第八十七話 涙


ぱちゃん。

連続的に続いている水音。自来也の蝦蟇口縛りから逃げたイタチと鬼鮫は水上を走っていた。ーーその鬼鮫の肩には、カナが抱えられたまま。
S級犯罪者二人があの状況下で、幻術を使ってまで逃亡に出た理由は一つ。イタチが木ノ葉にてカカシに、先ほどサスケにも使った"月読"、脱走に使用した"天照"がイタチのスタミナを大幅に削ったためだ。

無言で走り続けていた二人だが、ある時、不意に鬼鮫は空を見上げていた。
鳥だ。数羽の鳥がイタチと鬼鮫を追いかけつつ、二人のほうをその円な瞳で見つめているーーいや、正確にはカナか。

「さすが風羽一族ですねェ。鳥に好かれているようだ」

同じようにイタチも顔を上げ、漆黒の瞳で鳥たちを映した。鳥と視線を交わしたイタチは唇を結んだまま。鳥たちはじっと二人を、カナを見つめていた。
何も語らない嘴。だがその瞳に宿る感情は明らか。まるで、心配しているか如く。

ーーイタチは、止まっていた。
反応しきれず、鬼鮫も僅かに目を丸めてから急停止する。どうかしましたか、と鬼鮫が問えば、イタチは僅かに目を伏せていた。

「......一度、体を休める。岸に上がるぞ」
「...分かりました。そうしましょう。ま、私も少々疲れましたしね」

鬼鮫が行動を止めたことに嬉々とした様子で、鳥たちはゆっくりとカナの体の上に舞い降りた。
つんつん、とその小さい嘴がカナを突つく。それを感じたのか、カナは僅かに反応を示していた。

だが、カナが目を覚ますことはまだない。深い深い眠りに落ちている少女は、あの一晩の、懐かしく、そして哀しい夢を見ていた。



ーーこれは、遠い過去の記憶。

幼いカナは空を見上げていた。青々とした雲一つない晴天だった。争いのない、平和な木ノ葉の空だった。
鳥が飛び交っている。子供たちの声が響いている。朝の匂いが充満している、それだけのことが、カナは好きだった。幼いながらに何気ない日々を幸福と知っている少女がそこにいた。

木ノ葉の町中の塀にもたれ、そうして一人の世界に入っていたその少女は、不意に顔を上げて手を振る。それもまた、何気ない日々の一つ。

「おはよ、サスケ!」
「オウ。はよ、カナ」

控えめな笑顔。サスケはいつもと変わらない格好で姿を現した。何気なく二人は歩き出し、何気ない会話を交わし出す。

「宿題、してきた?」
「当たり前だろ。あんな簡単なヤツ、すぐ終わったぜ」
「......簡単っていうけど、それは、サスケだからなんだからね。昨日はおじいちゃんも忙しそうだったから見てもらえなかったし」
「バカ。あれくらい、一人でしろよな」
「酷いなあ......後でヒナタに教えてもらお」

ずっと続いてきた日々に、何の変化もなく。ーー徴候があったとしても、気付くはずもなく。

「あ、そういえば、さっきイタチお兄ちゃんに会ったんだ」
「兄さんに?何か話したのか?」
「ううん、考え事してたみたいだったから。おはようって言ってやっと私に気付いたくらい。もっといっぱいお話したかったんだけど...」

お仕事だろうし。と、カナが口を尖らせると、ふうん、とサスケは返事をする。その表情が今朝のイタチと同じ色にカナには見えた。だがその意味にカナが気付くはずもなく、変なの、とだけ心中で呟き、終わっていた。

二人は他愛のない会話でアカデミーまでの道のりを繋いだ。
刻々と迫る制限時間にも気付かずに。


その日も、やはりいつもと変わらない日常が、忍者学校にも流れていた。あまり好きではない座学の内容でも耳に入れながら、カナは教材を目に頬杖をついている。それなりに授業を受けているカナだが、常に心根に思っていることはただ一つ。自身の望む力は、この内容の中にあるのか。

