第百話 "そばに"
彼の背中を見るのは、初めてだっただろうか。
そんなふうに思ってしまうほど、サスケはまるで変わってしまったのだと、カナは今、思い知っていた。
「......待ってよ。サスケ......」
サスケは確かに立ち止まった。だが、振り返ってはくれない。
二人を打ち付ける冷たい雨。埋まらない距離。違ってしまった。全てが最早、何もかも。
「ひどいな......なんにも言わずに行っちゃうなんて」
カナは強がった小さな笑みを浮かべる。雨に打ち消されない声を張って。
だが、サスケの返事はない。何も言われない。帰れとも、何をしにきたとも、一言も。
それでもカナは笑みを絶やさずーーー背後から、サスケの首にクナイをかけていた。
ぴくりとも動かないサスケへ、静かな声色で言う。
「隙がありすぎるよ、サスケ。私が攻撃をしかけないと思ったらおおまちがーーーー」
しかし、全てを言い終わることはできなかった。サスケが唐突に動いたかと思うと、その手でクナイを持っているカナの手首を捻り、カナの首筋にあてていたのだ。
キリ、と小さな痛みが襲ったが、しかしカナはそれほど動じることもなかった。その目はやっと向き直ったサスケの顔を見つめているだけ。
無表情で、サスケはぼそりと口を動かす。
「隙がありすぎるのはお前のほうだ......カナ。お前じゃオレには敵わない」
まるで長い年月がいきなり過ぎ去ったかのように、サスケの声からは今まではあった幼さが抜けていた。
サスケの手はあっさり外れ、カナもクナイをホルスターに戻す。
「......知ってるよ。そんなコト」
呟いたカナの声は、雨に消え入りそうなものだった。カナは自分の体に籠る熱をじりじりと感じていた。
姿を翻してまた歩き出そうとしたサスケを、カナは声をかけて止める。
「大蛇丸のところに行くの?」
「......」
「力を手に入れるため?復讐......お兄ちゃんを、殺すため?」
「......お前には関係無い。オレはもう、お前とのつながりを切ったんだ。今はもう、オレとお前は幼なじみでもなんでもない」
サスケの声がカナの中で木霊する。次に漏れたカナの微笑は、情けない自分を嘲笑ったものだった。
ナルトが傷だらけで倒れているのがカナの目の端に映っていた。相当全力で戦ったのか、いつもは溢れているチャクラの気配が薄い。
それがナルトだと、カナは思った。それがナルトとサスケの戦いだったのだ。
だが、カナとサスケは、そうではない。
「関係無い......か。そうだね......もう、それでもいいよ。だって私は歌った。あれが私にとっての全力だった。......けど、それは届いてくれなかった。......もう、私ができることなんて何一つないって......知ってる」
笑って言うカナは、サスケの足下に視線を落としていた。サスケはもうぴくりとも動かない。進まない代わりに、振り返りもしない。それがサスケのカナへの確執の仕方だった。
だけれど、カナは今ここにいる。サスケがどれほど高い壁を作ろうが、カナはそれをよじ上るためにここまで来た。
どんなことがあろうと、サスケを見失わないために。
「でもねサスケ......それでも私はここに来たんだよ。......何でか分かる?」
何もできないって知っているのに。
サスケを木ノ葉に無理矢理にでも連れ帰るため?
倒れたナルトを助けるため?
それとも、行ってしまうサスケを見送るため?
