むかしむかしの、とおいむかしの僕のはなし
僕はよく女に間違われるけど、これでもれっきとした男だ。顔で間違われることも多いし、名前も「律」っていう名前だけじゃ男女どっちか分からない名前だから、名前を言っても信じてもらえないことも多い。特に、何かの行事で女装をしている時なんかはね。
名前は自分でも気に入ってるから嫌だと思ったことは今までに一度もないし、髪だって伸ばしてるのは自分の意思。だから半ば自業自得な部分もあるんだよね。だから、女に間違われても怒ったりとかはしない。自分も楽しんでる節はあるし。というか、女に間違われるのが心底嫌だったら女装なんてしないし、髪も短くしてると思う。
文化祭で時々いるんだよね。いくら言っても僕が女の子だって言い張る人が毎年数人。声が低いのも女にしてはハスキーなだけだ、とかなんとか言って、とにかく信じてもらえない。
男だって証明する手っ取り早い方法は脱ぐことなんだろうけど、公衆の面前でそんなことをする勇気は僕にはない。初対面の人に裸を見られるのも嫌だし。
中学生の時の文化祭で有名なアニメの女の子キャラのコスプレをしたことがある。僕の中学校では一日目に仮装大会みたいなのがあって、二日目の一般公開でも僕のクラスはコスプレ喫茶だったからそのまま同じコスプレをしていた。
チラシを配るために校内をうろうろしてたんだけど、後ろから肩を掴まれて「それもらえるかな?」って男の人に声をかけられて。浮かべられたにたにたした笑いに少しだけぞくっとした。
「君、かわいいよね」
「ありがとうございます」
チラシを手渡した後に言われたそんな台詞も、ただの褒め言葉なんだろうと思って笑顔で受け流す。そう声をかけられることは何度かあったから。女装といっても褒められるのは悪い気分はしない。いかに女の子になれるか、を追求してるところもあるからね。
これで終わりかな、と思ってたらなぜかなかなかその人はその場から動こうとしない。混雑している廊下の途中でだったから、邪魔になるし正直早く行って欲しかった。
「ねえ、君さ、ちょっと案内してくれないかな?」
「いいですよ」
道を聞かれることはよくあったし、この時点でもまだそこまで不審には思わなかった。
どこに行きたいのか尋ねたら少し悩んで理科室、とその人は答えた。確か理科室は科学部が参加型でいろんな実験をしてるんだっけ。時間があればのぞいてみたかったけど、無理かもな。
僕がいた場所から理科室までは結構な距離があった。理科室のある特別教室が集まってる校舎へ抜けると、一気に人がいなくなる。こっちの教室はあんまり使われてないんだよね。
僕がいたのは一階、理科室があるのは三階。一階から今僕が向かっている校舎の端の階段を上がって三階に行く人はたぶんほとんどいないと思う。分かりにくいし、二階か三階から行った方が看板も出てて分かりやすいから。
僕がこっちの道を選んだのは、人混みを通っていくよりも早いと思ったから。でもそれが間違いだった。
「え?」
角を曲がった時、突然腕を引っ張られて、気が付いたらその人の顔が間近にあった。
「ほんとーにかわいいなぁ、君……名前はなんていうの?」
顔にかかる荒い息。徐々に力が込められる、肩を掴まれた両手。いつの間にか足の間に割り込まれていた膝。そのままじわじわと詰め寄られる距離。背中には固く冷たい感触。
「あの、僕、男なんですけど」
「男? そんなかわいい顔して男なわけがないでしょー? 大体そんな格好してるのに……。大人をからかっちゃダメだよ?」
お腹に当たった固い感触にぞくっとした。
この人……興奮してるんだ。――僕に。
ピンチになると人って本当に何もできなくなるのを、この時身をもって体験した。
自分が大変な状況に陥ってるのはなんとか理解できるんだけど、助けを呼ばなきゃと思っても声が出ないし、逃げようと思っても体が動かなくて、殴ったり蹴ったりなんてこともできなかった。
もう少しでキスをされそうになってようやく我に返って、とっさに顔を避ける。そんなことは気にせずに相手は肩から手を離して、今度は僕の体を触り始めた。
服の上から胸をまさぐっていても、まだ僕が男だということには気付いていないようだった。スカートの中の太ももを撫でられて悪寒が走る。気持ち悪い。叫びたい。逃げたい。泣きたい。
太ももを撫でていた手がスカートを掴んで一気に捲り上げる。中に履いていたジャージを少しだけ下ろして、足の間をわしづかみにされた時、ようやく僕が男だということが分かったようで、変な声を出しながら僕から離れて反対側の壁に背中からぶつかった。
「お前男だったのかよ! 騙したな!」
僕の足の間を触った手を何度もズボンに擦り付けながらその男は走ってどこかへ行ってしまった。足音がフェードアウトしていって、代わりに徐々に少し遠くから聞こえる喧騒が耳に戻ってきて、今自分の身に起こったことは現実なのだと未だにぼんやりする頭で思った。
体の力が抜けて、壁伝いにずるずると崩れ落ちる。
時間にすればほんの数分の出来事だったと思う。でも、僕からしたらものすごく長い時間の出来事のように思えた。
僕が何をしたのだろう。勝手に女だと勘違いして、手を出してきたのはそっちじゃないか。僕は男だと言った。信じなかったのはそっちだ。そうじゃなくても、見ず知らずの人を人のいないところに連れ込んで襲おうとするだなんて、そのほうがどうかしている。
文化祭が終わるまで、僕はトイレでひっそり泣いた。襲われそうになりました、なんて仲のいい友達にも言える勇気はなかった。だって、僕は男だから。男が襲われそうになるなんてまず信じてもらえないだろうし、抵抗しろよ、なんて言われたらきっと反論できなかったから。
ひとつだけまだ幸運だったのは、触られたのは下着の上からだってこと。もし直接だったら、ショックは相当なものだったと思う。
それから時間が流れて、なんとかその時のことは心の奥底に封印できて、女装することにも抵抗はなくなったけど。
このことは誰にも言っていない。というか、言う機会もないだろうしね、こんなこと。
「りっちゃん? どうしたの? さっきからぼーっとしてるけど……」
「ううん、ちょっと考え事してただけ」
今、ひとつだけ怖いのは、今僕はなるみんと付き合っていて、きっといつかは一線を越えるんだろうけど、その時にこのことを思い出してしまうんじゃないかってこと。
自分で言うのもなんだけど、中性的だからと僕を好いてくれる人は多いのだそうだ。なるみんも最初はそこに惹かれたのだそう。今では僕の全部を好きだと何度か言ってくれていて、その言葉に嘘がないのも知っている。なるみんはいつも真っ直ぐだから。
でも一線を越えようとした時に、幻滅されるんじゃないかっていう不安はどうしても拭えない。信用していないわけじゃない。どうしても怖くなると思う。そればっかりは意思とは関係なく出てしまうかもしれないから、そうなってしまったらごめんね。
その時にはなるみんにはそうなってしまった、過去の一連の出来事を話すと思うけど、きっとなるみんなら何も言わずに聞いてくれるんだろうなって思う。話してる途中で泣いてしまったら、きっとぎゅってしてくれるんだろうなって思う。
「そっか。具合でも悪いのかと思って心配したけど、それならよかった。最近風邪流行ってるみたいだし、りっちゃんも気を付けてね? 少しでもだるかったりしたら無理しないで休んでな!」
「……ありがとう」
だって、なるみんは優しいから。