「(強くなりたい。おじいちゃんや、アスマさんや、イタチお兄ちゃんくらい強く。二度と、大切な人をなくさないために)」

その想いは演習の時も変わらない。手裏剣を両手に構え、教師の指示に従って投げる。
カナが放った忍具は一つも逃れず、中心とは言わないが、的に刺さっていく。だがどれほど賞賛されようともカナは納得しなかった。カナの脳裏に流れる映像があったのだ。ーー視界にない的でも手裏剣で中心を貫くことができる、イタチの姿。あのレベルにカナが達するのはまだ相当かかる。

だが気を入れ直して再び構えたとき、カナは耳に届いた黄色い声に行動を止めていた。不思議に思ったカナは振り返る、と、その瞳に映ったのは幼なじみが女子の囲いの中、手裏剣を全て的の中心に当てた姿。

「(......まずは、サスケに追いつかなきゃ)」

唐突にサスケと目が合ったカナは、得意げに笑ったサスケに気付いて頬を膨らませた。



「ーーーでね、サスケったら一つも的の中心から外さないんです!それはすごいって思うけど、それで私に笑って......私はうまく真ん中を狙えないのに」
「ふふ...サスケはカナちゃんにいいところを見せられて得意なのね」

うちは家。
カナはサスケとイタチの母であるミコトに今日の出来事を無邪気に話し、ミコトはそんなカナを柔らかな目で見つめていた。
授業が終わるとカナがいつも訪れるこの家には現在、カナとミコト、それから別の部屋にフガクがいるのみ。兄弟はまだ帰宅していない。通常ならカナとサスケは一緒に帰宅するのだが、本日の締めくくりはくノ一組の特別授業であったので、いつも通りとはいかなかったのである。

ほぼ毎日通い慣れているとはいえ、サスケもイタチもいないとなるとカナは帰ろうとしたのだが、「カナちゃんしか知らないサスケが知れて嬉しいのよ」とミコトに微笑まれれば、カナが断る理由はなかった。

「それにしても、サスケがそんなに女の子に人気だなんてねえ」
「いつものことなんですよ。帰る時だって、時々女の子からお誘いもらってるみたい」
「へえ。それで、カナちゃんはそんな時どうするの?」
「私?......うーん、何も言わないかなあ。でも、今まで女の子の話をマジメに聞いてるサスケは見たことないかも」

あらあら。そう言ってクスクスと笑うミコト。「カナちゃんはそんな子たちとは違うのかしら?」というミコトの質問に、カナは首を傾げてから「よく分かんないです」と応えた。そうしたらミコトがまた可笑しそうに笑うので、カナは余計に首を傾ける。

「サスケは大変ね」
「え?どうして?...そんなにおかしかった?」
「いいえ、おかしくなんてないわ...ふふ」

それでもまだ笑うミコトの真意はカナには分からなかったが、それでもカナも吊られるように笑っていた。
すると唐突に襖が開き、そこに立っていたフガクにカナは笑いかけた。

「こんにちは、フガクさん」

だが、そう言うカナをじっと見ていたフガクは「ああ」と返した後に僅かに苦笑した。

「...といっても、もうこんにちはという時刻でもないが」

その言葉にカナは、更にミコトもやっと気付いたのである。ハッとしたカナはすぐさま庭に繋がっている襖を開けた。すると入ってきたのはひんやりとした夜風で、空には既に星が煌めいていた。
カナがうちは家を訪問したのは夕方。この時間になるまで、カナもミコトも会話に夢中で気付かなかったのである。振り向いたカナは慌てて頭を垂れた。

