第四十六話 呪印
夏の生温い風がそよぎ、銀色が揺れる。
カナの視界の中で、月がようやく雲間から顔を覗かせていた。
「(満月だ......)」
警戒心からか、一向に眠気が訪れる様子はない。そんな時落ちてきた月光につられ、カナは夜空を見上げていた。
あの日も満月だった。あの日、二度目の惨劇の日。慕っていた人がいなくなってしまった日。
だからだろう、カナにとって満月は、好ましいものではなかった。綺麗だとは思うけれど、それ以上に思い返してしまうものがあったから。
銀色が風に弄ばれる。
その時、それを視界の端に捉え、その舌で唇を舐めた者がいた。
ゆっくり、ゆっくりと近づいていく人影。
カナがその存在に気付いたのは、"蛇"が牙をむく瞬間───
「!!」
カナは"それ"を感じた瞬間、転げ落ちるように地上に降りていた。
冷静に体を動かせないほど、緊張が一気に張り巡らされた。
誰。
実際、カナは攻撃されたわけではない。ただ、忍び寄ってきた雰囲気、それに応じただけだった。
蛇、だ。
決してその形をしているわけではない。しかし、カナが今、暗がりの奥に見えるギラギラとした目つきや、異様に長い舌などは、まさに"それ"だった。
「あらあら......必要以上に怯え過ぎじゃない?それとももしかして、憶えてるのかしら」
独特の言葉遣いがカナの耳に届く。月明かりの下にのっそりと這い出てきた男を見て、カナは一歩下がる。どっと溢れ出てくる冷や汗を、拭う余裕もない。既に何滴もの汗が地面に落ちていた。
逃げ出したい。けど、背中は向けられない。目を逸らしたい、けど、そうしたら負けてしまう。そんな、威圧感。
「誰......?」
「残念。憶えてるわけではないのね。カナちゃん」
名前。どくり、と警鐘が鳴る。粘り着くような生温い声に呼ばれることに、悪寒まで走る。
「随分と捜したのよ?手加減してあげたというのに、こんなところまで飛ばされてるだなんてね」
「! まさか、あの風......!」
「そう、私よ。ついでに、あなたとサスケくんは気づいていたようだけど、合言葉を決めていた時に付近で忍んでいたのも私」
サスケ───自分の名を呼ばれた時以上の不快感が押し寄せる。ガチ、と歯が鳴る。震えるな、と自分に言い聞かせる。弱みを見せるべきではない。飽くまでも、気丈に。
「目的は......どうして、私だけを狙って。はぐれさせるなら、あの中で一番強いのは、そのサスケなのに」
「そうね。だけれど、別にどっちでもよかったのよ」
「どっちでも......?」
「そう。あなたとサスケくん。どちらがはぐれてくれても良かったのよ。ただ、あなたが狙いやすかっただけ。殺気、得意ではないでしょう?」
男の金の目が細められる。ぞくりと更なる恐怖が押し寄せる。殺気......違う。殺気という一言で説明はできない。蛇なのだ、この男の気配は。カナが最も嫌い、畏怖する、あの爬虫類。その口がまた開く。
「あなたの風とサスケくんの火を合わせてこられちゃ、厄介だものね」
まるで二人をよく知っているとでも言うように、馴れ馴れしい。
「あの三人に何かしたの!?」
「あら、あの金髪の子と女の子には手出ししてないわよ。もっとも坊やには気絶してもらったけどね。でも、私の目的は飽くまでも、サスケくんと」
「サスケに何を!」
「......せっかちね。そんなに大切な人なの?」
ハッと息をのんだカナは口を閉ざす。
「フフ、そんなに睨まなくてもいいじゃない......あなたたちがお互いに仲がいいのは、よく知ってるんだから。もう一度言うわよ。私の目的はサスケくんと、それから......カナちゃん、あなた」
