第九十九話 決意の先に


「何だって!?それは本当か!!」

綱手は勢い良く立って叫んだ。勢いに負けた椅子がガタンと音をたてて倒れる。火影室のドアの前にいるサクラは、綱手の豹変ぶりに驚いて体を強ばらせていた。
『カナが、サスケ君を追って......』の、その一言だった。
しまったと唇を噛む綱手。口紅の苦さがその口の中に広がる。綱手に自責の念が押し寄せた。

ーーこれでは、最悪のケースになりかねない。



紫珀が上空に飛び立つ。それを合図とするようにカナは一旦後方に下がり、大木の枝を借りて前に跳んだ。

「(速い!)」

カカシは目を見開いて、咄嗟の判断でそれを放った。するとカカシを通り過ぎて前へ突き抜けようとしていたカナは唐突に止まる。ワイヤーがカナの腕に絡んでいた。

「今日は珍しく先生に反抗するね、カナ」
「......いつでもいい子な生徒ってわけにはいきませんよ」
「そりゃ悲しい、なっ」

ぐっとワイヤーを引っぱりカナを引き寄せるカカシ。だがカナは寸での所でワイヤーを風で切り、カカシの立つ枝に深くしゃがみこみカカシの足を払った。無論それをまともに受けてしまうカカシではなく、くるりと退いたカカシはカナの喉元にびっとクナイを突き付ける。ーー金色の瞳がカカシを映した。

「そんなので......」
「止まらないんだろうな、お前は。......パックン」

「なんじゃ」と戦闘タイプでない忍犬はカカシを見上げ、そしてカカシの意思を察した。忍犬がたっと走り去ったのは数秒のことだった。それを見ていたカナはぽつりと言う。

「カカシ先生、こんな争い、」
「時間の無駄だというなら、言う事を聞くか?カナ」

静かな声で遮ったカカシは、クイと自分の額当てを持ち上げた。写輪眼はカナの異常な能力の跳ね上がりを見たからこそだ。
......カナは目元を隠して口を開く。

「いいえ」

ゴウッと銀色の風が吹き、カカシをはね除けたそれと同時。カナはひらりと宙を舞いーーーそのまま何も無い空間に"停止した"。
僅か目を見開いたカカシはすぐに思い出す。

「("風使い"......)」

そして、カナの目に宿る金の色。
カカシの脳裏に嫌が応でも流れたのは中忍第三の試験予選の光景。だが、今はカナが我を忘れているようには見えない。カカシの知らないところでカナは力をつけ始めているのだ。少女は最早ただの教え子ではない。

「......本気なんだな、カナ」
「......しつこいですよ、カカシ先生......」
「お前がいくら本気を出そうとも、まだオレには敵わないぞ」
「私の目的は先生の先を行くことだけです。敵わなかったって、抜くことくらい」

カカシのほうが一歩先にカナへと跳び上がる。それを避けたカナは無駄な動き一つなく前へ進む。
だが、カカシが放った手裏剣がカナの行く先を遮り、カナは一瞬の制止を強要された。

「そう簡単には行かせないさ」

一瞬で距離をつめたカカシの蹴りを受け止め、カナはきゅっと眉根を寄せる。振り払ったカナもまた蹴りを放ち、受け止められた瞬間に跳び上がった。

しかしーー風遁、とカナが口に出すのはあまりにも遅く、カカシのほうが素早かった。
拳を。ただし、全力とはほど遠い拳を、カナの腹に打ち付けていた。

「......!」

カナが目を見開いたのは、痛みのせいではない。カカシの優しさの断片を拾ってしまったからだった。ふわりと甦ったカカシの温かい笑顔ーーー

カナはそれを振り払うように、今度こそ攻撃を試みる。衝撃で反った体でそのまま枝に手をつき足を振り上げる。カカシの頬にそれが擦る、それを見て思わず目を瞑ったカナは、バク転して一度後方に下がり、それからカカシに手刀を振り上げた。
それは今度こそ、カカシの首に入った。

「ぐっ...!」

呻いたカカシ、歯ぎしりするカナ。カナはすぐに退こうとする。
しかし、その手をカカシの手がぱしっと掴んだ。

「迷いがあるから......遅い。......震えてるぞ」
「...!」
「もうやめろ......こんなこと」

おかしなほどにカナが震えているのは一目瞭然だった。
カカシを見上げたカナの金色。その中には確かな意志があると同時に、カカシを見る目には甘さが抜けきっていない。......それが、当然だった。何より仲間を大切にしてきたカナが、どうしたってカカシに本気の牙を向けられるはずがない。

