呪術廻戦 | ナノ

救済の濫觴



生き残った遊女は「くわばらくわばら」と口を揃えて、拝む真似事をとった。
船着き場の有る新たな宿場町に渡るのだと言う。無理もない事だろう。命が惜しければ夜が来る前に山を越えなくては。遊女はそう残してそそくさと去る。

ふ、と白粉の匂いが漂う。直ぐに濃い死臭と混じって消えた。合戦場から漂うものか、それとも近頃頻発している人死にのせいか。澱が、低く重く垂れ込めている。

鴉と犬が群れていた。
筵に上げられたり、茣蓙のひとつも掛けられているのは良い方で、剥き出しで打ち捨てられたままの死体は膨れて裂けた箇所から灰色の液体が流れ出ている。酷い臭いである。

「あらやだ。死んじまったよう」

女の視線は真新しい骸を捉えていた。聞き付けた旦那がもたもたやって来て「うちの前で死にやがって」と不機嫌に言う。

骸の顔は崩れていた。何処から流れて来て居付いた女である。住処を持たず性を売って活計としていた。先刻の遊女は教養に富み芸事も達者な別嬪であったのに比べて、骸の女はどちらかと言えばご面相もすべたで、品性も心許ない女であった。だからと言う訳でもないが、共同体からは疎まれ、煙たがられていた。それでも男衆は獣の息を吐き入れ替わり立ち替わり女に夜這いを掛けた。

その内に女の顔は斑模様に爛れて、崩れ果てた。あまりの醜さに客足も途絶え、以来女は木下闇で筵の上に寝転がっていた。近頃は虫の息だった様だが、今朝方息を引き取ったのだろう。

いつの間にか振り分け髪の童女が骸の前に立ち尽くしていた。

「ああ驚いた。幽てきかと。おまえ、かかは?」

童女は女の声など聞こえない様に骸をじっと見つめている。

「ちょっと人が親切心で言ってやれば。なんだい」
「唖よ。喋れないんだろう」

旦那がそう言って臓躁の気が有る女房を宥めると、童女が突然ぐるりと首を回して夫婦を見て、きょりきょりきょりきょり――と、凡そ人とは思えぬ声を上げて嗤った。

「ああ、やだやだ。気味悪い」

女房は肩を抱いてぶるっと震える。同意を求めようと振り返り、ふと見た旦那の口元に昨日は無かった陰りが見えた。

「ありゃおまえさん、顔に何だか陰りが…」

旦那の顔には斑模様が浮かんでいた。

「こ、こりゃあ餓鬼の仕業に違ぇねぇや」

瘧にでも罹った様に旦那は慌てふためく。すっかり色を失い青褪めている。
あのあの、あの餓鬼の仕業だよう。旦那が喚き、女房が振り向くと、童女の姿は既に無かった。周囲には旦那の無様な嗚咽が響いていた。



この辺りには古くから鬼が棲むという言い伝えがある。
豌豆瘡が流行している地域で見た、水辺からやって来て人の精気を吸う、合戦場で生き血を啜っていた、人の死に呼び寄せられて死体の臓腑を喰らう――語り口は様々だが、人死にが増えるとこの地域では決まって鬼の仕業とされた。

夜の闇に紛れて恐ろしい力を発揮する。人を惑わせ誑かし喰らう、見目麗しい悪鬼。

―――うふふふ、遊びましょう。

男達は太陰の凍てた光に艶めく漆黒の尼削ぎ髪に見惚れていた。

――鬼だ。

その場に居た誰もが思った。だが、魅入られた様に誰も動けずに居る。女は柔らかな曲線の肢体を月光に惜しげもなく晒し、男達の命を奪って行く。女のひと振りで十人の益荒男が事切れた。

名前は果実を噛む様に咀嚼する。それが真実熟れた枇杷の果であったなら、滴る汁をも含めて淫靡な光景であっただろう。ほっそりとした指で刳り貫かれた双眸は暗渠になっていた。

犬歯を突き立てれば、黄色い脂肪が露出する。その下に赤茶の筋が、更にその下には骨が……容易に噛み砕き、名前は馳走に有り付く。

ずる。ずる。ずる。ず、ず、ず。

柔らかい臓腑が名前の好物である。

夥しい死臭を風が運んで来た。名前が纏うそれよりも濃くて重い。羅刹女の血を引く名前はにおいで人死にの多さが分かる。血や臓腑、負の感情を喰らって生きる名前はより悲惨な殺戮に惹き寄せられる様、魄に刷り込まれている。

「物の怪の類か?」

男の声が響く。

――呪霊では、ないな。呪術師ですらない。

ならば物の怪だろう。男は食い荒らされ、破壊された肉塊共を一瞥して、その只中で食事に勤しむ黒い影に呼び掛けた。

名前は貪る手を止めて、揺らめきながら立ち上がる。視線の先に、月明かりの下で陰影の際立つ偉丈夫が立っていた。四つの眼に、四本の腕を持つ魁偉な容貌の男だった。側に、従者が侍る。

「ご一緒に如何です?」

名前は男の問いには答えずに甘くはにかみ、自らの御髪を羽繕いする様に口にくわえて舐めた。

「お前の喰余など要らん」

宿儺は自らのおとがいに手を当てて、女を見下ろしながら思案する。

――厄介な小娘だ。だから如何という事もないが。

食い散らかされた骸の只中で大凡不釣り合いな微笑を湛えている。酷く愛想も良い。透けるような青白い肌は艶めき、柔らかな曲線は見る者を釘付けにする。人を惹き付ける雰囲気を待っているのだが、どうにも真意の読み取れぬ表情をしている。

先に動いたのは名前だった。山猫の如く素早くしなやかに闇夜に溶けた。先刻まで死体の中心に居た女が、初めから隔たりなど無かった様に宿儺の御前まで移動した。

「やっと出会えた。私を殺せる人に」

女は瞳を潤ませて大粒の涙を溢した。

「どうか私を殺して下さい」

女は平身低頭して懇願するが、男は答えない。
通常、宿儺は相手の戯言に耳を傾けない。弱者の意を汲む事もない。己の快の為に鏖殺するのみ。

「話はそれで終わりか?」

宿儺が裏梅、と発すれば従者は当然の如く姿を消す。衣擦れの僅かな気配がする。

宿儺は掌印を結ぶと「領域展開・伏魔御厨子」と言った。自らの目の前に平伏する人を喰らう女が膾切りになったのを認めると領域を閉じた。間を開けずに反転術式を施す。

境界で転寝をする心地で居たものの、どうにも様子がおかしい。重い瞼を無理やり開くと、名前は自らが未だ生の桎梏から逃れ得ぬ事を悟り溜息をもらした。

「一度お前の願いは聞き入れた。扠、次は俺の番だ」

そう言うと宿儺は羅刹より尚邪悪に嗤った。

女は猫の如く身震いをした。両肩を抱き皮膚を引っ掻く。きょりきょりきょりと、人とは思えぬ声を上げ始めた。猫が喉を鳴らす音にも似ているが――次の瞬間、艷やかな尼削ぎ髪は重たい振り分け髪に、月明かりを弾くしなやかな肢体は緋色の小袖に隠されて見えなくなった。口元を血で濡らした妖しい女は童女に姿を変えて居た。

「羅刹女でございますか…」

いつの間にか戻り、慎ましく控えて居た裏梅がこぼす。羅刹女は人を喰らう悪鬼である。夜の闇に人智を超えた力を発揮し、夜が明けると力を失う。

星影が残る天蓋は白み、破曉を迎えていた。

「どうやらそうらしい」

宿儺ははぁ〜と、一際深い溜息を吐き出した。


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