第八十五話 憎悪の赤
目の前で眠ったカナを、イタチは抜かることなく受け止めた。
カナの髪がはらりと落ちる。短い銀色は静かに輝いているーーー昔と何の変わりもない。カナの体を楽に抱き上げたイタチは暫らくその顔を見ていた。それから瞼を下ろし、上空を仰ぐ。
そこには、鮫肌を肩に乗せ笑っている鬼鮫の姿。
「"神人"、捕まえたようですね。こっちも見つけましたよ。どうやらこれから木ノ葉を出るようだ」
「......そうか」
「それにしても、近くで感じればますます旨そうなチャクラで...。削りたくなる小娘ですねェ"神人"は...クク」
「鬼鮫」
咎めるように赤い瞳を動かすイタチ。地に下り立った鬼鮫は、鮫肌を背に直してから冗談ですよと口元を上げた。続けてカナを見て、持ちましょうか、と鬼鮫は言うが、イタチは静かにいやいい、と返す。
イタチはもう一度、横目でカナの寝顔を見つめていた。
■
木ノ葉隠れのある民家。カカシの家では、上忍が二人頭を突き合わせていた。
猿飛アスマ。マイト・ガイ。家主であるカカシは布団の中で意識を失っている。侵入者と戦闘した結果だ。上忍二人はそのまま居座って深刻な表情で話し合っていた。
「奴らの様子じゃあ、まだナルトは見つかってないみたいだな」
"侵入者"の目的。カカシがそれを問うと、返ってきた答、それが、"四代目の遺産"。
それといえば、うずまきナルトでしか有り得ない。ナルトにはちょうど狙われてもおかしくない秘密がある。
「でもおかしくないか?アイツら、既に里に入り込んでいた...この里でナルトを見つけるのは簡単だろう。イタチはナルトの顔を知ってるんだぞ」
「ああ確かに...。......それに」
"侵入者"ーーイタチは、しかし、"四代目の遺産"以外にももう一つ、口にしたのだ。そればかりはアスマもガイも全く心当たりのない内容だった。その時は戦闘の場にいた紅も同様だ。
ーー唯一動揺を示したのが、今この場に寝ているカカシ。
「カナに、何があるってんだ」
ーーそれと...風羽カナ。その中の強大な力...。
イタチは確かにそう言った。
「あの反応、カカシは知っていた。なのにオレが知らねえとは...なんつーか、情けねぇ話だよなァ」
「んん...まあ、カカシはカナの担当上忍だからな...何か事情があったんだろう」
「父親ヅラしたところで、オレもカナのことを全て知ってるわけじゃねェんだよな......風羽のことも一般常識程度しか」
「待て、シッ」
長々と続けようとしたアスマを、ガイは咄嗟に遮っていた。ガイは耳聡く周囲の音に気付いたのだ。部屋の戸の向こう側から、階段を上がる音。そして扉が開く。
「カカシ」
サスケだ。何の躊躇もなく部屋を覗き込んだサスケは、しかし一瞬にして眉をひそめた。この部屋の状態を見れば当然だ。
「...どうしてカカシが寝てる?それに上忍ばかり集まって何をしてる......一体何があった」
「い...いや?別に何も...」
ガイが僅かに視線を逸らして答える。アスマは煙草を吹かして無言を貫く。だが、雰囲気は明らかに異様だ。そうサスケが思った時、ちょうど窓から音がした。
三人が反応する前に勢い良く窓を開けたのは、血相を変えた、紅だった。
「アスマ、やっぱりカナが!!......って」
紅はそこまで言ってから、ようやくハッとした。紅の顔を、目を見開いて見ているサスケがいる。その顔が徐々に険しいものとなっていく。カナ、その名前を出したことでもう後戻りはできなくなった。
「カナだと...?」
明らかに何かを感づき始めたサスケを横目に、アスマはうまく誤摩化せと、紅に合図をする、しかし。
ドタドタと、荒々しく近づいてくる音が追い打ちをかけた。
「あのイタチが帰ってきたって話は本当か!?しかもナルトを追ってるって!!」
唐突に扉を開け放った山城アオバが全てを破壊した。
ガイが舌打ちする。アスマは深く肩を落とす。紅は呆気にとられーーーそしてサスケの体は、ゆらりと揺れた。
俯いた顔は黒髪で隠れている。アオバはやっとサスケの存在に気づき、自分の罪にも気付いたが、全てが遅い。サスケはぼそりと口にしていた。
「イタチだと......?」
「(しまった...)」
「......紅先生。カナが里からいなくなった......いや、このタイミングだ。イタチに連れ去られたってことでいいんだな......」
「......」
沈黙は肯定の証。その言葉が頭の中に流れてきた時には、サスケは部屋を飛び出していた。
その形相を見て止められなかったアオバはその背を見送るしかない。「なんでこうなるの!」とサスケをすぐさま追ったのはガイのみだった。
部屋にはようやく静寂が訪れた。やっと状況を呑み込んだアオバが「悪い...」と項垂れる。気にすんな、とアスマが声をかけた。
