andante con moto


本番が終わると気が抜けて、時差をつけてどっと疲れがやってくる。無事今日の定期演奏会が成功してよかったなっていう達成感もあるけど、正直なところ数時間後の打ち上げもすっぽかして今すぐにでも帰ってベッドに倒れたかった。

昨日は今日のために半日みっちり練習をして、今日は早朝からリハーサルをして午後から本番。演奏会の前日は緊張と興奮で寝られないのは昔からで、今回も寝不足と疲れでぐったりだった。

眠気を覚ますためにステージの片付けが一段落した頃、トイレでひとり顔を洗う。顔を上げると鏡に映った自分の顔がぼんやりと見えて、視力が悪いせいでよく見えないけど相変わらず冴えない顔だなと思った。こんな顔がみんなの前に出てひとりスポットライトを浴びて目立っていたなんて、観客からしたらどうなんだろう。

「あっ鳩村くんお疲れ様ー! ソロよかったよー!」
「うん! すっごいよかった! やっぱり鳩村くんはすごいねー」
「あ、ありがとうございます……」

トイレから戻ると片付けは全て終わったようで、広いステージの上でまばらにかたまって各々雑談をしていた。
僕に声をかけてくれたのはどっちも同じフルートの人。いろいろな楽団に手伝いに呼ばれてるけど、やっぱりフルートに男性は珍しいようで、今までにひとりしか出会ったことがない。トランペットには男が多い印象だけど、木管高音はやっぱり女性が多いなぁと思う。周りが女性ばっかりだと練習の時は少し居心地が悪かったりするよね。

「鳩村くん鳩村くん、これ」
「はい?」

どの輪にまざろうとするわけでもなく、声をかけてくれる人には反応を返すといった感じで隅の方でぼーっとしていたら、突然肩をぽんぽんと叩かれる。

「鳩村くんに差し入れだよー。はいこれ」
「あ、ありがとうございます」

手渡されたのは薄い水色の紙袋と、小さな袋に入ったクッキーの詰め合わせ、それからケーキを買った時に入れてもらうような、取っ手のついた箱の小さいやつ。多分中身は洋菓子の詰め合わせだと思う。
箱の後ろに貼られている賞味期限とか書いてあるシールが目に入ってぎょっとする。差し入れの中にはたまに有名なお店のものがあったりするんだよね……。こんなに高くてしかも美味しいものもらっていいのかなぁっていつも思う。

「そっちのクッキーと箱のはフルートのみんなで分けてねーってやつだけど、それは鳩村くんにだって」
「え? 僕に……ですか?」
「うん。知り合い? 学校の友達とか?」

自分に、と言われて紙袋に貼られたシールを見る。丁寧……だけどちょっと崩れたような字で書かれた僕の名前。その下は空白で、誰からのものなのかは分からなかった。数少ない友達から借りたノートを思い出してみるけどこんな字は見たことがない……と思う。

誰からのだろうと悩んでいる間に、僕に差し入れを手渡した人は既に違う人のところへ行って、同じように差し入れを手渡していた。

お付き合い……といってしまったらあれだけど、市内や近隣の町や市で活動している他の楽団からみなさんへ、と差し入れをもらうことはよくある。
ここみたいにすごく大きなところだと、家族や知り合いから個人、またはその人がいるパートのみなさんで、っていう差し入れもくる。

さっきも言ったように、いろいろな楽団に呼ばれて演奏会のお手伝いに行ったりは結構してるけど、僕宛てに差し入れをもらったことは一度もなかった。昔から人付き合いは苦手だし、交友関係の狭さも関係あるだろうけど、そんなに有名じゃないからなぁ。有名な人はその人宛てにひとりで抱えきれないくらいの差し入れがくるんだよね。

僕宛てだっていう紙袋の中身が気になって今すぐにでも開けたかったけど、子どもじゃあるまいし、もらったものをすぐその場で開けるのは行儀が悪いからぐっと我慢して鞄にしまう。
それからすぐミーティングが始まって、僕を含めエキストラや指揮者さんからの一言があったりして、一度家に戻るまですっかり忘れていた。


