その光景を目の当たりにした瞬間、私は私のしてきた事が正しかったのか、間違っていたのかが分からなくなった。
沈んでいく意識の中、確かに誰かの声を聞いた気がした。
声というよりは悲鳴のような叫びといった方が正しいのかもしれない。
ゆっくりと瞼を開けたレッドの視界に入ってきたのは天井と白髪の老婆だった。
長い紙を後ろに束ねた老婆は自分を心配そうに見下ろしている。
誰だろう?
レッドが口を開く前に老婆はレッドの手を取って握った。
「ああ…良かった…!やっと目を覚ました。どこか痛いところはないかい?桃太郎」
ぼろぼろと涙を零して老婆は強くレッドの手を握る。
「も…桃太郎…?」
誰だ、それは。
自分の名前じゃない。
自分の名前はー…。
「…っ!」
ズキリと痛みが襲った。
「どうしたんだい?桃太郎…!?」
低い声で呻くレッドの様子に老婆は狼狽えた。
「…頭が痛い」
頭を押さえて蹲るレッドに横になるように老婆は促すと「爺様やー」と何処かへ消えて行った。
頭痛と眩暈が酷くなる中、ぐらついたレッドの視界ではこちらを見つめる犬と猿と雉の六対の眼が映った。
オレは誰だろう?
レッドは縁側に腰掛けて空を見上げていた。
正確な時刻は分からない。
太陽が南に昇っている所から推測すると正午を過ぎた頃だろうか。
雲一つない晴やかな青空を眺めてレッドは目を細めた。
自分は桃太郎、という名前らしい。
目覚めてから周囲の人間の反応を窺うとどうやら自分は過労で倒れたらしく。
見舞に訪れる人が絶えない事から桃太郎という人物は大層人気があったのだろう。
自分の事の筈なのに、レッドは人事のように客観視していた。
何でだろう。
オレは自分を「桃太郎」とは思えない。
でも、周りは「オレ」を「桃太郎」と認識している。
分からない。
オレはこんなに髪が長かったっけ?
こんな服を着ていた?
オレはー…。
思考に耽っていたレッドの脳裏に突然、誰かの声が響いた。
『貴公は誰だ!』
「…え?」
周りを見回したレッドは松の木の下に座る犬と猿と雉を認めた。
中くらいの大きさの白い犬はのそりとレッドに近付くと牙を剥いて唸った。
『貴公は誰だと聞いている!』
確かに聴こえた。
低く、威厳のある声がこの犬から。
目の前の現実と脳の処理が追い付かなくてレッドは数回瞬きをした。
『犬の旦那ぁ。そんなに恐い剣幕で詰問しなくても良いと思いますよぉ』
高めのおちゃらけた声で猿が犬に近付く。
『黙れ、猿!わしは猿には聞いとらん!』
『おぉ、恐い』
『五月蝿いですよ。貴方達。こちらの殿方が驚いていらっしゃるでしょう』
凛とした声で雉が猿と犬の頭を軽く突いた。
『痛っ。雉の旦那ぁ。あっしは犬の旦那を止めようとしただけですぜぃ』
『貴方は犬太郎を怒らせるだけです。火に油を注ぐくらいならその良く回る口を閉じていて欲しいですね』
『うっへぇ。手厳しい』
頭をかく猿を冷たい目で見た犬は自分の頭上に止まる雉を見上げた。
『わしは得体の知れん伽奴の正体を確かめたいだけよ』
『犬太郎はその口の悪さを直しなさい。初対面の人に対して失礼です』
『貴公の様に口喧しくなるようなら口が悪いままで良い』
『何ですって』
「桃太郎や。騒々しいが何かあったのかい?」
騒ぎを聞いて駆け付けた老婆がひょっこり顔を出すのとレッドが脳の処理を終えて現在の状況を飲み込む時間は同じだった。
「ああ、母上。犬太郎と猿二郎と雉三郎が遊んでいただけですよ」
咄嗟に笑顔で答えたレッドは老婆の様子を窺った。
老婆は一瞬きょとりとしてからそうかい、と頷くとレッドに向き直った。
「あまり体を冷やしてはいけないよ。桃太郎は病み上がりなんだからね」
「はい。そろそろ茵に戻ろうと思っていたところです。…犬太郎達をあまり責めないでやって下さい。私が退屈そうにしていたのを見兼ねて彼等は私を喜ばせようとしていたのですから」
「そんな事で怒ったりはしませんよ。いいから茵に入りなさい」
「はい。ありがとうございます」
にこり、と笑ってレッドは茵に入った。
レッドが茵に入ったのを確認すると老婆は犬太郎達に小さな声で静かに言った。
「これから桃太郎は眠るのですから、お前達は静かにしているのですよ」
そう言付けると老婆は家の中へと入っていた。
犬と猿と雉は顔を見合わせて寝入っているレッドを眺めてから首を傾げた。
声も見た目も姿形は桃太郎そのもの。
魂が似ているとも思う。
それは桃太郎の傍で彼に仕える自分達でも驚く程に。
けれど、違うのだ。
何故、お婆さんもお爺さんも気付かないのか。
桃太郎の瞳の色はあれ程までに鮮やかな赤い色はしていなかった筈なのにー…。