「で、紅。お前の報告をきこうか」
「え、ええ。あれから言った通りに、カナを探してみたわ。忍鳥、忍犬、忍猫...あらゆるものを使わせてもらってね。でも、結局...」
「見つからなかった、か...。まァ、アイツらにさらわれたかどうかは定かじゃねぇが、そう考えるほうが妥当だろうな」
そう言って息をついたアスマ。だが、その胸に宿るのは今、不安だけではなかった。
違和感があった。アスマの目に浮かぶ昔の光景。
幼いカナが笑っている。一族を失った苦しみから逃れ、心の底から笑顔している。それは、ある二人の横で。
幼なじみ。イタチは、カナとサスケと共に、楽しそうに笑っていたのに。
■
あれから里を出たサスケは、ただひたすらに走り続けていた。
その脳内には、カナ、ナルト、そしてイタチ。兄の顔を思い出すたび、サスケの握り拳に力が籠る。地を駆ける足も速まっていく。写輪眼さえ発動してしまうほどに、憎しみが溢れ出ていた。
イタチの行き先ならサスケは既に知っている。カナを連れてナルトを追っているというのならナルトの居場所だ。一楽の店主がこの先の宿場町だと言っていた。それを聞いてすぐ、サスケは里を出たのだ。
だがサスケはいくら考えても分からない。何故カナを連れ去ったのか。何故ナルトを追っているのか。
「...クソ!」
サスケは一段と速く走り出した。今は全神経を走ることだけに注ぐ。どの道この先に行けば答は待っているのだ。
サスケの闇も、そこに。
林を抜けた先に続く道。通りに沿って走った先には、宿場町を示す看板が立っていた。
■
そのナルトは現在、宿場町の中の一つの宿の部屋でふてくされていた。
ナルトがここに来る羽目になった経緯には複雑な事情があるのだが、ナルトにとっての最重要事項は一つ。中忍試験本戦前にも共に行動した自来也が"取材旅行"の道中、ナルトに修行をつけるという話があったはずなのだ。だがどうしたことかナルトは今や一人、影分身を作ってチャクラコントロールの修行中。
「(まったくエロ仙人め...!)」
ナルトにすれば自来也は三忍やら仙人やらという大それた人物でなく、ただの助平なじいさんに見えていた。
そんな時だった。
__コンコン
それは、扉をノックする音。ナルトはハッとして扉を見つめた。
__コンコン、コンコン
続いて何度も何度も急かしてくる音に、ナルトは「わーかったってばよ!」と呆れた声を零した。
「(ったく、早速フられて帰ってきたのかよ)」
魅力的な女性にほいほい付いて行った師に溜め息をつく始末だ。ナルトがのんびりと扉へ向かえばまたノック。何をそんな急いでんだよ、とナルトは思いながら。
やっと扉の前に辿り着き、鍵を開けた。
そして、何も考えないままに、ドアノブを回した。
どうせ情けない我が師匠だろうと。それ以上のことなど思いつくわけもなかった。
だが、それは違った。
僅かに扉の間から見えたものは、漆黒の衣。
ナルトは顔を上げた。何の警戒もなく目を向け、そうして見えたものにただただ目を丸めた。
見覚えのある、紅い瞳。
それを見た瞬間、ナルトはぞくりと背筋を通り過ぎるものを感じた。その色はナルトのチームメイト兼ライバルであるサスケと同じだったが、威圧感が違う。
「誰...だってばよ」
吐息と共にやっと声漏らした時だった。ーーーナルトは更に目を見開いた。
見知った、銀色。漆黒のコートに抱えられているのは紛うことなき、第七班の仲間だったのだ。
「カナちゃん!!?」
「ほう。"九尾"と"神人"は知り合いですか」
写輪眼の隣にいるまた別の黒コートが笑う。ナルトはそちらにも目をやり、動揺をできる限り押さえ込んだ。たった今聞いた二つの単語はナルトはどちらもよく知っている。一つはナルト自身の。もう一つはナルトも先日聞いたばかりの、カナの秘密だ。
「(なんでんなこと...!)」
だが、ナルトにはそれより大事なことが目前に。
「カナちゃんを放せってばよ!!」
だが、ナルトが咄嗟に振り上げた拳はあっさり片手で受け止められていた。
一瞬で感じた力の差に怯むナルト。ナルトが目を上げれば、変わらず冷たい瞳でナルトを見下ろしている紅色がある。ナルトは歯を食いしばり、「カナちゃん起きろ!!」と焦って言うがしかし、カナが目を開ける様子はない。
「ナルトくん。一緒に来てもらおう」
写輪眼が静かに口にする。ナルトは必死で目前の人物を睨んだ。
状況が全く掴めないナルトでも、危険が迫っている事だけは分かる。今反抗するのは得策ではない、と思う。顔面蒼白なカナを見てグッと耐えた。
「部屋を出ようか」
「......」
ナルトは伏し目がちに足を踏み出した。とにかくここで従順なフリをしておけば、と思ったがために。
だが、大男のほうが口を開いた。