「ご、ごめんなさい、こんな遅くまで。サスケもお兄ちゃんも帰ってこなかったけど、もう、帰りますね」

謝るカナに、ミコトも「私こそ気付かなくてごめんなさいね」と苦笑する。いいえ、と返事をし、じゃあお邪魔しました、と笑ったカナは、すぐに玄関のほうへ向かおうとした。

「?」

そのカナの肩をフガクの手が引き止めていたのだ。ハテナマークを頭にフガクを見上げたカナ。フガクは、しかし、カナから目を逸らしていた。

「夕飯を食べていきなさい。火影様には伝書鳩を飛ばしておこう」

意外な言葉が降ってきて、カナはきょとんとする。だがフガクはそれっきりまた襖を開けて出て行った。うまく頭がついていかなかったカナが困ったようにミコトを見れば、ミコトもまた柔らかく微笑んでいた。
「相変わらず カナちゃんには甘いわね、あの人」と一人言を一つ、ミコトはカナの身長に合わせるようにかがむ。

「あの人もああ言ったことだし、ここで夕ご飯を食べていってね。腕によりをかけて作るから」
「...いいの?」
「もちろん」
「...えへへ、ありがとうございます!」
「一つだけお手伝い頼んでいいかしら? まだ帰ってこないサスケも心配だし、お迎えに行ってきてくれる?またアカデミーでお稽古でもしてるんだろうけど...」

それをカナが断る理由はない。カナは快く「はい!」と返事し、今度こそ玄関のほうへ向かった。履き慣れたサンダルに足を通し、一跳ね。茶色の瞳が振り返ればミコトが笑って「お願いね」、と口にする。幼いカナは大きく笑って「行ってきます!」と扉に手をかけた。

だが、そうして暗がりの中に出た途端、カナは何かにぶつかっていた。ぼすん、と音をたてて。
反発で思わず後ろによろけたカナーーだが、温かい手がそれを引き止めた。惚けたカナが目を上げれば、そこには見慣れた顔があった。

今の今までカナが帰宅を待ちわびていた、うちは家の長男が、酷く驚いた顔をして、カナを見下ろしていた。

「カナ......どうして」

その反応は尋常ではない。しかし、首を傾げたカナが何かを言う前にミコトの声がかかる。

「あら、イタチ。おかえり、任務は終わったの?」
「.........ああ」

かなり間を空けたあとにイタチは答える。まだカナは手を掴まれた状態だ。「イタチお兄ちゃん?」とカナが呼べば、やっとイタチはカナを放した。ようやく平生を取り戻したイタチの表情は、しかし、今度はかなり重いものとなっていた。カナには無論その理由がわからない。

距離の為に息子の異変が見えないのだろう、母は常日頃と変わらない口調で言う。

「ちょうどいいわ、イタチ。サスケがまだ帰ってこないのよ。カナちゃんと一緒に迎えにいってあげてくれる?」
「.........ああ。分かった」

瞼を下ろしたイタチ。その様子をカナがじっと見ていれば、その手が急にカナの手を掴んで歩き出す。行ってきますも何も無い。思いがけなかった行動にカナは引っ張られるような形になり、急いでイタチと並んで歩幅を懸命に合わせた。
何かから逃げるように歩くイタチは、今、カナをあまり意識していないようにも見える。

「(...いつものお兄ちゃんじゃない...)」

少しの間 口を噤んでいたカナは、そのうちおずおずと口を開いた。

「......だ、大丈夫?お兄ちゃん」

イタチの目がようやくカナに向けられた。その瞳の色はやはり今までのどれとも違う。

「顔色悪いよ......何かあったの?」

だが、僅かに歩調を緩めたとはいえ、イタチはカナの問いに応えなかった。
居心地が悪くなって、カナは俯いてしまった。暗闇に目立つ家々の灯りと月明かりのみがうちはの集落を灯している。淡い光がカナを引っ張るイタチの手を映す。カナにはその手が若干汗ばんでいるように思えた。