「......何を苦しんでるのか、オレに言え、カナ」
「何、言って......先生は、何か勘違いしてるんじゃないですか!私はただ......」
「オレを甘く見るなよ。......お前はただサスケを連れ戻しに来たって顔をしてない。昨日から悩み続けてた事はそんなんじゃないだろ」
「......っそんなことない!!」

せめてもの意地を張ったカナは叫び、カカシの手を払いのけ、すぐに背後に跳んで一定の距離をとった。
カナの息が僅かに上がっているのは体力のせいではないだろう。それでも、切羽詰まったような顔で印を結ぶカナ。そうして術名を言おうとするがまたしても躊躇する。

「幻術か?...オレに幻術が効くなんて思ってないだろ」
「......風璃(かざり)!」

迷いを吐き出すようにカナがぎゅっと目を瞑ったその瞬間、カカシの目前の光景は変わっていた。カナがその場から消え、視界が深い青色に染まる。

「(...空?)」

ーーそれも遥か上空の。突如宙に放り出されたカカシは、すぐさま体を圧迫する痛みに気付いた。
写輪眼は幻術を見抜く。...しかし、カカシはすぐにはそうしなかった。

痛みは続いた。それどころか更に強くなっていった。次第に空気が薄くなっていき、呼吸まで困難になってきた。だがそれでも、カカシは全てを見抜いていたーーーいつしか弾けとんだであろう幻の体への恐怖よりも、カカシにはその確信のほうが強かった。


「......ホラ、な」


ぽつりと呟いた時には、カカシはすぐさま逃げる銀の色を追っていた。
ーーカカシが解くまでもなく、幻術のほうが勝手に消えたのだ。
現実に戻ったカカシの目の先で飛び去っていくカナは振り返りもしない。

「............」


ふらり、とカカシの体が横に傾いた。


「!!?」

振り向いたカナが気付いたのは早かった。

「先生ッ!?」

目を丸めたカナは、なんの疑いもなく落ちゆくカカシを追っていた。ーーそれが罠だとも気付かず。
地面と衝突する前にカナがカカシの腕を掴もうとした時、逆にカカシの手がカナの腕を掴んだのだ。

カナが目を見開く暇もない。
カカシが身軽に地面に着地し、再び枝の上に跳び上がった時には、カナの体はカカシに包まれていた。

「騙して悪いな、カナ。だが......やっぱりお前は優しい子だよ」
「......!!」
「風遁術を使えないのも......オレに体術を仕掛けようとするたびに目を逸らしてしまうのも、お前には仲間を傷つけるなんてできないからだ。お前は優しすぎる」
「は、なし......はなして!!」

カカシの腕の中で喚いたカナだが、カカシは更に力強く抱きしめるだけだった。

「言っただろ......一人で抱え込むな。オレたちはいつでもお前の味方なんだ」
「なにを......何の話ですか!!私は、ただサスケを連れ戻すために、今......木ノ葉の忍、として......!!」

カナはぶら下げている両の手を強く握りしめていた。そしてカナが脳内で唱えるのは自分への抑制ばかりだった。本心では縋りたい想いを、カナは今、必死で押し殺していた。

「(私は...!)」

...ただし、それはカカシを拒絶する確かな力にもなり得ないものだった。

そんな少女の葛藤を前に、カカシは思う。この小さな体が背負っているものを。いつも笑って他人の事を気遣うくせして、自分の弱味や重荷を何一つ他人に見せようとしないこの小さな存在を。
ーーしょうがないんだろう、とカカシは思う。カナは大切な人を二度と失わない為に強くなってきた。昔から、ただそれだけだった。

「(けど......カナ、お前はまだ)」

小さな少女を、カカシはただただ包み込んでいた。


「カナ......お前はまだーーー弱いんだよ」


襲いかかってくる闇を全て自分だけで背負っていられるほど、強くないんだ。

カカシが言った瞬間、カナはびくりと震えた。
しかし、それと同時だった。

「!!」

カカシは突如胸に衝撃を覚え、カナの温もりが一瞬で消えた。痛みこそなかったものの、カカシは思わず背後に跳んでいた。


「ざけんな」


カカシの耳に聞き覚えのある声が届く。そうして衝撃の正体に気付いた。今 カナを引き寄せているのは、金の瞳に紫色の髪の毛の青年ーーー
「人型......紫珀か」とカカシが察するのは早かった。ギロリと睨む青年の瞳は、カカシがあの岩場で見た事のあるものだ。