   * * * * *


「鳩村なに飲む?」
「えっと……う、ウーロン茶、で……」
「ウーロン茶かよ! 酒飲めよ酒! それともお前帰り車なの?」
「違うけど……。じゃ、じゃあカシスオレンジで」
「おっいいねいいね!」

僕はあんまりお酒に強くない。だからあんまり積極的には飲んだりしないけど、みんなにすすめられたのと、たまにはいいかと思って滅多に飲まないお酒を注文する。といってもカクテルしか飲めないんだけどね。

数時間後、結局僕は打ち上げに来ていた。帰って着替えながら今すぐにでも寝たいって思ったけど、やっぱり打ち上げって大人の楽しみだから。

談笑しながら、運ばれてくる料理を食べながら、時間をかけてゆっくり飲んだにも関わらず、グラスが空になる頃にはほとんどできあがっていたと思う。普段だったら必要がなければ人に話しかけるなんてことは絶対にできないのに、面白そうな話題があると誰彼構わずそこに突っ込んでいた。宴もたけなわでほとんどの人は既にできあがっていたし、普段話さないような人でも笑って輪に入れてくれた。

「ねー鳩村くん」
「んー? なんですかー?」

向かいの席に座った人たちの会話を聞きながら、運ばれてきた料理を食べていたらいきなり背中をばしばし平手で叩かれた。

「これさぁ、鳩村くんのこと書いてあるよ!」
「え? 僕のこと?」
「ほらほら! すごい褒められてるよ!」

そう言って紙の束を押し付けられる。演奏が終わった後にお客さんに任意で書いてもらうアンケートだった。

「俺それさぁ、印刷されてる点線だと思ったわ」
「あたしもあたしも!」

隣の人が僕の手元を覗き込んで笑いながら言う。言われて気付いたけど、印刷された点線の上に見える灰色の点は、よく見ると細かく書かれた文字だった。言われなければ僕も印刷された点線だと思ってたに違いない。

顔を近づけて、目を細めてやっと判別できた。視力の悪い僕には正直つらかった。けど僕のことが書いてあるらしいから、なんて書いてあるかすごく気になる。

はじめまして、初めて演奏会を聞きにきましたが、からはじまる長い前置きの後に、フルートの音色が、フルートのソロが、と、とにかくフルートのことで最後まで埋め尽くしてあった。お酒がまわった頭でもそれは僕のことを言ってるっていうのがよく分かって、顔が熱くなる。
何回か読み直してなんだかいっぱいになって顔を上げると、アンケート用紙を押し付けてきた女の人と目が合った。

「べた褒めじゃん」
「すっげー褒めてるよなそれ。いやーよかったな!」

左右から背中を同時に叩かれて痛い。痛いけど、そんなの全然気にならないくらい、なんていうか、とにかくその時の僕はいっぱいいっぱいで。

打ち上げが終わって電車で帰ってる時、不意にそれを思い出して、終電間近の人気のない電車の中で多分僕はひとりでにやにや笑っていた。



家に帰ってなにをする気力も出なくて、ベッドに座ってボーっとしていたら、ふと差し入れの存在を思い出した。一度家に戻ってきて気付いた時はもう出ないといけない時間だったから、鞄に入れたまま放置していた。

鞄の底に埋もれていた薄い水色の紙袋を引っ張り出すと、適当に詰め込んだせいで少しぐちゃぐちゃになっていた。

改めて僕の名前が書かれたシールの文字を見ていたら、アンケートにひたすら僕のことを書いていた人の文字と似ているような気がした。
アンケートの下に名前とか書く欄があったんだけど、そこは空欄だった。だからもし、あれを書いてくれた人と、この差し入れをくれた人が同じだったとしても、結局誰かは分からない。

差し入れもアンケートも誰なのか分からないし、すごく気になるけど、差し入れも僕のことを考えてくれたのかなとか珍しく思ったりして、僕の音を聞いてくれたこととか、あんなに褒めてくれたこととか、とにかくすごくすごく嬉しくて、僕はひとり部屋でにやにやと笑っていた。





●andante con moto(アンダンテ コン モート)
andante=歩くような速さで
con moto=動きをつけて、速めのテンポで、生き生きと、元気よく、活発に

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