第五十七話 絶望を知った日
「動くなよ」と、重い声で言ったのはカカシだった。それに対し、サスケは「んなつもりはねェ」と苛立たしそうに答えた。苛立ちの原因は、しつこいカカシにもあるが、それ以上にカナだった。
会場にいる全員の視界に映る、立っているというのに、ぴくりとも動かないカナ。あまりの微動だにのしなさに会場内に小さなざわめきが起き始めている。その一方で、カナを親身に思っている者全員が全員、妙な胸騒ぎを覚えていた。
北波はただそこに立ち、カナを見ているだけだ。
ーーー・・・・
何だろう、この感覚は。
現実のものではない。意識だけがここにあるように感じる。まるで、夢の中にいるようだ。
"刻鈴"の能力......幻術?
意識の中のカナの視界に映ったのは、あるはずのない景色だった。戦っていたはずの北波の姿が見えず、会場もない。あるのはただただ土や落ち葉や木々や茂み、森の中。空を見上げてみれば真っ暗で、夜だということだけは理解した。
カナはようやく一歩を踏み出してみる。かさ、と落ち葉を踏む音。現実味は中途半端だ。この感覚は何度も体験したことがある。やはり、これは幻術だ。そうくればカナにできることは一つだけだった。
カナは躊躇なく両手で印を組み、チャクラを練った。
「(か、)」
しかし。
カナが心中で、"解"を唱えるには至らなかった。
その前に、カナは鳴き声を聴いていた。鳥や、虫や、木々の、そして、風の。
その途端、何かにハッとしたように辺りを見渡した。
「この感覚......)」
カナは解印をほどき、もう一歩、もう一歩と足を踏み出した。
それはいつしか小走りにまでなり、カナはいい知れない感覚を探していた。
"かあさま!とうさまぁ!待ってよ!"
━━━不意にカナの耳に聴こえてきた"記憶"。
カナはびくっと反応して立ち止まり、声の方向を見た。だが、もうそこには何もなく、暗がりが続くばかり。けれど、
"あらあら、そんなに急いで"
"こけるなよ!"
再び聴こえてきた別の声。カナは反対方向に振り返った。
そこにいたのは夫婦だった。女性と男性が仲睦まじそうに並んでいる。そこへ、また映像が追加され、現れた幼い少女が夫婦のほうへ向かっていく。辿り着いた少女は父に抱き上げられ、嬉しそうにきゃっきゃと笑った。
銀色の髪の親子。このやり取りを、カナは知っていた。
「小さい、私と......母様、父様」
カナはぽつりと零した。映像が消えていく。
今のはただの自分の記憶だ。懐かしいこの場所を見て、急速に過去を思い出しただけに過ぎない。
暗い森の中、カナは思い出したように一本の木に向かって歩いた。大樹だ。カナはその大きな幹をそうっとなぞっていき、そして、深く彫られている紋章を見つけていた。
鳥の羽を模した家紋。
「(気のせいじゃない。ここは、風羽の森だ......)」
風羽一族の紋章が何よりの証。久方ぶりに見たそれに、カナは暫く目を奪われていた。懐かしさ、もちろん、それもある。しかし今のカナの頬には、冷や汗が伝っていた。
それはただのカンだ。しかし、第六感は確かにカナに叫んでいた。
走れ。真実を、見たければ。
「風羽が死んだ、あの日の、真実......!」
カナの足が、再び強く地面を蹴った。
知っている風景が流れていく。走る度にどんどん息が荒くなる。だが休みたい気持ちは蚊ほどもない。何より今求めているのは、事が起こったあの場所に行くこと。
ようやく気付いたのだ。向かっている先のほうが嫌に明るい。
そして、どんどん煙の匂いが強くなってくる。
見たくない気持ちが無いとは言い切れない。怖い、確かに、怖い。だがそれでも、カナは走り続けた。
「(ここで見ておかなきゃ、きっと後悔する!)」
カナの足が止まることはなかった。
ーーー・・・・
「ねえ、何であの子動かないの?ネジ」
会場。マイト・ガイ班の班員、テンテンはカナを見たまま、チームメイトであるネジに問うていた。
その隣ではリーやナルト、サクラが試合を観戦しているが、どうやら集中して聴こえていないらしい。テンテンがネジに話しかけたのはネジの能力があってこそだった。
"白眼!"