「手出しはせんと思っとったんやけどな。カナを侮辱するんやったら別や」
「......相変わらず、カナにだけは従順だな。カナがこれからどうするのか、お前は知ってるのか?」
「フン。例え知らんでも、オレはコイツを信じとる。せやからオレはコイツを支えるだけや」

俯いているカナを、紫珀はそうっと放す。カナは暫く黙ったままだったが、数秒後にはゆっくり顔を上げ、金色の瞳のままカカシを見据えた。先ほどまでそこに深く混ざり込んでいた焦燥の色は薄くなっている。
カナ、とカカシが声をかけると、カナは一度 唾を呑み込んでから言った。

「確かに、私はまだ弱いかもしれない......けど......それでも貫きたい意志はあるんです......!」

カナとカカシの視線が絡み合う。

「......だが、オレもお前を行かせるわけにはいかない」

カカシが厳かな声でそう言うと、一歩踏み出したのは紫珀のほうだった。"それ"に気付いたのは長年紫珀を相棒としてきたカナのほうが先だった。

「動いてみィや」

カカシが気付いたのは、そう言われてからだった。ーーーぴくりとも動けなくなっていたのだ。

「な......!?」
「オレもそんな忍術使えるわけやないねんけどな......いくつかは役に立つ術ももっとる。封印術ばっかやけどな。今のは初歩の初歩、対象に触れることで烙印打って、チャクラ練りこんで動き止める"止法の形(しほうのけい)"。さっき突き飛ばした時にやらせてもろたわ」
「......!! そんな術を持ってるのなら、何で初めから使わなかった?」
「言うたやろ。手出しするつもりはなかった。これはカナとお前の戦いやったんや。あんなこと言わんかったら、カナを止められとったかもな」

スッとカカシから離れ、「封印時間は四半刻。加減したったからな」と通り過ぎ際に言う紫珀。つまり三十分ーーそれだけあればカカシがカナに追いつく事ができなくなるのは必至。

ギリとカカシは歯ぎしりする。その背後で紫珀は鳥型に戻り、視線だけでカナを促した。カナもそれに気付いて、数秒俯いてからカカシを見た。

カカシの目は訴えていた。行くなと叫んでいた。だが、カナがそれに従う事はできない。
ぐっと足に力を込め、カナは前に進む。カカシとの距離が小さくなっていく。

カカシはそれでも腕を動かそうとしたが、やはり叶わなかった。
写輪眼でカナを捉えることはできるのに、カナを止めることは叶わなかった。

無念にその力ある瞳を閉じる間際ーーーカナの無言の唇だけを、写輪眼は確かに読み取っていた。


「─────」


静かに。カカシは、驚愕に目を見開いた。

風だけが唸り、カナはカカシから遠ざかっていく。紫珀の背に跳躍したその瞳は元の色へ。
強き想いだけを胸に、カナは前方を見つめた。



激しい力のぶつかり合った衝撃は、どこまでも伝わるようだった。誰しもがハッと顔をあげるほどにそれは大きく、強く、禍々しく、けれど、哀しい力。

決着だった。

サスケの額当てには一つの傷が走っていた。しかし、倒れているナルトのすぐそばに立つサスケは、そんなものは一切気にしなかった。広がる雨雲の隙間から差していた僅かな光が全て消えた時、謀ったようにサスケの額当てが緩み、落ちていった。
からん、と一つ、音が響く。

「ナルト......オレは......」

ナルトを見下ろすサスケが蚊の鳴くような声で呟く。その言葉の先に何を続けようとしたのか。それは、ぽたりと降ってきた雨に遮られていた。やがて大降りになっていき、サスケとナルトを打ち付けるーー。
それはまるでこの結末を責め立てているかのように。
突如痛んだ体に膝を折ったサスケは、目前に迫った誇り高き印に目を奪われていた。



「......間に合った」


そんな彼の姿を、視界に入れた者がいた。紫珀から飛び降り、初代火影の石像に立ったカナだった。
目尻を下げたカナはおもむろにこの場を見渡す。

対峙する初代火影・千手柱間とうちはマダラの像。木ノ葉創設時代の二人の戦いの最終地点ーー"終末の谷"。そこでナルトは倒れ、サスケは雨に濡らされている。
二人がこの場所で戦ったのは果たして偶然か、必然か。

