人もまばらになりつつあるホテルのバーカウンターの隅の席に腰掛け、チハヤは静かにイル・ファンの夜景を眺めつつ手元の本のページを繰っていた。
夜域の為常に夜景なのは変わらないが、 暗い色が濃さを増し、街を歩く人も減ったこの時間は少し景色の見え方が違う。むしろこの時間に街を見ながら何かに思いを馳せ杯を傾けるべきだ。
――いつだかそう熱く語っていた顔見知りのバーの店主から何杯目かのグラスのおかわりを受け取り、チハヤは再び文字の羅列に目を落とす。
新しい精霊術でも覚えてみようかと古本屋の最奥から発掘し買い叩いた古ぼけた精霊との契約に関する書物。理解出来ない事はなかったが、それは慣れ親しんだ炎の術ではなく、真逆の属性である水の術であった。
使えないというわけではないのだろうが、体内のマナの相性でも悪いのだろうか、チハヤは水属性のマナを上手く扱えず、自分が使う事、さらには術を使う仲間の近くに寄る事も極力避けていた 。
折角手に入れた書だが、明日にでもエリーゼかローエンかミラに譲るか、別の街で売り払ってしまおうと思案するチハヤの脳裏に、値引きしてくれいや駄目だと論争を繰り広げた店主の姿がちらつく。
――中身を確認してから買えばよかった。
――結局使わないで売っちゃいます、すみません。だけど売る時は買値の倍で売ってみせますから。
そんな事をこの場にいない人間に対し思いつつ早々と空けたグラスをカウンターの店主に渡し、次は何を飲もうかと難しい文字の列から明るいソフトドリンクのメニューに目を移した時、
「…うっ!?」
「よおー、チハヤちゃん、駄目だぞー、こんな遅くまで起きてちゃあ」
「あ、アルヴィンさん…」
気配も無く唐突に肩にずしりと掛けられた体重にチハヤは目を見開き振り向いて、相手を認識した瞬間にその異変を感じ顔を顰めた。
「あれ、おたくお酒飲むの?駄目駄目、未成年はパレンジジュースで我慢しなさい」
「アルヴィンさん…お酒臭い…」
「え、そう?いい匂いだろ、ははは」
上擦った声、身体に凭れる弛緩しきった体重、強烈なアルコールの匂い。聞かずとも分かる、アルヴィンは酔っ払っていた。
ぶわりと彼の呼気と共に漂う匂いに自分まで酔ってしまいそうになり、チハヤは本とメニューを閉じて後ろの長身を退かそうとする。
「今度はどれだけ飲んだんですか…」
「あー?3杯目のムーンライトまでおぼえてるー」
「とりあえず重いから、離れてください…!」
「そう言わずにさあ、たまには付き合ってくれよ、朝まで」
「馬鹿言わないでくだっ、ふわあっ!!」
べろんべろんでチハヤに凭れていた状態から一転、アルヴィンはすっくと背筋を伸ばしてチハヤの腰を掴まえて小脇に抱えた。
もしかして酔っているふりをしているのかと疑ったのも数秒、そのまま歩き出した彼にチハヤは慌てて降りようとするが、伸ばした手足はぶらぶらと空を掻くばかり。
哀れ、身長差。
「マ、マスター…!とりあえずお代はこのひとにツケておいてください!」
「お酒飲んだ悪い未成年には奢りませーん、うはは」
「飲んでませんから!離してくださいアルヴィンさん!」
「いやでえーす」
そんな会話(?)を残し、酔っ払いと未成年の姿はホテルのエレベーターの中へと消えた。
・・・・・
「あ、やっと帰ってきたよアルヴィン…って、」
深海の色をした半眼が一対、ジュードを見つめている。
「チハヤ…何となく分かるんだけど、どうしたの」
「分かるなら助けてほしいんだけど、ジュード」
これ以上ない程不機嫌に顔を歪めたチハヤと、彼女を脇に抱えてへらへらといつもの数倍だらけた顔を浮かべるアルヴィン。
ベッドの上で読みふけっていた本を閉じ、ジュードは立ち上がるとアルヴィンの近くに寄り、漂う強烈な匂いに顔を顰めた。
「うわ…アルヴィン、何杯飲んだの…?」
「知らない」
「なんだよゆうとうせー、俺とチハヤの邪魔するなよお」
「私を入れないでもらえますか」
「つめてえなあ、ほんとは嬉しいくせに」
「はあ!?…って、ちょっと…!」
ふらふらよろよろと、チハヤを抱えたままアルヴィンはジュードの横を通過し(既にローエンが眠っていた為に)薄暗い部屋の空いているベッドへ向かう。
さっと青ざめたチハヤに反してさっと一瞬頬に朱を差した後に青ざめ、ジュードは躊躇い無く拳を振りかぶったが、
「ういー、よっこいしょっと」
「ふぐっ、…うぐっ」
何とも年寄り臭い間の抜けた声を上げながら、アルヴィンは酔っ払いとは思えない動きでまずチハヤをベッドに放り、次いで自身をベッドに飛び込ませ、彼女の腹に腕を回し胸に顔を埋め抱き枕よろしくむぎゅりと抱え込んだ。
