次の日目を覚ますと、あの子猫は姿を消してしまっていた。


名前を何度も呼んで部屋中を探したが、影も形もない。
今までの事が全て夢だったのかとも一瞬思ったが、拾った日から寝床にさせていた小さな箱も、食事を入れる皿もそのまま。あの子猫の存在だけが、すこんとなくなってしまっていたのだ。

子猫を拾って飼っていたのは真実。その子猫が今日消えてしまったのもまた、事実だった。

「…チハヤ?」

いつもなら呼べばすぐに返ってくる鳴き声もなく、好んで入っていた家具の隙間やベッドの下も探してみたが、やはりあの小さな姿は見付からない。どの場所も鍵を掛けて出られる場所はないにも関わらず、だ。
ふとすれば足に擦り寄る温もりの感触がある気がして、何度も自分の足下を眺めてしまう。

――狐につままれたような気分だ。相手は猫だが。

「…まあ、いいか」

どうせいなくならなくても、捨てるつもりだったのだから。無理矢理箱に閉じ込めて、後は元いた街の隅に置いてくればいい。
そう考えると、自分から消えてくれた分、手間が省けたというものだ。


『…うそつき』
「!?」


不意に小さく、遠くから声が聞こえた。びくりと身体が反応して辺りを見回すが、当然の如く誰もいない。

『アルヴィン、きのうの夜、ずっとないてたくせに』
「…誰だ?」

言わなくても、大体分かる。
にわかには信じられないけれども。

『うそつきでよわむしなアルヴィンのところには、わたしはいたくないの』
「…チハヤ…」
『そんなだから、わたしにも、あの女のひとにも逃げられるんだからね』

幼い女の子のような声が、どこからともなくつらつらと。
そんな声に反論も出来ず聞いてばかりの自分はどれだけ情けないのだと、思考の隅で呟いた。

そうだよ、俺は弱虫で、嘘吐きだよ。
本当は、どこへだってお前を連れて行きたい。もしかしたら、道中で母猫と再会出来るかもしれない。
でも、仕方ないだろ?仕事に猫なんか連れて行けないんだ。
そう、仕方ない。全部全部、仕方ない――

『また、うそついてる』
「っ!?」
『アルヴィンは、自分のために、わたしをすてるつもりだったんでしょう?つれていきたいけど、っていうのも、いいわけでしょう?』
「………、チハヤ、俺は、」
『もういいの。わたしはもう、すてられるのは嫌。今度はすてられるんじゃなくて、わたしから出ていくの』
「………」
『だから、アルヴィン、もう泣かないで』
「!」

こんな子猫にまで、そんな事を言われてしまった。
仕方ないと言い訳をして、無情な選択をした自分と、それに先回りをして相手が傷付かないように自ら出て行った子猫。

そんな事をされたら、どちらが大人でどちらが子供か、分からなくなるじゃないか。

「…チハヤ…ごめんな、俺…」
『だいじょうぶ。何だかアルヴィンとは、またどこかで会える気がするの。だから、さみしくないの』


またいつかどこかで会ったら、いっぱい撫でて、アルヴィンがつけてくれた名前を呼んで、遊んでね。

今までありがとう、アルヴィン。わたしを助けてくれて、ありがとう。一緒にいてくれて、ありがとう。

アルヴィンのこと、絶対に忘れないよ。


――じゃあ、ばいばい。


「………っ!!」

その言葉に反射的に部屋の窓を開け放ち、イル・ファンのぼんやり明るい街並みに目を凝らす。
通りの隅に見慣れた尻尾が一瞬見えた気がして、しかしそれも人垣に紛れ消えてしまった。

「…何だよ、あいつ…」

生まれて間もないくせに、妙に分かったような話し方をして。苛立ちのようなそうでないようなむず痒い感覚に頭を掻く。


ふと、彼女がそれまでいた箱の中を覗き込んでみる。
彼女と話せたからといって存在が戻ってきたわけでもなく、空のそこには毛布が1枚敷いてあるだけ。

一緒にいたのは短い、本当に短い間だったのに、何もないその空間が妙に虚しい。


別に助けなくてもよかった。
あのまま放っておいてあの子猫がどうなろうとも、最近の若者は物騒だねえ、猫を川に投げ入れるなんて、と、思うだけで済んだのだ。
しかし、母をなくし身動きも取れず周りにされるがままになっているその姿に、どこか自分を重ねてしまった。
待てども助けは来ず、自分だけでは何もできない、弱々しいそれは――まさに、子供の頃の自分の姿で。


気まぐれの、偶然のはずだったそれは、意外とそうではなかったのかもしれない。
自分と彼女は、見えない何かで繋がっていただろう。
だからこうして、最後に話もできたのかもしれないと、柄にもなく思ってしまう。


「不思議だな…お前とはまた、会える気がするよ」

ぽつりと誰にでもなく呟いて、開け放った窓際に戻って外を眺める。
いつもと変わらず発光樹の灯りがぼんやりと街を照らし、しかし空はこれから雨を降らせるであろう、分厚い雲が覆っている。

また彼女は1人で雨に濡れるのだろうか。
否、今度は心配ないだろうと、確信に似た何かを感じてしまい思わず苦笑する。
あそこまで言うようになったんだ、もう1人でも大丈夫だろう。

そして、彼女が大丈夫なら、きっと自分も―――


「…いつかまた、な」


お前との毎日、俺は幸せだったよ。

そう言って窓を静かに閉じ、片付けを始めようと踵を返して空の箱に向き合った。


それから暫く経ったある日、アルヴィンが彼女と同じ名前の人間の少女と出会う事になるのは、また別の話。


『わたし、さよならする』
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