「フム...イタチさん。チョロチョロされると面倒ですし...足の一本でもぶった切っておいたほうが」
ナルトはぎょっとして顔を上げる。情けなく開いた口からは吐息しか漏れない。
紅色の瞳ーーイタチも何も言わない。肯定もしないが、否定もしない。にやりと笑んだ大男。「じゃあ...」と言って、ナルトに近づき始める。
ナルトは堪らず後ずさりする、だが、そう後は無い。徐々に迫ってくる黒い影にナルトは息を呑んだ。
カナはやはり起きる様子がない。ナルトの足は震え始めている。何事にも諦めないその碧眼がぎゅっと閉じられた。
だが、予期したことは結局、起こらなかった。
「......久しぶりだな」
イタチの声。そっと目を開けるナルト、怪訝そうにイタチを振り返る大男。
イタチの言葉は決してナルトに向けられたものではない。そして、唐突にイタチとカナの向こう側に見えた人影に、ナルトは呆気にとられていた。
「サスケ...!?」
「うちは......イタチ......!」
だが、サスケのほうは、ナルトなど眼中になかった。
ナルトは弾かれたようにイタチを見上げ、サスケと交互に見やる。大男は刀に手をかけたまま、「おや...」と零した。
「写輪眼...それも、アナタによく似ている。一体、何者です?」
イタチは振り返らなかった。長い睫毛がその目に影を落としていた。
「オレの弟だ」
ナルトは目を見開くばかり。サスケの眼光は更に増す。大男も僅かに眉を寄せた。
「うちは一族はみな殺されたと聞きましたが......。アナタに」
不意にナルトの脳に流れる、サスケにまつわる記憶。第七班結成直後の自己紹介でのサスケのセリフ。波の国の決戦で死にかけた時のサスケの声。
ーー"兄貴を殺すまでは"。
では、今ナルトの目前の人物こそが、サスケが殺したい人物。
「カナを気絶させたのか......」
「......」
「今更そいつに何の用だ。とっととその薄汚い手を放せ!!」
サスケの怒鳴り声。イタチは静かに弟を見ているだけだった。だが数秒後、イタチは不意に「鬼鮫」と口にして視線を動かす。大男、鬼鮫は頷いた。
カナの体がイタチから鬼鮫の手に。
その時見えたカナの眠っているような顔が、サスケの気持ちを更に高ぶらせた。
「そいつを返してもらう......」
「......」
「オレは...アンタの言った通り...アンタを恨み、憎み...そして、アンタを殺すためだけにオレは...!」
サスケの左腕に流れだす電流。千羽の鳥が一斉に囀り始める。黒髪が浮き立つ程に激しく。電流がその顔を青白く照らす。深い憎悪を含めた漆黒の瞳が雷に照らされるーー
「オレは、生きてきた!!」
千鳥が唸る手を思い切り振り上げ、サスケは走り出した。だがイタチは静かに立っているのみーー今にも千鳥が突き出されようとも。
動いたのは僅か一瞬、それだけでサスケは簡単に手首を掴まれていた。
サスケは憎しみの籠った目でイタチを睨むが、イタチは相変わらず涼し気に。グッとサスケの手首を握る力を強めた。その痛みに顔を歪めたサスケだが、瞬間、全ての意識が別方向へ向く。
ナルトだ。サスケの危機を感じて印を組み始めたナルトから、禍々しいほどのチャクラが溢れでてきたのだ。
だが、遅い。ーーべきり。
「ぐぁあっ...!」
サスケはあまりの激痛に膝をつく。解放はされたが、ダメージは大きい。
「サスケェ!!ちくしょう!」
焦ったナルトが更にチャクラをひねり出そうとするが、それも最後までは叶わなかった。鬼鮫が大刀を振ったかと思うと、一瞬でナルトを覆っていたチャクラが消え去ったのだ。目を剥いたナルトの空色に、カナを肩に抱え、鮫肌を構え直した鬼鮫のニヤリと笑う顔。
「私の"鮫肌"は、チャクラも削り、喰らう!」
大刀"鮫肌"は刀とは思えない蠢きを見せている。
歯を食いしばるナルトに最早成すすべはない。サスケも気迫だけは残っているがまだ呻いている。カナは目を閉じたまま。
「ちょこまか術をやられると面倒ですねェ。まず足より、その腕を切り落としましょうか」
冷然な顔で残酷に言う鬼鮫。まだ九尾のチャクラを.探し求めているナルトに「無駄ですよ」と一蹴する。
"鮫肌"が徐々に振り上がっていく。ナルトは咄嗟に目を瞑った。
だが。
ボワン___ガキン!
"鮫肌"を振り下ろした鬼鮫の前に、唐突に辺りを覆い尽くすほどの煙が蔓延した。そして同時に、金属を弾く音。
ーー鮫肌を弾いたのは無論ナルトではない。
現れたのは、赤蝦蟇。
それを全員が認識した瞬間、更に第二の煙がナルトの背後から噴き出した。
「お前ら、ワシのことを知らなすぎるのォ...。男自来也、女の誘いに乗るよりゃあ、口説き落とすが滅法得意...ってな」
助平なじいさん、というだけではない白髪の大男ーー伝説の三忍、蝦蟇仙人・自来也が、その場に現れた。