更に顔を強ばらせたカナは、本能的に身構え、更に数歩下がる。だがさほど意味はない。男が更に数歩前に出た。ゆっくり、ゆっくり、近づいてくる。それに合わせてカナも無意識に下がるが、ドン、と背中に何かがぶつかった。
大木が、それ以上ゆるさなかった。
「私の目的はね。あなたたちの、"予約"よ」
「よや、く」
「ええ。所有印を残しておくの......わかる?」
ベロリと長い舌が顔をのぞかせる。カナの体が硬直する。駄目だ、蛇は、恐ろしい。
戦うか。いや、勝ち目はない。逃げるか、いや、逃げ切れるわけがない。どうすればいい。三人は、どうしたのだろう。
カナは震える指をホルスターに伸ばした。冷たい金属が手に当たり、なんとか掴む。
「あ......あなたが誰だか知らないけど」
腹のほうに不思議な熱気が集まるのを感じながら、カナは必死に言葉を連ねた。
「私たちは、あなたのものじゃない......!所有とかなんとかなんて、言わせない!」
普段は心がけている丁寧な言葉遣いの影もない。カタカタと震える手を前に構え、クナイの切っ先を男に向ける。月光が反射し鈍く光る刃。暗闇の中に響いたカナの声は、あっという間に空気に呑まれていった。
男は実に愉快そうだった。言い返されたことに更に愉悦を感じているようだった。フフ、とその口がまた笑う。「そう?」と口元に弧を描き、目を弓なりにする。そして、実に親しそうに話しかける。「でもね、カナちゃん......」と。
「残念ながら、サスケくんはもう、"所有"しちゃったわ」
その瞬間、するりとカナの手からクナイが抜け落ち、地面に転がった。
目を見開いたカナの頬を流れていく汗。
「なに、を......サスケに何をしたの!?」
「サスケくんにはもう、私の印をつけちゃったのよ。ごめんなさいね......でも大丈夫。サスケくんならきっと、生き残ってくれるわ。なんせ、あのうちはイタチの弟だもの」
男がどこか憎らしそうな声で言った男の名は、まさにカナが先ほど思い返していた"慕っていた人"のものだった。最早、カナは男の話についていけない。男は何もかもを知っているのだ。カナのこともサスケのこともイタチのことも、三人の関係性も、そして、この話を持ち出すことでどれだけカナが動揺するのかも。
「大切なのね。サスケくんのことも......それから、イタチのことも、かしら」
カナの表情を見てか、男は笑ってそう言う。
「安心したわ。その調子だと、私の思い通りに事が運びそう」
クナイを拾いたい気持ちは、しかし恐怖心に負けてしまった。最早冷静な心は取り戻せない。次から次へと送られてくる言葉に対応しきれない。カナの脳内では、サスケの無愛想な顔が、浮かんでは消え、浮かんでは消えの繰り返し。この男の口からサスケの名が出てくるのが何よりも恐ろしかった。
「怖いの?」
「サ、サスケはあなたのものになんてならない......!」
「そうかしら。でもきっと、サスケくんはそのうち、自ら望んで私を求めるわ」
「そんなわけない!だって、サスケは!」
一緒に。ずっと、一緒に。
「私と、約束してくれたから!!」
幼い時の約束を、少なくともカナはまだ、違える気なんてないのだから。
───しかし、そう叫んだ瞬間だった。
カナは唐突に、首筋に鋭い痛みを覚えていた。
皮膚に、鋭く、刺さるような。
首を蛇のように伸ばした男の顔が、すぐ傍にあった。
「え......」
「サスケくんとのその約束、大切にね......カナちゃん」
その出来事はあまりにも瞬間的で、把握するのさえ困難だった。
「な、なに、を」
カナは渇いた喉で声を押し出した。しかし、そんな余裕もすぐに消える。
絶叫が、響き渡った。
これ以上ない痛みがカナの全身を駆け巡ったのだ。
首筋を抑えて倒れ込む。尚も襲った痛みは今まで受けたどの傷よりも激しく、そして、禍々しく。
