分からない。
分からないんだ、もう。




斧で木を切ったグリーンは着物の袖で無造作に汗を拭うと、槇を紐で縛って一つに纏めた。
無言で山を見上げたグリーンは苛ついた様子で首を振ると槇を担ぎ、歩き出した。
大きな屋敷の中に入り、真っ直ぐに突き進むと襖を開ける。
室内には艶のある黒い髪の女性が天に向かって祈りを捧げていた。

「…まあ、あなた。どちらにおいでになっていらしたの?今朝からお姿がお見えにならないようでしたけれど」

落ち着いた声で女性はグリーンを見上げた。

「…仕事だよ」

「本当に仕事熱心でいらっしゃるのね。あなたらしいわ」

袿から伸びる白い指が可笑しそうに笑う口元を隠す。

「…動いていないと落ち着かないんだ」

隣に座った夫を見つめて女性は複雑な表情になった。

「…そうでしたわね。あのような事がございましたら、動きたくもなりますわ」

沈鬱な様子で俯く妻を一瞥してグリーンは小さく息をついた。




オレは記憶を失っている。
そう自覚したのは目覚めてから数時間が経ってからだった。
先ず目に入ってきたのは隣に眠る女性だった。
声もなく驚いて目を見張っている自分に対して女性は寝返りを打って声を掛けた。

「…一寸様?お目覚めになられたのですか?」

寝ぼけているのだろう。
少し上擦った声は子供のように滑舌が悪かった。

「…いや、朝になるにはまだ早い。もう一眠りするから文子も寝ていなさい」

黒く艶のある髪を撫でると文子と呼ばれた女性は嬉しそうに微笑んだ。

「ー…はい。一寸様」

女性の笑顔を直視したグリーンはぱちぱちと瞬きをしてから茵へと戻った。
起床してから混乱しそうになる頭をゆっくりと整理する。
先ずここは何処だ。
首を巡らして一通り眺めたグリーンは眉間に皺を寄せた。
襖で仕切られた部屋も、畳も天井もグリーンの知る物ではない。
少なくとも自分の家はこんな造りはしていなかった筈だ。
と、いう事は記憶はないが倒れていたところを誰かに助けてもらったのだろうか。
もしも、そうであるとしたらこの女性は何だ。
助けた人間の隣で眠る女性がいるだろうか。
いや、仮に居たとしてもこんなに無防備に眠る筈もないだろう。
ー…一寸様。
グリーンの事を一寸と確かにこの女性は呼んだ。
人違いでもしたのか。
グリーンは眉を寄せて首を捻った。
疑問はそれだけではない。
自分は確かにこの女性を知らない筈だ。
それなのに「文子」という名前が口からついて出た。
文子と呼ばれて微笑んだところから考えるに彼女は文子という名前なのだろう。
グリーンは考え混んでいた。
だから、気付かなかったのだ。
隣で眠っていた筈の女性が彼の隣に座った事に。

「…一寸様?」

「…っ!」

気遣わしげに掛けられた声に驚いたグリーンは瞠目して女性を見た。

「も、申し訳ありません。何やら思案なさっていらしたようですが、あまりにもお険しいお顔付きをなさっていらしたので…心配になって声を掛けてしまいました…」

慌てて頭を下げる女性に頭を上げるように促すとグリーンはゆっくりと首を振った。

「…考え事が上手く纏まらなくて苛立ってしまっただけだよ。お前が謝る事はないのだから気にしないでおくれ」

「…あなた。あまりご自分を追い詰めるような考え事はしないで下さいね」

困った笑みを浮かべると女性は朝餉の支度をして参ります、と言って茵をテキパキと片付けて奥の部屋へと入って行った。




するりと袿を脱ぎ、別の着物へと着替えた文子は唇をきゅっと引き締めて俯いた。
何が起こったのか、事情が良く掴めない。
情報が必要だ。
きっと何かがあったから今、こんな事が起こったのだ。
現実を受け止めた文子は覚悟を決めて顔を上げた。
強い意思を宿した瞳は僅かに不安に揺れている。

「一寸様」

文子は愛する夫の名前を呼んだ。

一寸様は緑色の瞳は持っていらっしゃらなかったわ。
あのお方は一寸様と似ていらっしゃるけれど、別人なのでしょう。
例え、どれ程私の名を呼ぶ声が似ていらっしゃるとしても。
仕種もお心遣いも類似していらっしゃるとしても。
それでも私には分かるのです。
あのお方は一寸様ではないとー…。


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