うちはの集落の出口が近づき始めた。
暖簾に描かれたうちはの家紋を目に、カナは何故か唇を噛み締めていた。
それまでの道のりで無言だったように、そこを通る時も言葉は一切なかった。サスケの姿はその先の道にもない。

「(.......もう真っ暗なのに)」

早く迎えにいかなきゃ。
だが、そうしてまた踏み出そうとしたカナは、自分の体を引き止める力に気付いていた。

「......どうしたの?」

イタチが歩を止めたのだ。
おずおずとイタチを見上げたカナは、僅かに顔を強ばらせていた。
イタチの表情が恐ろしかったのではない。イタチの深く沈むような真っ黒の瞳が何を見ているのか、カナにはまるで分からなかったのだ。

「カナ。一人で、行ってくれるか」
「......どうしたの......?」

同じ質問を繰り返すカナ。すると、不意にイタチが微笑み、カナは息を呑んでいた。


「大事な用があるのを......思い出したんだ」


それは、微笑みではあるけれど、いつもと同じ微笑みではなかった。

だがカナの胸はずきりと痛んだ。分からずとも、何かを感じた。だがカナがそれ以上何か言うことはイタチが許さなかった。
イタチの手が、柔らかくカナの背を押した。イタチは何も言わないが、行け、と暗に言われていることだけは分かった。

それでも、カナは行ってはいけない気がした。しかし、振り向いて見えたイタチの表情に、カナは最早何も言えなくなっていた。
だからせめて、カナは走り出していた。すぐに戻って来ようと。
慣れたアカデミーへの道を、振り返ることもせず。



あまりに必死だったためか、カナはサスケと出会い連れ立って集落まで帰った道を覚えていない。カナが記憶しているのはただ、疲れも知らずに走り続けた事だけだった。おかしなほどに暗い道を。
電灯も月明かりもあったはずが、その道のりは酷く暗かったことを覚えている。



カナに引っ張られて来たサスケのほうが疲労は大きかった。
集落の前に付いた途端、カナもサスケも崩れ落ちる。小さな少年少女は夜闇の中でうずくまっていた。サスケは大きく肩を上下させながら、何故かここにいる幼なじみを睨んだ。

「な、なんだってんだよ、カナ......何でこん、な急いで......ていうか、なんでお前、こっちに帰って来てるんだ、」

だが、両膝に両手をつくカナは、サスケを振り向かなかった。息を切らしてじっとその茶色の瞳が見る先は暖簾のうちはマーク。いつしか息を整えたカナは、ようやくしっかりと立ち上がり、前方を見据える。カナを訝し気に見ているサスケも倣うように立ち上がった。

満月が二人を照らし、影を作っている。
カナはやっとサスケのほうを向き、どこか深刻そうな顔つきで口にした。

「行こう......サスケ」

その手がサスケのそれを掴む。引っ張る。
うわ、とサスケは気の抜けた声を出し、慌ててカナの後を追う。サスケも自然と握り返し、二人は手を繋いだ。サスケには何から何まで意味がわからなかったが、僅かにカナの空気に感化され始めていた。

二人は同時に暖簾を潜り、集落内に足を踏み出した。途端、二人は目を丸くしていた。

「家の、灯りが。まだ寝るような時間じゃないのに」
「......さっきまでは、絶対ついてたのに」

二人の灯りは今や月明かりだけとなっていた。不安な顔を合わせるカナとサスケ。その額に冷や汗が伝う。唾を呑み込む。...頷きあう。二人は今一度しっかりと手を握り合い、再び歩き出した。心音は、手から手へと伝わりそうな程、強く響いていた。

暗い集落の中をカナとサスケは一歩一歩ゆっくりと進む。物音のない家々の間は不気味だったがゆえに、互いに存在を確かめるよう繋ぎ合わせる手。
二人は、曲がり角へ差しかかった。だがその瞬間二人は一斉に空を見上げていたーーー何かを感じて。