「うあァっ......なに、して......ッ」
「一度は気絶したほうが楽よ。心配しなくても、その間に何かしたりはしないから」
既に霞んでいる目で男を見上げる。首を元通りに戻し、カナの傍に寄った男は、また蛇のように舌なめずりした。
「私の名前は大蛇丸......必ずまた会うことになるわ」
おやすみなさい......そう言われた瞬間、カナの意識は落ちていた。
男、大蛇丸はくつくつと笑う。子供が欲しいものを手に入れた時のような、その無邪気ともいえる笑顔が、更に不気味だった。「また後でね......」と大蛇丸は低く呟いてから姿を翻す。
しかしその歩は二、三歩で止まっていた。
「北波ね?」
大蛇丸の呼びかける声に応じるように風が舞った。新たな人物が枝の上に姿を現す。
銀色の髪に焦げ茶の瞳。大蛇丸を見下ろす青年。北波は芝居じみた動作で、お手上げだというふうに手を上げた。
「バレねえようにしたつもりなんだがな」
「用事は済ませてきたのかしら?」
「ああ、この通り」
風を纏いながら軽く地に下りて来た北波の手には二つの巻物があった。"天""地"。紛れも無くこの第二試験の合格基準のものである。
「下忍ってのは弱いな」
「上忍クラスのお前なら当然でしょう」
軽々しく口にする北波に、大蛇丸が真顔で返す。その途端北波の目が鈍く光る。その瞳の奥で獣でも住まわせているかのように。しかしすぐにそれを隠した北波は、何気ない様子で巻物をポーチにしまった。
そして、次に北波の目は、倒れているカナに向いた。ゆるりと目を細める。
「......あいつに呪印をつけたのか?」
大蛇丸は意味深な目を北波に向けてから、「ええそうよ」と返した。
「わざわざ呪印で縛らなくても事は運ぶでしょうけど。念のためよ」
「......念のため、ね」
北波はゆっくりと足を向けた。カナの傍らにしゃがみ、その細い体を抱き起こす。
北波の手に柔らかな銀髪がまとわりつき、北波は自然とその髪に目を向けた。この灯りの少ない森の中でも、カナの銀色は存在感が強い。北波は最後に呪印を見てから、背後からの大蛇丸の視線を鬱陶しく思い、カナをそっと地に下ろした。
「見たことねえ呪印だな......」
「最近完成したばかりのものだから、見たことないのも当然よ。それは他のどの呪印とも異なる物」
北波の目が大蛇丸に移る。大蛇丸はカナを眺めていた。
「普通、呪印はより強い力を与えるための物であることは知ってるでしょう。状態1、2がその証拠ね。けれどその子に与えた呪印では、状態1にも、もちろん2にもなりゃしないわ。チャクラを使おうとしても痛みはないはずよ。まあ、体に馴染まないうちは痛むこともあるでしょうけど」
「......力を与えない?じゃあ、何の意味があるんだ」
すると不気味な笑い声が辺りに響いていた。それに反応して、森の鳥たちが一斉に飛び上がっていた。まるで大蛇丸を取り巻く不穏なものに反応したように。
「籠の中の鳥......素敵じゃない」
その時、大蛇丸の声とはまた別の声が上がった。北波はハッとして声の方向を見やる。カナだった。
「っあァあああ......!!」
短く叫んだ後は声にならない悲痛の声を上げている。
何を、と北波が顔をしかめて大蛇丸を見れば、大蛇丸の手は印を組んでいた。その印が解かれたとき、カナのうめき声も消える。カナは気絶しながらも疲労したようにぐったりとしていた。北波は全てを察する。
「大した反応だな。あんたがそうして印を組めば、激痛が走るってことか」
「ええ、そうよ。半端のない痛みでしょうね......実験結果では他の呪印よりも強い刺激があるようだし。耐えられるものではないわ、普通ね」
「......」