ネジの両目に一気に寄った神経。その特異な血継限界で、ネジは再びカナをしっかりと見た。
「チャクラの流れが普通じゃない」
「それって、幻術にかけられてるってこと?」
返事はするまでもない。
ネジは静かに白眼を閉じ、そうして今度は北波を睨んだ。北波は第二試験のごたごたでは見なかった顔だが、ネジからしたら一番"裏"がありそうな人物に見えていた。
ーーー・・・・
『逃げろォーーー!!!』
『子供と年寄りは早く森の外へ!!』
『戦える者は迎え撃てーー!!』
『父様ァ、母様ァーー!!』
『オレだって戦う、逃げたりなんかしないんだ!』
『ぐァああああァッ!!!』
声が、聴こえた。叫び声と、泣き声と、苦しむ声と。
走ってきたカナの脳内に甦ってくる全て。見えている全て。カナは、ただ呆然とその場を見つめることしかできなかった。
戦火が上がる中で、大蛇が次々と現れ、集落を壊し、一族の人間を喰おうとしている光景を。
カナは呆然と、その場に立ち尽くしていた。やがて目の前に大蛇がやってきてもなお、そうすることしかできなかった。シャァ、と大蛇が口を開く。長い舌をのぞかせている。
喰われる___!!!
しかし、そう思ってカナが身構えてみたところで、衝撃は一切訪れなかった。ふっと目を開けたカナは、え、と口にする。見えたのは、大蛇の巨大な尾。カナが恐怖した大蛇の口は、カナの後ろで逃げようと必死になっていた男性を、
喰っていた。
「や......やめて」
見えていない。見えていないのだ。カナはすぐに理解した。ここで、自分が干渉することは許されない。
がくりとカナの膝が折れる。懸命に走ってきたはずが、それ以上進む力を一瞬で失っていた。
燃え上がる炎。焼き尽くされていく木々や、家。蛇に喰われていく人々。泣いている子供達。
知っている。知っている。この光景を、何度も悪夢に見たことがある。かたかたと震える体は昔のまま、今でもこの光景は、酷く、恐ろしいまま。
「やめて......殺さないで」
渇いた唇から呟きが漏れる。その膝に水滴が落ちた。
「"神鳥"なら、ここに、あるから。あげるから......だから、お願い、奪わないで」
無駄なぼやきを一心に続ける、今のカナに正気はなかった。
何を言っても意味がないことを理解しながら。それ以上、どうしようもなかった。
"んなことしてていいのかよ"
だがその時、キン、と脳内に声が響いた。カナはハッとして顔を上げる。だがやはり先ほどと光景は変わらず、見えるものは燃え上がる炎と蛇と、逃げ惑う者たちだけ。
きゅ、と袖で涙を拭うカナ。覚束ない足で立ち上がる。北波さん、とカナは小さく呟いた。降ってきた声のおかげで少し立ち直れた。だがそれ以上の変化は訪れない。声も聴こえないまま。
カナは背後に現れた影に気がついた。
『シャァーッ!!』
「ひっ!」
自分に威嚇しているわけではない。自分を視ているわけではない。分かっている、そんなことは分かっている、けれどーーー!
「(怖い!)」
カナは逃げ出していた。幻から、恐怖から、大蛇から。目を強く瞑り、前へ前へと振り返らずに走っていく。それによって更なる血の海へ入ることになろうと、それでも背後の存在に耐えることはできなかった。
そこら中から聴こえる血飛沫、悲鳴。
しかし、その全てにカナは触れることはできない。ただ視えるだけ、聴こえるだけ。走る度に頬に涙が伝っていく。真実を知りたいだけなのに、こんなにも恐ろしい。
"......合ってるぜ。その方向で"
「ほう、こう......!?」
走りながら再び聴こえてきた声に、思わず漏らすカナ。だがまた聴こえなくなる。
「(どうして、彼はこの記憶を知ってるの?)」
石ころにつまづきよろめいたカナだったが、寸でのところで体勢を持ち直す。
北波はなぜこの事件をここまで詳しく知っているのか、何を考えているのか、カナにはまったくわからない。こんな光景を見せつけてくる理由もわからなかった。
しかしカナの考えは、そこで途切れていた。
走ってきた為の息切れもそこで一瞬にして止まっていた。
震える手で自分の口元を抑え、そしてその震える足で一歩後退する━━━目はその光景に囚われたまま。
「かあ、さま......父様!!」
それは、大蛇と戦っているカナの両親の姿。既に満身創痍な状態で、お互いに声を掛け合いながら、必死で大蛇の侵攻を止めようとしている二人。一族を護ろうと......護ろうと。
「に......逃げて、早く......」
カナの口から出てきたのは否定の言葉だった。知っているから。この事件の結末を知っているから。
「お願い、早く逃げてよ、母様、父様!!勝てっこないの、だから、お願い早く___!」
意味の持てない涙が次々と溢れていた。
それを遮るようにして、青年の声がカナの脳に響く。
"お前はその時、まだチビだったな"