「死んでへんやろな。あの金髪のガキ」
「......大丈夫。ちゃんとナルトのチャクラも感じるから......」

身を屈めて言う紫珀にカナは静かに返す。
だが、不意に全身に痛みを感じ、耐えきれず膝をついていた。顔を歪めて首筋を抑えるカナ。
紫珀が顔を覗き込み「平気か」と声をかける。

「その呪印......"神鳥"、朱雀ってヤツが言うとったってお前言うたよな。"神鳥"の本来の力を抑えるモンやって」
「......うん」
「さっきの戦闘での目、無理やりに力引っ張りだしとるっつーことやろ?......気ィつけや。あんま使い過ぎたらどうなるか分からんで」

カナは無言でこくりと頷いた。雨に当たっているせいか、酷く熱い体を無視しようとした。
ゆっくりと立ち上がったカナはただサスケを見つめる。復讐を背負う少年は、ゆらりと立ち上がり、覚束ない足取りで森の奥へと消えようとしている。

紫珀はその様子を見てチッと舌打ちした。

「あの阿呆......さっさと追いかけなすぐ行ってまうで......」
「......そう、だね」

カナは、目を細めてサスケの背中を見ていた。
サスケの背中の紋章は戦闘のせいか、無惨にも破れていたが、カナはその背が担う誇りが目に見えるようだった。うちはの誇りを潰した兄の復讐のために、サスケは力を求めて行こうとしているのだ。その想いは例えカナであろうともサスケから奪うことはできない。

カナがこうして決断して立っているように、サスケにも同様の決心があるのだから。

「ありがとう、紫珀。......ごめんね、無理言って」
「阿呆。さっさと行ってきィ。......オレ様があの野郎を一発ぶん殴ってやりたいとこやけどな」
「あはは......殴って、くる?」
「......やめとくわ。野暮なことやろしな、んなの。オレは帰って......」

紫珀の声は唐突に止まっていた。
紫珀はカナでもその変化が分かるほどに一瞬、震えた。
眉間に皺を寄せ、雲に覆われた空を見上げる金の瞳が、敏感にチャクラに反応していた。

「......すぐ帰ろうと思てたんやけどなァ」
「え?」
「............行くとこできた。用終わったら勝手に帰っとくわ。......じゃあな」

雨水で少し重くなった羽でバサリと羽撃いた紫珀。お得意の力強い笑みをかけた後、遠ざかって行く相棒を、カナはじっと見ていた。そうしてもう一度「...ありがとね、紫珀」と呟く。

ぎゅっと瞑った瞼の裏に浮かんだのは、カナの愛した日々ーーー
それを振り切るように、カナは決起して飛び降りた。



たった一つ、"空"という字が彫られた指輪が宙に浮く。そして、それをパシンと掴む青年の手があった。

北波は鬱蒼と茂る森の中、大樹に凭れて指輪を弄んでいた。ただ、不機嫌そうな顔色は否めない。その原因はまさに手の中の存在にある。
指輪に彫られた装飾はただ一つの漢字、だが、その裏に血文字で"寄"と描かれているのである。

「余計なことしやがって......」

忌々しそうに北波は呟く。ーーーこれは北波への戒めだった。元の持ち主である大蛇丸が前もって備えていた為のものなのだ。

十二時間。
それを過ぎるとこの術式の効果は消える。だが、それまでもし北波が勝手な事をした場合、術者である大蛇丸が口寄せされるという、色んな意味で嫌な効果が現れるのである。

器が遅かったせいで、大蛇丸は既に転生を済ませたという。"うちは"の肉体でないなら北波にもまだ分があるが、北波は自身が属す組織のリーダーに既に言い含められている。死ぬような危険は犯すなと。

『サスケ君の里抜けにカナちゃんが動かないはずがない......少なくとも木ノ葉からは出るはずよ。そこを狙って、連れてきなさい。それだけしてくれたならお前を"暁"に返してやっていいわ』

大蛇丸の蛇のような、捕食者の視線を思い出し、北波は大きく舌打ちをした。


「(いつになったら、オレは......)」


北波がそう思った時だった。
上空から雨音に混じって羽音が耳に届き、北波は大樹の葉の傘から一歩出てそれを確認した。ーーだがその顔には始終、さした感情の振れ幅は見当たらなかった。

