あたしだって刺激的な毎日を過ごしたいわ。
何の変化も無い日常なんてつまらないもの。
一番恐れなくてはいけないものは不変である事。
その真実を知っているから、ううん。違うわ。本能で分かってるからこそ、あたしは変化を求めるの。

面白い事を求め続けて、変化を探し続けて、そしてー…。
少女は誰に知られるでもなく、消息を絶った。




姉さんが泣いている。
姉さん。
姉さん、どうしたの?
ー…貴方だけは姉さんを置いていかないで。
私を、独りにしないで。
大丈夫だよ。
姉さんを独りになんてさせない。
ずっと一緒に居るから。
だから、だから姉さん。
お願いだから、泣かないで。




閉じていた瞼を開いたシルバーはゆっくりと頭を振った。
夢を見ていた。
姉さんの夢。
父さんと母さんが事故で儚くなった後の姉さんとオレの夢。
あれから何年経ったんだろう?
泣き崩れていた姉さんは今じゃその時の崩れ落ちてしまいそうな雰囲気は見られない程、明るくなっていた。
元気になった姉さんを見るとほっとする。
ああ、もう大丈夫なんだろうと。
そう思うのと同時に心がぎしりと軋む音をたてた気がした。
一日に一回以上。
痛みを伴う音の正体を恐れながら、日に日に増していくその音に気付かないフリをして、シルバーは今回もその音をやり過ごした。

次の瞬間、シルバーは目を丸くする事になる。

『いけない!いけない!急がなければ女王様に殺されてしまう!』

何故なら物騒な言葉を紡ぎながらシルバーの目の前を走り去って行ったのがー…白い毛を赤い洋服で隠して、丸く小さな眼鏡を掛けた兎だったからだ。
しかも、その兎は二足歩行で人間のように走っている。
常識から逸脱したその生物を凝視したシルバーは突然、激痛に襲われた。
頭がズキズキと痛み出し、金づちで叩かれているかのような激しい痛み。

「…っ!」

頭を押さえたシルバーはゆっくりと立ち上がると走り去った兎を目で追い掛けた。
あの兎を追い掛ければこの痛みが和らぐ気がする。
そんな自分の勘に賭けたシルバーは庭で読んでいた本を放置して、駆け出した。
本のページがぱらぱらと風にめくられ、最後に重さに堪えられずにぱたりと閉じて、本の表紙が表になる。

【Alice in Wonderland】




ズキズキと痛みが走る。
あの兎はどこまでいけば気が済むのだろうか。
兎を追い掛けてひたすらに走ったシルバーは兎が一瞬で消えた事に目を見張った。
慌てて兎が消えた場所に駆け付けるとそこには小柄な子供が入れるくらいの穴があった。
どうやら兎はこの穴の中に入っていったらしい。
暫く沈黙して穴を見ていたシルバーは意を決すると穴の中へと飛び込んだ。
奇妙な重力感の中、シルバーの耳に含みのある中性的な声が届いた気がした。

『welcome…。Alice』

ようこそ、アリス。歓迎しますよ。

その声を最後に聞いて、シルバーの意識は途切れた。




その猫に知らない事はない。
猫は全てを知っている。
彼の持つ知識は豊富過ぎて。
その膨大な量の知識に適う者は誰一人として存在しないのだ。
その猫、ピンク色のボーダー模様をしており、奇妙な笑い声を上げながら闇の中へと消えていく。
有名なその猫の名を知らぬ者など居る筈もないだろう。
そこら辺を歩いている通行人に聞いてみると良い。
彼等は口々に同じ名前を答えるだろう。
その猫の名はー…。

チェシャ猫は今日も真っ青な色をした空を見上げた。
鼻をひくつかせて目を細めると長い髭をぴんと張った。

「余所者の匂いだ」

この感覚は良く知っている。
あの子供が来た時も同じ感じがしたからだ。
ー…面白い事が起きる気がする。
長年の自分の勘を信じて、チェシャ猫はニィ、と口の端を上げると姿を消した。




姉さん!
大好きな姉が帰ってきた。
先程まで読んでいた絵本を放り出して、駆け出して姉を迎える。
お帰りなさい!
抱き着いた自分を抱擁した姉は微笑みながら視線を合わせて言った。
あなたに紹介したい人が居るの。
姉の後ろに佇んでいたのは背の高い男だった。
精悍な顔立ちの男は見るからに好青年と呼ぶに相応しい外見をしている。
彼はー…よ。
初めまして。ー…ん。僕は君のお姉さんの恋人だよ。君とお姉さんを幸せにしたいと思っている。
聞きたくなかった。
突然目の前に表れた男の言葉など。
幸せそうに照れた微笑みを零す姉の顔など、直視したくなかった。
思い描いていた日常は突如音をたてて崩れる。
ああ、幸せなんて、日常なんて、簡単に壊れていく物なんだ。
目の前が真っ暗になりながら、ぼんやりとそう思った。




息苦しい。
妙な息苦しさを感じてシルバーは目を覚ました。
何だ…?
まるで自分の胸部に何かがのしかかっているようなー…。

「……」

頭を上げたシルバーは沈黙した。
確かに自分の胸の上にはズシリとした重みを持つと推測出来る生き物が乗っかっている。
だが、シルバーが沈黙したのは通常よりも桁外れに体の大きな猫が自分に乗っかっているからではない。
その猫の生首が宙に浮き、自分の眼前にあり、首と離れた胴体に繋がる尻尾がゆっくりと左右に振られているからだ。
ピンク色のボーダーラインの体をした猫はニィ、と口角を上げて白い歯を見せて笑うとシルバーに話し掛けた。

「やぁ、アリス。おはよう」

「…っ!?」

跳ね起きたシルバーは反射的に眼前にある猫の顔を手で薙ぎ払った。

「おー、怖い。怖い。今回のアリスは随分、乱暴者だねぇ」

首をコロコロと転がして、シルバーの手を避けたチェシャ猫は肩を竦めた。
不気味な光景にシルバーは眉を顰める。

「この常識から逸脱した奇妙な生物は何だ?って言いたげだねぇ。ダメ、ダメ。そんな常識に捕われてちゃあ、アリスはこれからこの世界でやっていけないよー?この世界は何でもアリなんだから」

ちっちっちっと指を振ったチェシャ猫はにやり、と目を細めた。

「何故、オレの名前を知っている?」

心を読まれたシルバーは驚愕したが、得意のポーカーフェースで無表情を保つと警戒しながら、チェシャ猫を睨みつけた。

「そりゃあ、僕は何でも知ってるさ。だって僕はチェシャ猫だもの。知らない事なんて一つもない」

何をふざけた事を。
シルバーは踵を返してチェシャ猫の元を去ろうと背中を向けた。

「ようこそ、アリス。ここは不思議な国。何が起こっても可笑しくない国。アリスであってアリスでない君を僕達は歓迎しようー…」

チェシャ猫の言葉に引っ掛かりを覚えたシルバーは振り返ってチェシャ猫を見る。
だがしかし、チェシャ猫の姿はもう何処にも見られなく、ただただ森の中にチェシャ猫の声が反芻するだけだった。

「アリスの意味を知りたいのなら森の奥へ進んで御覧。アリスであってアリスじゃない君はアリスでなくなる為に自分の物語を綴るんだ。さて、アリスは愚か者か賢者かどっちかな?愚か者は茨の森へー…賢者は奇妙な森にー…。数多の選択が道を定める」

見物だねぇ、アリス。
精々面白い喜劇を見せておくれよー…。


チェシャ猫の言う事は助言か罠か。
分からぬままにシルバーは森へと歩き出した。


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