だが、これといったものは在らず。

「......気のせいじゃないよね?」
「ああ。確かに何かがいたはずなのに......」
 
カナとサスケ、二人が見上げた先には満月が煌煌とあるだけだ。二人に存在を植え付けるように。

ーーーそれから先に目を逸らしたのはカナのほうだった。早く進んでこの胸騒ぎの原因を探りたかったのだ。
二人を待ち構えていた曲がり角。カナはサスケよりも先に一歩進み、ーーーそして、眼前に広がった通りを見たーーー見て、しまった。

「うわ!?」

一番に声を挙げたのはサスケのほうだった。だがそれは他ならぬカナのせいだった。カナが突如、腰を抜かしたせいで。
サスケの目が映したカナの顔には、完全に血の気が失せていた。


「あ......あ、あ、あああっぁあああああああああ!!!」
「お、おいカナ、カナ!?......!?」

だが、反応が遅れたサスケもまたその先を目にし、目を見開いて息を呑んでいた。
サスケは初めて目にするものがーー先ほどまでは確かに動いていたであろう亡骸が、何人と、否、何十人と転がっていたのだ。血に濡れた髪色は黒。確かに、サスケの一族。

「何だよ、これ......何がどうなって...!?」

戸惑い狼狽するサスケの隣で、カナはただうずくまっていた。既に、瞳からは絶え間なく涙が零れ落ちていた。
カナを襲い来る"死の感覚"。目前に広がった光景と重なるカナ自身の一族の"死"。火照った体を夜風が襲う。熱いのか寒いのか、今のカナには判断できない。ただ恐怖ーーーその体がひたすらに震えていた、この場から逃げ出したいと。だが、足は竦んでいた。

「......カナ」

無理に動揺を押し殺したサスケの声がカナを呼びかける。だが、カナはそれにすら反応できなかった。二人を繋ぐ手は最早、サスケ一人の力でしかない。だが、サスケは強く握りしめていた。

そしてサスケは、小刻みに震え何も言えないカナの、その小さな肩を抱き寄せていた。サスケはカナの耳元で囁く。

「カナ。お前はここにいろ。......それか、火影様のとこ行って助けを呼んでこい。きっと、きっと大丈夫だから......」

それから、カナからサスケという温かさは離れていく。
僅かに顔を上げたカナは、大粒の涙を零しながら、去って行く小さな背中をひたすらに見ていた。だが次々と溢れる雫のせいでその姿がぼやける。

「(...いやだ...)」

サスケの姿が、見えなくなっていく。カナは震える手を必死に動かし涙を拭き取った。そうして銀色はまた前を見るが、その時にはもう、サスケの姿はなかった。

ドクン、とカナの心臓が跳ねる。数メートル先にはまだ温かいだろう骸が倒れている。他にカナの目に見えるものはなく、カナはそれが酷く恐ろしかった。
ふらり、と立ち上がったカナは、覚束ない足取りで壁まで行き、凭れ掛かった。その脳裏に先ほどのサスケの言葉が浮かぶ。

『カナ。お前はここにいろ。......それか、火影様のとこ行って助けを呼んでこい』

拭いたはずの涙が、またカナの瞳から零れ始める。だが今度こそカナはすぐさまそれを拭っていた。

「どっちも嫌だよ...サスケ...」

小さな呟きだった。
カナがこれまで懸命に鍛錬してきた意味は、そのようなものではないのだ。誰かに頼るためにカナはこれまで生きて来たわけではない。カナの頭に浮かぶサスケやミコト、フガク、その他のうちは一族の者たちやーーーイタチの顔。
それが今、なにかのせいで崩れかかっている。この、満月の夜に。


震える手足に力を入れ、屍たちを乗り越えながらカナは走り出した。
月光のみが照らす道は、酷く不気味だったが、それでもカナは必死だった。





「サスケ......イタチ、お兄ちゃん......」

いきなり聞こえた少女の声に、鬼鮫は思わず立ち止まっていた。その前を歩くイタチは聴こえたのか否か、とにかく歩を止めようとしない。鬼鮫はカナを見たが起きた様子はなかった。顔色は徐々に戻っているようだが、今のは寝言だろう。

