動したーーーーーー

術の効果で現れる大きな水陰、カナがそれに気付いてハッとする頃はもう、手遅れの範囲であった。



テンゾウは白んできた空を見上げた。昨日 あれだけの大雨だったせいか、今日は雲一つない快晴のようだった。願わくばその転機が良いものを運んで来てくれればいいのだが、果たしてそれはどうなるだろうか。

「(カナは......どこへ行ったかな)」

テンゾウはわざわざ探りを入れなくても気付いていた。今この付近に銀色の少女はいないことを。

木ノ葉を広範囲に出歩けば見つかるかもしれないというのに、そのリスクも背負えるほど、カナはここにいたくなかったのだろう。十中八九、テンゾウが昨日話したことが原因だということは伺える。
しかしテンゾウは後悔はしていなかった。いつかは絶対にカナが知らねばならぬ事実だったのだ。ただ思うのは何か他に言うべきことはなかったのか、ということーーーカナとはまだ付き合いが短いテンゾウには、それが解らない。細かな助言をするには至らない。

「(後悔はない......けど、早まったかな......。...あの話がカナに与える影響力は、想像以上だった)」

テンゾウもまた木ノ葉の忍、三代目の元で任務をこなしてきただけあって、仲間の大切さは知っている。しかしそれでも、カナのあの時の衝撃を受けた表情は、テンゾウの脳裏を離れない。想像を絶した。それほどに、カナにとって仲間というものは重いものだったのだ。カカシの話が甦る。

"カナが強くなったのは、周囲とのつながりを護るためでもある"。

決して敵を傷つけるためではなく、護るために、風羽カナは忍としてここまでやってきたという。それは恐らく、目前で人が死ぬという光景を何度も見てしまったからなのだろう。何よりの強い意志がそこにあって、けれど、それを今回 カナは自分で覆してしまったのだ。



「ーーーカナはここにはいないよ」

テンゾウは唐突に口を開いた。その途端、ザッと人影が下りてくる。テンゾウは振り返り、その人影を見つめた。
テンゾウを睨むようにしてサスケはそこに現れた。

「......どこに行った」
「さあ......僕も分からない。分かるのは、ここらにはいないってことだけだ」

サスケの鋭い視線をテンゾウは飄々と受け流した。サスケのこの視線に悪意がないということはもうテンゾウとてわかっていた。サスケが唯一 柔らかい空気で接することのできる相手はただ一人。
その一人は、今はここにいない。
チッと舌打ちしてとっとと去ろうとするサスケに、テンゾウは投げかけた。

「昨日のカナの様子......どう思った?」

ぴたりとうちはマークが止まる。眉をひそめたサスケの顔が僅かにテンゾウに振り向く。

「何が言いたい?」

サスケの脳裏に浮かんでいるのは笑顔のないカナ。どう思った、とテンゾウに聞かれるまでもない。昨日のカナの様子を不自然に思い、カナと話そうとここに来たのが今のサスケなのだ。その事を問うようなテンゾウの物言いに、サスケの瞳がぎらつく。
対するテンゾウはそれでも動揺しない。ゆっくりと、空を仰ぐだけだった。

「......敢えて、後悔していると言うなら......」
「...?」
「長い間、カナと付き合ってきたキミだ。キミのほうがきっと、うまく伝えることができた上に、カナを癒せる一番の人物だったんだろうな......ってね」
「......お前が、カナに何か言ったのか」

テンゾウは瞼を落とし、一秒前まで見えていた空の青さを自分に隠す。サスケの一段と低くなった声は、一切見ずともテンゾウへの微かな怒りを感じさせる。サスケのテンゾウに対する敵意が見え隠れしている。ふっと脳裏に笑顔のカナが浮かび、テンゾウは再び目を開き、サスケを真っ直ぐ見つめた。


「僕は、カナに事実を告げた。......それが彼女にとって辛いことだと知りながら」
「事実...!? ッ予選の時のことか!」

テンゾウが戸惑いもなく頷いたのを見て、サスケの頭には沸騰するように血が上った。

普段 冷静な頭が一気に煮え立ち熱くなる。サスケの目に一切の邪魔なものは見えなくなっていた、ただテンゾウを除いて。カッとなった頭でまず一歩をダンと踏み出すーーーサスケからテンゾウまで、そう距離はなかった。サスケの拳は躊躇無く振り上がっていった。

だが、今にも飛んできそうな拳にもテンゾウは表情を崩すことはなかった。
よくいえば落ち着いた、悪く言えば澄まし顔で。
それが余計にサスケの癪に障った。一層 強く握られた拳は、迷うことなくテンゾウの顔に向かったーーーが。