ポケットに指輪を持った手を突っ込んだ北波は、ゆっくりと舞い降りた"見知った顔"に、いつものような笑顔を貼付けた。

「よォ......。久しぶりだな。十年ぶりくらいか?」
「......せやなあ。お前が勝手に消えてからもうそんくらいになるか?......なァ、北波」

ーーカナの忍鳥、紫珀は痛いほどの視線で、北波を睨んでいた。
カナを見ていた時の柔らかい視線は影も残らず、紫珀の口調はひたすら刺々しい。

「お前のおかげで"あの時"は散々やったわ......軽い気持ちでちょっと離れとった間によくもまあやってくれたな。帰ってきたらお前はおらんわ、誰もお前のこと覚えとらんわ、オレ様が喋ることに不気味がられるわ......」
「......そりゃあな。オレについての全ての記憶を消したんだ。お前のことを覚えてたら矛盾が生じるだろ?」
「............"神鳥"の情報流して......風羽を大蛇に殺させたんは、お前か」

紫珀の声が震え始める。だがそれは恐怖や悲哀によるものではないということは、紫珀自身も聞いてる北波も判っている。
二人の脳内に流れる同一の記憶。今 二人がいるこの場所のように草木で生い茂っていた場所。そして、必ず浮かぶのは、あの幼い微笑みーーーだが。

「聞くまでもなく分かってんだろ......お前はあの時から分かってたはずだぜ、オレが風羽に復讐したがってたことは」


ーーー紫珀はそれで、自分を制する釘を外した。


「何でや北波!!オレは言うたやろ!?それを無視して復讐して、お前の心は満たされでもしたんか!!」


紫珀は最早、怒鳴り散らしていた。その声には憎しみなどというより、もっと複雑な感情が混沌としていた。
胸に突き抜けた想いを吐き出した紫珀の声が雨音に消されていく。
しかし、北波はどこまでも冷静に、ただ氷のような無表情になっていた。

「......うっせえよ。満たす満たされねえの問題じゃねェ......憎いから動いた、それまでだ」

北波の答を耳に紫珀は顔を歪める。紫珀の脳内に懐かしい過去の記憶が流れていく。
変わってしまった全て。二度とは戻れない思い出。紫珀が心の奥底で取り戻したいと願う光景は、もう絶対見れるものではない。

「(何でや...!)」

紫珀はもう一度唱える。

「カナは......カナは、お前にとって......あの頃のお前にとって、どういう存在やったんや......」

嘆願のような声は、しかし。
俯いていた北波が顔を上げたと同時に、拒絶された。

「アイツは、ただの......復讐に使うためにあった......道具だ」

「なッ...本気で......本気で言うたんか、今の」
「......当たり前だろ。それ以上もそれ以下もねえさ。アイツを道具以外に思ったことなんて」

感情の籠らない声。それを耳に、紫珀の中に怒りの感情が津波のように押し寄せる。ボンと煙をあげ、途端に人型となった紫珀は、刹那で北波の胸ぐらを掴んでいた。
紫珀の金色の目には、炎が燃えたぎっているようだった。怒濤の表情。しかし、それでも北波はやはり顔色一つ変えることはない。それが更に紫珀の激情を高ぶらせる。

「見損なったで、北波......!!」
「......フン」

ーーーしかし、それでも北波のほうが一枚上手であった。紫珀が反応できないスピードでその手を紫珀の額に打ち付けていたのだ。

「くッ...!」

ズキンと額が痛み、紫珀は手の力を緩めて顔を歪める。北波が呆気なく紫珀の手を外すと、それだけで紫珀は後ろに尻餅をついていた。
紫珀の額に現れた烙印。シュウ、とその部分が煙を上げる。

「今更そんな事言ってどうすんだよ、紫珀......。もう終わったことなんだ。過去には戻れねえし、戻るつもりもねえ。オレはそれを背負って生きてんだよ」

ぼやくように言い、北波は歩き出す。体を打ち付ける雨も気にせず紫珀から遠ざかって行く。額を片手で抑える紫珀は、目で追いかけることさえしなかった。ただぼそりと呟いていた。

「後悔は......しとらんのか......?」

覇気のない声。しかし、北波の耳には届いていた。足を止める北波。

「......さあな」

それだけ返して、北波はまた歩き出した。
紫珀は悔しげに歯ぎしりし、砂利を掴む、そしてボフンと音をたててその場から煙となって消えた。

その音を聞いた北波は、呟く。

「封印忍術、"退玖の形"......口寄せ動物を返す技だ。悪く思うなよ、紫珀。お前とぐだぐだ喋ってる時間なんてねェんだ」

そうして北波もまた一瞬で消えた。
無人の空間に雨だけが降り続く。水たまりに葉伝いに落ちてきた雫がぽたんと落ちた。


 
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