くぐもった声を上げながら倒れたチハヤは抱きつかれたと気付き藻掻くが、酔って制御を失った身体の力には敵わない。
「んー、ゆうとうせー、俺このままチハヤと寝るから」
「アルヴィン…」
「嫌です…っ!離してください!」
「寂しいんだよー、一緒に寝てく」
そこでぷっつりと唐突に途切れた言葉にジュードとチハヤは目を丸くし、ベッドの酔っ払いに目線を向ける。
すうすうすやすや、大人の男らしからぬ安らかな寝息。一瞬で完全に眠りに落ちていたアルヴィン。
その状態でもがっちりと固定された腕は最早抜け出せる状態ではなく。チハヤは小さく息を吐くと寝そべった姿勢から首だけ回してジュードを見た。
「ジュード、今夜だけ、ここで寝ていいかな」
「動けなさそうだしね…起こさなくていいの?」
「いいよ、もう…面倒になった」
言って胸元の茶髪をそっと撫でる手つきに、ジュードは彼女に気付かれないよう笑みを浮かべる。
「寂しい」と。
降ってきた言葉は酔いに任せたものの、彼の本心である事は間違いない。
ぽろりと零れたそれを取り落とす事なぞ、常に張りつめている彼女の網は許さないわけで。
――何だかんだで、彼女も彼には大概甘い。
抱きついたまま眠る大人と抱き枕に甘んじる未成年のちぐはぐな姿を見ながらジュードが自分のベッドに戻った時、アルヴィンがもそもそと動いた。
回した腕はそのまま、チハヤの胸元にある頭を動かし、頬を擦り付けて、眉根を寄せて虚ろに薄く目を開ける。
「チハヤ…おたく、ほんとに胸ないなあ」
びしり。空気が凍る、その言葉にふさわしい音がジュードには聞こえた気がした。
アルヴィンの頭に手を乗せたまま静止したチハヤをよそに、アルヴィンはむにゃむにゃと舌足らずな声で続きを紡ぐ。
「何でこんな貧乳なんだろうなあ…ほとんど平らじゃん…?」
「………」
「俺としては…もうちょいあった方が…今度、マッサ」
再びぷつんと言葉は途切れ、今度こそ意識が落ちたアルヴィンを見据えたまま、ジュードは目線を動かせなかった。
否、動かしたくなかった。
「…ジュード」
低く重く。名を呼ぶその声は聞いたことのない音で。発声しているのは誰かと疑いたくなるが、その元は見知った目の前の少女だった。
「私、今日はここで寝るから。よろしく」
いつもと同じだが冷えに冷えた抑揚のない声に、ジュードは怯えが混じった苦笑を浮かべて頷いた。
アルヴィン、自業自得だよ。
・・・・・
翌朝、ふわふわとろとろとした感覚の中でアルヴィンは意識を浮上させた。
昨夜の酒がまだ残っているのか、二日酔い確定だな、またあの子にどやされる、と思ったのも束の間、頬に当たる感触に浅く眉を寄せる。
布団とは違った柔らかさと暖かさ。身を捩れば仄かに甘い香り。まさかと目を開けて抱えていたそれを見ようと、
「いっ……つ…!?」
がつんと衝撃が頭に走り、目に稲妻に似た閃光が走る。
そのまま数度がんがんと殴られ、アルヴィンは慌てて腕の中のそれを開放した。
「な…っなん…だよ!?」
「おはようございます、アルヴィンさん」
「はあ!?チハヤ…!?なんで、」
「では」
閃光の中かろうじてアルヴィンが捉えたのは、翻りふわりと宙に浮く黒い髪だけだった。
蝶番が取れそうな程乱雑に閉められたドアをベッドに寝転がりながら漸く見つめ、がしがしと頭を掻けば隣からため息が聞こえる。
「なあ…俺、何したんだ…?」
「とりあえず…」
「とりあえず?」
「また口利いてもらえるように、頑張った方がいいと思うよ」
その言葉にひたすら疑問符を浮かべ首を傾げるアルヴィンにを見、自分が飲めるようになったら絶対に程々にしようとジュードは密かに誓った。
eye opener
彼に目覚めの一発をくれてやった後、チハヤはその足で昨日買った古本を売り払い、そのガルドで別の本を買って戻り、漸く何かをぶつぶつと呟きながらそれを読み続けていた。
読み終わるまで、アルヴィンとは目を合わせる事もなかった。
end
―――――――――――
つぶやきログにするつもりで書いていたものがあれよあれよと短編サイズになったのでこちらに収納。
タイトル:「目覚めの一杯」という名前のカクテルから。
(夢主が買いに行ったのは胸を大きくする方法の本とかそんなんですたぶん)
2013.10.13
2013.11.1 加筆修正
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