「ストーーップ」


ばしり、と重い音が辺りに届いた。しかしテンゾウが殴られたというわけではない。やる気のなさそうな声と共に現れた影。

「何やってんの、サスケ。それはただの八つ当たりでしょーよ」

ここ数日間、サスケの修行をつけていたカカシ。
突如 互いの視界を遮る形で現れた神出鬼没忍者に、テンゾウもサスケも目を丸める。

ぱっとカカシの手から解放されたサスケの手は、素直すぎるほどすぐに、元の位置に戻った。その拳は数秒後にまた力強く握りしめられたが、もう攻撃に移ることはなかった。

ーーサスケとて分かっていたのだ、自分の先ほどの行動が、子供っぽい理由からだということくらいは。「クソッ」とぼやいた言葉には、嫌なほど気持ちが込められた。
そしてテンゾウもまた、瞠目から逃れ、やっと言葉を発する。

「カカシ先輩......」
「テンゾウ、お前も別に悪いことはしてないでしょ。オレは言ってくれてよかったと思ってるくらいだからね......責任を感じて、サスケに殴られてやる必要なんてない」
「......はい、すみません」
「それと、サスケ。この前も言ったとおり、事実は事実......変えられない以上、今 優先して考えなければいけないのは、"再発を防ぐためにはどうしたらいいか"だ」
「......ああ、分かってる」
「なら、カナには誰かが言わなければならなかった......それも分かるな」

こくりと頷くサスケ。未だ強く握られた拳。
ただサスケは、いつか言わなければならないのなら、自分が伝えたいと思っていただけだった。そうできる可能性がゼロになったと知って逆上してしまったのだ。

伏せられていたサスケの黒い瞳は、一瞬だけテンゾウに向いた。だがすぐさま姿を翻して二人とは別方向へ歩き出す。最後に一言、「修行する」とだけ言い、サスケは瞬身で消えた。
それを見ていた二人は、暫しそのままそこにいた。

「てっきり、カナを捜しに行くかと思ったんですが......」
「......そうだな。だがアイツはきっと、誰よりもカナの気持ちを分かってる。カナが無言で消えたということは一人の時間が欲しかったから......カナの心を無視するほど、サスケは無神経じゃないだろ」

テンゾウの言葉に返し、カカシは目尻を下げて笑った。重い空気はゆっくりとだが消えつつあった。



カナはぼうっとする意識の中にいた。空白の思考の中、カナの瞼がゆっくり開く。途端、暗かった視界の中に突如光が入ったからか、その瞳はきゅっと細められた。

場所は森の中ではない。悠々と流れ、日光に煌めく川は近くに流れているが、それは先ほどカナが自主修行のために使っていた小川ではない。
ようやく不自然さに気付いたカナは、仰向けになっていた頭をこてんと転がした。湿った銀の髪が揺れる。虚ろな瞳は、なにか赤いものを映し出した。

「......?」
「おお、起きたかのォ」

カナが今出せる精一杯の声で口にすれば、落ち着いた響きのある声色が返事をした。そこでようやくカナはガバッと身を起こしていた。慌てた瞳が必死に状況把握をしようとする。

「ここは......川下?なんで......」
「そこの川を急に大瀑布で流れてきたのはお前だろうのォ。そう慌てんでも何もしやせん。全く驚いた、まさかこんなとこでお前に会うとはの」
「.......あ。あなたは」

視界を変えたカナは心底驚いた顔をした。そこにいたのは、胡座をかいて座り込んでいる、赤い羽織を着た人物。
ーーその顔に見覚えがあった。ふっと頭によぎったのは過去の記憶。今より幾分か若い顔が皺を寄せて笑っている。大きな手の平が下りてきて、優しい動作をしてくる。大柄な体に長い白髪ーー。
カナはハッとして、声を上げた。

「じっ、自来也さん!?」
「うむ。久しぶりだのォ、カナ」

名を自来也。"伝説の三忍"の一人であり、通称"ガマ仙人"でもある、各里にも名の通った人物。そして、その師は木ノ葉の現火影、猿飛ヒルゼン。三代目に孫のように育てられたカナは面識があって当然の人物だった。
しかし、カナが幼い頃に自来也は小説を書くなどといった理由で失踪し、ここ数年里にはいなかったはずの人物だった。

「お......お久しぶりです。...いつ、戻って来たんです?」
「んん?まあ、最近の。それよりもカナお前、随分大きく、それも別嬪になったのォ!ちょっと見ん間にこんなに成長しよって!川を流れてきたお前を見ても、知らんヤツかと思って一瞬ほっとこうとしたぐらいでのォ!」
「イヤ......助けてくれたのはありがたいですけど、誰であろうと助けてあげて下さい......」