「......その、どれでもないって言ったら、どう思う?」
ーーーサスケの返事はなかった。だが、その拳が痛いほど握られているのは確かだった。
長い時間をずっと一緒に過ごしてきた。それだけに、お互いの考えなんてみなまで言わずとも分かるようになってしまった。
サスケは既に分かってしまったのだ。カナが、何を言いにこの場に来たのか、なんてこと。
「そう。......サスケと一緒に行くために、私はここに来たんだよ」
一層サスケの手の平に爪が食い込んだ。カナはその背を、静かな気持ちで、火照る体を感じながら、見つめていた。
「ふざ、けんのも......大概にしろ、カナ......!」
「......私がふざけてるだなんて、サスケだって思ってないでしょ。私は本気だよ......サスケ」
サスケの脳内に渦巻く様々な感情。
もしその中でただ欲望だけを選んでしまったならば、きっと話は簡単になるのだろう。
だが、サスケはそれを選べない。全ての想いをサスケは捨てなければならない。心の奥深くに残る憎悪、それを本気で掴みとるためならば、サスケは今、一時の衝動に突き動かされるわけにはいかなかった。
それに、サスケは知っている。
木ノ葉を心から愛し、笑っていたカナを。
「何を言われようが、連れて行くつもりはない......さっさと帰れ」
サスケは低い声でカナを跳ね返していた。しかしカナの表情は変わらない。
ただ、体の火照りが顕著になっていく。
「帰れって言われても......私にはもう、帰る場所なんてない。もう、決めたんだから......帰れないよ」
「お前の居場所は木ノ葉だ。お前のいるべき場所は、あそこだろ」
「違うよ。私はサスケの隣にいるために戦ってきたんだって、そのために力をつけたんだって、それは......サスケが言ってたこと、でしょ?」
「............忘れた」
「私が、覚えてる。絶対に、忘れたりなんて、しない」
不規則に途切れるカナの声に、サスケは僅かな違和感を感じたが、何かを言うことはできない。
それでもカナは、ただ自分の中に溢れる想いを口にしていた。カナができることはそれだけだった。
「それだけじゃない......約束だってした。"一緒に生きよう"って」
鮮明に覚えている、うちはがサスケだけを残して消えた夜、それを越えた日の約束。サスケの脳裏にもあの病室が映る。イタチを殺すという憎しみが感覚全てを支配していた時、いつしか見えた温かな光。
カナの笑顔。
けれど。
「......忘れろよ」
その一言が、カナの胸に沈んでいく。同時に、サスケの痛いほどの想いを感じてしまう。
一族を殺された痛みはカナも知っている。カナは復讐には走らなかったけれど、だからといってサスケに復讐をやめろなんて言えない。他人に言われて捨てられるほど弱い感情ではないから。
それをカナは身にしみて分かっている。サスケの復讐への執念が、サスケに決断を迫ったのだと。
だが、カナにも捨てられない想いはある。
「忘れない......忘れられる、わけがない。サスケと過ごした時間は、それほど......大切なんだから。捨てられない......私はいつまでも、忘れられないよ」
「......っお前は......!」
「私は、もう、決めたの。サスケにどこまでも、ついて行くって」
色がなくなっていく、震える唇でカナは紡ぐ。
サスケはやはり振り向かない。二人の体を打ち付ける雨は未だ止まらない。カナは必死で、サスケも必死だった。
自分の想いを伝えたいカナと、それをはね除けなければならないサスケはーー。
"一緒に生きよう"。
いつかの幼い二人の声が甦る。
「サスケが、ついて来るなって、言っても」
カナの視界が次第に霞んでいく。
「つながりなんてものも、なくったって、いいから。......お願い」
それでもその記憶だけは鮮明だった。
「お願い、だから」
カナとサスケ、幼い二人の、泣き笑った顔。
今まで耐えてきたものが、カナの中で限界を迎えていた。
たった一筋だけの涙は頬を滑り、雨に紛れて消えてゆく。
「そばに、いさせて........?」
ーーーその言葉が限界となったように、カナの体は、唐突にぐらりと崩れ落ちていった。
熱をもったカナの体は、今にも水浸しの地面へと倒れ込みそうになる。
しかし、それを寸での所で受け止めたのは、紛れもなくサスケ。
異変を感じて一瞬でカナを抱きかかえたサスケは、確かに気を失っているカナを見て、ぎゅっと瞼を閉じていた。
「......この、ウスラトンカチ......。忍のくせに、熱出して倒れてんじゃねぇよ......バカ......」
ーーーサスケは、暫くそうして、意識の無いカナを抱きしめていた。