「北波さん......どうして、こんなの!」
"......言っただろ。お前が最初に絶望した日を見せてやると"
涙声の返事には、更に作ったような平坦な声で返される。カナは必死で涙を拭った。
「だから、どうして!あなたに何が関係あるんですか!?」
"何も知らないガキのままだな、お前は。どうせ綺麗事ばかりに縋り付いて、自ら情報を得ようとはしなかったんだろうな。風羽の血を色濃くついでるよ、お前は"
皮肉にもほどがある。
「私は一族を大切に思ってる!」
カナは泣きながら、どこかへと叫んだ。
「鳥と、風と、平和を愛した、私の一族......!」
北波の声が聴こえなくなったのを良い事に、目一杯。
「一族を悪く言わないでよ!!」
カナの風羽での記憶はかなり断片的だ。知識の上でしか知らないこともたくさんある。それでも、自分の一族なのだ。贔屓目かもしれない、だけれど、特別なのだーーー。
"......好きに言ってろよ"
再び北波の声が聴こえる。カナはその瞬間ぞくりと冷気を感じた気がした。これまで感じていたものとはレベルが違う。冷静でいて荒々しい怒りが確かに感じられた、ただの声からも。
"お前はそうやって自分の名前を守ってりゃいい。だが他人がどう思うかは勝手だ。お前は何も知らないまま......だがオレは全てを知ってんだ。最初から知ってた......なにせ、目の前で見せられたからな。それが、オレの傷だ"
「......傷」
北波はなんなのだ。
どうしてこの事を知っている。
どうしてあんな顔をする。
どうしてこんなにも苦しそうにする。
刺々しいセリフの端々に見える、彼の本当の心はなに?
"......オ姫サマ"
「!」
"お前ももうさっさと知りたいだろ?真実ってヤツをな"
その声から、一秒と経たなかった。
『かあさまっ......とうさまぁあああああ!!!!』
知っている、声。
『早く逃げろ、カナ!お前は生きるんだ!』
『絶対に捕まらないで、カナ!!母様と父様は大丈夫だから!!』
知っている、声。
いや、声だけじゃない。この会話を知っている。嫌になるくらい耳に残っているのだ。
目の前で戦っている父の瞳は、カナを通り過ぎ、"カナ"を見ていた。
カナの背後にいたのは、あの頃の何の力もない自分自身だった。
幼い頃の、自分。涙している自分と同じように、同じくらい"カナ"も泣いている。傷だらけの体で、逃げ出そうともせず、泣きじゃくるばかりで、父様母様と叫ぶばかり。紛れもない、自分自身が行った行動だ。
だからこそ。
この後どうなるかも、もちろん知っているのだ。
『逃がさないわよ、カナちゃん。あなたは私と一緒に来てもらうわ』
"カナ"の目を覆い隠し、その背後から突如として姿を現したのは___
■
━━━ぞくり。
凍り付くような悪寒に、目に見えて震えたのは、カナでも北波でもなく━━━ナルトたち下忍だった。
「なん、だ......?」
そう、自分の体を見て呟くナルト。それは自らの意思とは関係無く、止めようと思ったところで収まらない。異常な程の寒気が体を包み込んでいる。隣にいるサクラも同じく震え、その悪寒に耐えきれず、壁に背中を預けている。他の者も変わらなかった。経験を積んでいない下忍は、一様にその感覚に"怯えている"。
「おい......カカシ、これは......」
サスケも例外ではない。震える体を抑えながら、サスケはカカシに問うた。さすがといったところか、カカシを含む実力者達は震えも見せず変わりない。カカシはサスケを一瞥してから額当てに手をかけていた。
見ていたサスケは僅かに目を見開く。
「写輪眼を使うまでのことなのか?」
カカシの左目が露となる。それはもちろん紅色。
「なんだかな......嫌というか、変な感じがするんだ」
「変?」
「ああ......知識すらもないまま、初めて見る生物に出会った感じ......というのか」
口を濁すように言うカカシ。サスケはふっと階下の中心に目をやった。そこには相変わらず突っ立ったままのカナと、それに向かい合っているだけの北波がいる。数分前からほぼ変わらない光景だ。
ギリ、とサスケは歯ぎしりをした。この感覚を発しているのは北波のはずだ。飄々とした態度で、あの男はなんてとんでもない気を発するのか。あれだけ近くにいるカナは、一体どれだけ━━━
サスケがそう考えていた時。ふと、カカシから呟きが聴こえた。「カナ......?」と、何か、信じられないことに気付いたかのような声で。
「カナがどうかしたのか!?」
サスケが大きく反応するには十分の出来事だった。しかし、カカシはサスケを見ようとしない。その頬には冷や汗が伝っている。「この悪寒」とカカシがもう一度口を開いたのは、それから数秒が経ってのことだった。
「北波のものじゃあない」
「!?」
「サスケ、お前を今 震えさせてるのは......カナだ」