カナが苦笑して返すと、「野郎は嫌だのォ」と自来也は豪快に笑いながら言った。カナの頭に伸びるその手は,
カナの記憶通りの温かさだった。

「それはそうと、カナ、何で滝壺から流れてきた?今のは冗談として、あれにはマジでビビったぞ。昔っからお前は無茶が多かったがのォ......今度は何をしでかした?」
「人聞きが悪いです......。......実は、__」

"大瀑布"、"流れてきた"、"滝壺"。
自来也が使った単語で自分がここにいるワケを察したカナは、一部始終を自来也に話した。

実際 カナ自身も記憶があるのは、大瀑布の陰が自分にかかったところまで。自分の術に呑み込まれ、気を失い 川下まで流れてきたとしか考えられない。大瀑布は超高等忍術と分類されるほどの術だ。それを発動させようとしている時に邪念ばかりあったから、完璧な失敗をしたのだろう。

修行をしている理由から大瀑布のことまでーーただ邪念の理由だけは除いて、カナは全てを話した。
すると、自来也は「ほぉ」と片手を顎に当てていた。

「そりゃあ偶然だのォ。わしもちょうど今、中忍試験本戦に出場するってーガキに付き合ってやっとるとこだ」
「え?」
「ホレ、そこで倒れとるヤツ」

自来也はビッとカナの斜め後ろを指差した。吊られてそちらを見たカナが見たのは。
日差しのいいところに横たわり寝ている、ものすごく見覚えのある人物。その金髪少年は確かに、第七班のチームメイト、うずまきナルトだった。

「ナルト......」

暫く呆気にとられていたカナはぽつりと呟く。

「自来也さんが......ナルトの修行を?」
「なんだ、そのボウズを知っとるのか?まあわしも最初は修行なんぞつける気なかったんだが......うまくそのガキに丸め込まれたっつーか......なんつーか、のォ?」

"おいろけの術"に負けたことだけは、カナ相手に体裁を崩すわけにはいかない為か、口外する気はない自来也のようだった。微妙に挙動不審である。表情も引きつっていてかなり怪しい......が。
自来也がふと気付いた時、カナは自来也のおかしな様子になど一切気をとめていないようだった。カナの視線はそもそも自来也にむいてなったのだ。
視線の先は、ずっとナルトにあるのみだった。

「......どうした?」

さすがに不思議に思った自来也が問えば、カナはようやくハッとしていた。茶色の瞳が泳ぎ、その目尻を落とす。一度自来也に帰った視線はまたナルトに戻された。

「自来也さん......あの、」
「なんだ?」
「ナルト......あれ、寝ているというよりは、気絶、ですよね」
「うむ。まあのォ」
「......もしかして、それの原因って.......少なからず、私の未熟な術の。抑えきれなかった大瀑布が、ここまで襲ってきたせい、ですか」

ナルトの服は、濡れていた。

「ん? なんだ、そんなことか。いや、だが確かに水に呑み込まれたってのもなくはないが、そのガキはその前から気絶しとったぞ。根の詰め過ぎ、チャクラの練り過ぎでな」

自来也の話の途中からナルトのほうへ歩み寄ったカナ。その手がナルトの髪に触れ、ついていた水滴を払う。
自来也の話で気絶の原因が自分でないことはわかったカナだったが、それでもなお落ち込む様子を隠せなかった。それは確実に、最大の悩みも起因している。
ーーーまた、仲間に迷惑をかけてしまったのだと。仲間を傷つける羽目をしてしまいそうになったのだ。

「......なにか、悩み事かのォ」

何かを感づいたのか、自来也が口にする。カナは相変わらずナルトの頭を撫でている。その背中は小さく丸まっており、カナが自来也のほうを振り向く気配はなかった。そして背中でカナは呟く。
一言、ごめんなさい...、と。

自来也は僅かに目を丸くし、それから小さな苦笑を零した。

「......本当に大きくなったもんだな、カナ。お前のその悩みが完全に理解できるというわけではないが......いつもじじィの周りばかりうろちょろしとったお前にも、大切な仲間、っつーのができたんだのォ」
「......はい」
「わしに言えんことを気にすることはない。他人を頼ることも時には必要だが、自分で悩み考えることもまた大事。落ち着いてから誰かに聞いてもらえばいい。すっきりするからの」

自来也もまた立ち上がり、下駄を鳴らして、座り込むカナの隣に立った。視線を下に向ければ、ナルトが呑気な顔で寝ているのが見える。だがカナの顔は俯いていて見えない。

自来也は無理にカナを見ようとはせず、ぽんぽんとカナの頭を撫でるだけだった。さらりとした銀色が、自来也の手に馴染む。どことなく震えているような気がするのは気のせいか。

数秒後、自来也の耳に、か細いお礼の言葉が届いていた。


 
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