呪術廻戦 | ナノ

耽溺狂想



古びた木製の引き戸は、見知らぬ女の嬌声と甚爾の吐息を遮断するには心許ない脆さだった。いつもなら、事が終わるまで夕飯の事でも考えてやり過ごすのだが、今日は室内が一段と蒸していた。

名前は、行くつもりもないのに袖を通した制服と、一足しかないローファーで街へ出た。適当に時間を潰して、女が帰った頃に自分も戻る心積もりであった。

「名字」

反射的に振り返ると、同じ学校の制服。確かに自分の名を呼んだのがこの男ならば、同級生という事だろうか。何度か瞬きをして思案してみるものの、名前が思い出せなかった。

「名字?」

念を押す様に再び呼ばれて、反応に少し戸惑い結局「ごめん、誰だっけ」と素直に尋ねた。

「隣のクラスの高橋だけど、久し振りだし忘れてても仕方ないよ」

告げられても依然としてピンと来なかったので、名前は曖昧に微笑んでおいた。高橋と名乗る同級生は小走りで名前に近付くと隣に並んだ。示し合わせた訳でもなく、どちらとも無く歩き始める。

「最近学校来ないよね。何かあったの」
「誰も名字の事見てないって言うから、俺心配してたんだよね」
「先生も心配してたよ。悩み事あるなら俺で良ければ聞くけど」

マシンガンの様に言葉を吐く同級生は、きっと良い意味で平凡な奴なのだろう。名前みたいにペシミスティックで、どこか浮世離れした様な人生観の人間とは本来接点が無いはずの、人生に無根拠な希望を持っていて、将来は適当な大学を出てそれなりの会社に長く勤め、それなりの役職とそこそこの手取りを貰って手堅く暮らしていくタイプの人間。

名前の経験からして、その手の人間とは相容れない事が多い。名前の生い立ちや置かれている環境に同情こそしてくれるものの、理解は出来ないからだ。遠い異国の子供が、続く内戦で飢えているニュースを見て抱く感想と大差ない。可哀想だな。何とかならないのかな。いつか良い事があるといいね。まるで他人事だから溢れる感想達。当事者からすれば同情するなら助けてくれ、優しい声より食べ物が良い、が本心だろう。だからこそ名前は自分の事を話さなかった。

微妙な距離感を保ったまま暫くは同級生の追求をうん、とかああ、とか曖昧な返答で躱していたものの、その内それも面倒になり名前は煙草を取り出して火を付けた。

「名字って煙草吸うんだ」
「先生に言い付ける?」
「まさか。俺にも1本くれない?」
「止めときなよ。綺麗な肺してんでしょ」

名前が止めると、同級生は憮然とした。そして、何かを決意した様な面差しで、勢い任せに名前の唇から煙草を奪った。それをまるで深呼吸の如く吸い込むものだから、当然、派手に噎せた。

「俺、さ!名字の、事、好きなんだよね」
「はあ?」

涙目で、咳き込みながらの告白に唖然としていると、無言を肯定と取ったものか、同級生は名前 に唇を寄せた。影が重なる。そして、次は頬を張られた同級生が目を見開いて呆然とする番だった。おめでたい思考の同級生を恨めしい眼差しで見据える。名前は何か言ってやろうと思案したが、捨て台詞すらも勿体無いと思い直す。

名前は無言で踵を返した。安アパートへと、もっと言えば甚爾の元へと帰りたかった。やがては、同級生の残滓を振り切ろうとでも言う様に駆けだす。

アパートの扉を開けると、甚爾が立っていた。石鹸の香りが名前の鼻腔を擽る。湯上がりの甚爾は名前の方に顔を突き出して鼻をすん、と鳴らす。それから「風呂に入れ」とだけ言って奥の部屋に消えて行った。

随分と走ったので汗のにおいを咎められたのかと慌てて風呂場へ向かう。シャワーは無い。昔ながらのステンレス製の浴槽に沈む。顔まで浸かり、ぶくぶくと泡を立てながら同級生の滑稽な表現に思い起こす。特別な感情は何も沸いて来なかった。そして今日の出来事は胸底にしまい込んでさっさと忘れようと心に決めて湯船を出た。

濡髪にタオルを被りキャミソール姿で自分の布団を敷いていたら、突然奥の間を二部屋に仕切っている襖が開いて甚爾が顔を出す。

入るぞ、と既に入ってから言う不躾さが甚爾らしい。

今しがた名前が綺麗に敷いたばかりの布団に波が寄る。甚爾に肩を押されて、ゆっくりと仰向けに倒れて行く。名前が、目を見開いて固まったまま薄暈けた天井を凝視しているのものだから甚爾は小さく舌打ちをして、名前の華奢なおとがいを掴んで視線を絡める。それから腕の中にしまい込む様に覆い被さり、名前が自分の背中に腕を回す様に誘導してやる。

「外に男でも居んのか」

甚爾は名前の鎖骨の辺りに顔を埋めて再び鼻をすんと鳴らし、戸惑う名前に「他の男のにおい付けて帰って来るなんて、良い度胸だ」と嗤ってみせた。

名前は甚爾から視線を逸らして目を伏せた。睫毛が頬に影を落とす。心当たりはあったものの、甚爾の真意を図れずにいた。

「同級生に言い寄られただけ」

図りかねて事実を述べた。甚爾は名前の言葉の真偽を値踏みする様に顔をまじまじと眺めた後「ふ〜ん」と素っ気ない相槌を一つ投げて寄越すとそのまま名前から下りて布団に横になった。

「来いよ」

答えを聞かずに腕を引かれて再び甚爾の腕の中に収まる。思わず身体を固くする名前。

「心配すんな。餓鬼相手に盛る程女に困ってねえよ」

名前の耳元に唇を寄せてそっと囁く。擽ったさに身をよじる。
それでも、先程より幾分か和らいだ声音に名前は小さな安堵を覚えた。ろくでもない男の戯れか気まぐれか分からないけれど、あまりに心地好くて名前はそのまま溶けるように溺れる様に眠りについた。


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