「どうやら、彼女はまだアナタに未練があるようですねェ...」

再び歩き出した鬼鮫はイタチに話しかける。イタチは振り返りもしなかったが、しかし鬼鮫がふと視線を落とせば、その拳は握りしめられていた。
それを目に。鬼鮫は心中で面白そうに笑った。そして、肩に抱いているカナに手をかけていた。

ーーイタチはすぐさま気づき、ハッと振り返っていた。
カナの体がイタチへと飛んできたのである。
間一髪で落とさずにカナを受け止めたイタチは、僅かに吐息を漏らし、次に鬼鮫を黒の瞳で睨んだ。

「何のつもりだ、鬼鮫」
「どうやら、私の"鮫肌"がもう抑えきれないようで。今にでも彼女を喰いたいと言っているんですよ」
「......」
「私の意に反して暴れださないうちに、離れておこうと思いましてね...。休憩がてらそこらを散歩してきますよ。少し離れたら"鮫肌"も落ち着くでしょうしね...」

イタチの応えも聞かないままに鬼鮫は姿を翻し、さっさと茂みの奥へ消えていた。
カナを抱いたままのイタチは、暫くそこに立っていた。漆黒の視線は木々の向こう側からすっとカナに落とされる。すう、と細まる瞳。数秒後イタチはカナを抱き直し、鬼鮫とは反対方向に歩き出した。

森の中。イタチの黒地の衣は、酷く浮いている。葉々のざわめき、鳥たちの囀り、柔らかな風の音、湿った土の匂い。イタチの手には、カナが酷く温く感じられていた。

イタチが自然と歩み寄ったのは大木だった。ちょうどその根元で、小鳥が三羽楽しそうに突つき合っていた。
それを目にしたイタチは、僅かに足を止めじっと見つめていた。
小鳥たちは可愛らしい声で鳴き合い、円な瞳を動かし、ちょんちょんと動き 互いの翼の汚れを払うようにして。三羽 同時にイタチの存在に気がつき、その姿を見つめた。小さな瞳がイタチと。カナを映す。同じ色の中に、同じ価値で、何も変わりなくーーー。

いつしか飛び立った小鳥たちは小さな風を巻き起こし、イタチの黒髪を揺らしていった。無意識的にそれを振り返ったイタチの目に、自由な青空へ飛んでいく三羽が映った。

「(.........)」

イタチは今度こそ木の根元に近づき、カナをそっと降ろしていた。
幹に凭れるように眠るカナの顔に温かな日が差す。銀色が煌めくーー血の気が戻り始めたその表情。イタチは不意に柔らかな風を感じていた。だが、カナの姿を目から追い出すようにして立ち上がる。

イタチ自身も休息を取らなければならないのは事実。
イタチはわざわざカナから離れようとする。黒の視線は頭上の高い枝に移る。イタチの体程度なら十分に支えられそうなものだ。
だが、そうしてイタチが跳び上がろうとした時。小さな声が聞こえて、イタチは行動を止めていた。

「どうして......お兄、ちゃん」

微かに目を見開いたイタチ。だが振り返っても、カナは変わらず目を閉ざしたまま。その頬に涙が伝っていた。

「どうして...どうして、こんなこと......」

ぼやくように。だが、それはイタチの耳がはっきりと捉える。誰が聞いても聞き逃しそうな言葉の羅列を一つ残らず。
それは、イタチが過去、一度聞いた言葉であるが故に。

それっきりカナはもう何も言わなかった。イタチの耳に再び戻ってきた森の声。イタチの顔はイタチ自身の黒髪に隠れていた。
全てを呑み込む黒の瞳でもう一度カナの顔を見たイタチは、逃れるようにして、枝に跳び上がった。


 
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