北波はカナを一瞥してから、すっと歩き出していた。その歩みはどこか重々しい。「んじゃ、オレは行くぜ」と、通り過ぎ際に一言声をかけ、闇へと消えていく。
大蛇丸はじっとその姿を見つめていた。その口元には弧が描いてある。
「一体何を考えているのやら......」
大蛇丸は独り言を呟き、そして同じくカナを一瞥してから、ふっと消えた。
残されたのは、カナ一人。
夜はゆっくり更けていく。
■
早朝。鳥たちが互いに挨拶しあう声が森に響き始めた。
そんな木々の間を爽快に駆け抜ける姿があった。偵察中のゲジマユこと、ロック・リーである。しかしいつしか彼の脳内は偵察よりも"桜"色に染まってしまっていたりする。それはある枝で足を止め、舞い落ちる木の葉を見た時のことだった。
「この葉っぱ20枚、地面に落ちるまで全て取れたらサクラさんが僕のことを好きになる。もし、もしも一枚でも取れなかったら、一生片思いで終わる......それどころか"アンタゲジゲジじゃん"とか言われる......」
師匠直伝の、いわゆる"自分ルール"。
リーは途端に降下しながら葉を集め始め、その手にはあっという間に19枚の葉が集まった。
しかし、その時だった。小動物の小さな鳴き声に反応し、リーはぱっと顔を向けたのだ。
「ん!?あれは!」
目についたのは背中が燃えているリス。リーは瞬時にそちらに向かい、リスの背にあった起爆札が爆発する前にはぎ取っていた。ボンと爆発する起爆札だが、リスに危害は加えていない。間一髪のところだった。「誰がこんな酷いことを...」と怯えているリスを目にリーは眉を深く寄せる。
しかし、その意識がまた別のものに引き寄せられる。近くの茂みががさりと音をたてたのだ。
「誰だ!」
リーは反射的に構えを取った。リーの肩の上でリスは縮こまっている。
リーは偵察に出る前、班員であるネジに"敵の有無に関わらず必ず帰ってくること"と念を押されていたが、襲撃されては応えるしかないと思い、逃げる素振りは見せなかった。ごくりと唾を呑み、草陰に潜む不審者を警戒する。
だが、リーの耳に入ってきた声は実に弱々しいものだった。
「......リー、さ......」
「......?誰です?」
自分の名前が呟かれたことにリーは更に警戒する。ようやくその人物は草陰から身を出した。
「リー、さん......!」
「あなたは!」
そしてリーはようやく気付いた。そこにいたのは、つい先日初めて出会った今年のルーキー、風羽カナ。
呆気にとられたのも一瞬、カナが満身創痍なのに気づいたリーは急いで駆け寄った。「しっかりしてください!」と声をかける。
「どうしたんですか、そんなにボロボロで!サスケくんやサクラさん、ナルトくんは!?」
「七班と、はぐれて......色々あって、今チャクラも満足に練れなくて......あの、三人をどこかで、見ませんでしたか......?」
「いえ、見てませんが......カナさん、この痣は?」
リーはカナの話を聞きながらも、カナのハイネックの服から僅かに見えた異様な痣に目をとられた。打撲などのそれでは決してなく、何と問われれば、鳥の目と嘴(くちばし)のような紋様をしている。
「アザ......?いえ、とにかく、見てなければいいんです、ごめんなさい......じゃあ、」
「あ、ちょっ、待ってください!」
リーはカナに問いたいことは山ほどあったが、しかし、カナの苦悶の表情を見るとその気も起こらなかった。リスが心配そうにカナの顔を覗き込んでいる。立ち止まったカナは不思議そうに振り返った。リーは行動を起こさなければ、と思った。
「(カナさんのチームに何かあったのかもしれない。ネジ、テンテン。すみませんが、僕は寄り道をしていきます!)」