仏の顔もなんとやら


「あのね、さすがの僕でも怒るよ?」
「……すみませんでした」

怒ると怖いなどとと自分で言う人間は大抵そうでもないとはいうが。

今日ばかりは律の笑顔が怖かった。終始土下座の体勢の鳴海に顔を上げてよと優しく穏やかないつもの口調で律は言うが、恐ろしくて微動だにすることができなかった。

「仏の顔も三度までって言うし、今回までは厳重注意ってことで見逃してあげるけど」
「はい」
「次やったら本気で怒るからね?」
「……はい」

律が何に対してこんなにも怒っているのかというと。もちろん原因は鳴海にあった。

大学生になり、親の反対を押し切って一人暮らしをはじめた鳴海。そのせいで家からの仕送りは少なく、アルバイトを掛け持ちしてなんとかやりくりをしていた。
学校と部活動以外にほとんど自由時間はなく、ひたすらアルバイト三昧の生活をしていたおかげで仕送りは少なくても金銭の面で苦労することはなかった。生活費に部活動及び楽器の維持費等、必要な費用を差し引いても遊びに使えるお金、貯金に回せるお金もあった。

ことの発端は数ヶ月前、彼がMy楽器を購入した頃に遡る。
何件も店を回り、いろいろな人の意見を聞き、情報を収集して、年単位の時間をかけて一生添い遂げるならこれだと決めていた楽器があった。当時、必要な金額にはほんの少し達していなかったため、無理を言って取り置きしてもらい、念願かなってようやく購入したユーフォニウム。

元々彼のユーフォニウム――彼がいつも呼んでいる名前で言うならばふぉにたんに対する熱意と愛情はものすごかった。自分の楽器を購入したことでさらに火が付き、マウスピースを買うために何度も遠征したりと、誰しも自分の楽器に対しては愛情を持つものではあるが、鳴海は人一倍だった。

しかしアクセサリーを買うためにわざわざ遠征するのはなんらおかしいことではない。友人の奏斗や音哉もたびたびしていることだ。
本人の才能や技術、努力も必要だが、上達するためには楽器もいいものを選ぶ必要がある。こだわればキリがないだろう。

鳴海は自身の上達のためはもちろん、ユーフォニウムが好き過ぎるあまりにこだわりすぎたのだ。こだわるのはいいことだが、限度というものがある。

なにをしたかというと、結論から言うと倒れて数日間音信不通になっていた。生活費を削ってまで楽器の維持費にあてていたため、ここ数ヶ月まともな食事をとっていなかったことと、それに加えてアルバイト先が繁盛期ということも重なって多忙な生活を送っていたことが理由だ。

「なるみんがふぉにたん好きなのはよく分かるよ」
「はい」
「ふぉにたんの面倒を見たり、愛情を注いであげられるのはなるみんだけなんだよ。そのなるみんが倒れたら元も子もないじゃん」
「はい……すみません」

自分の不摂生に対する怒りや呆れよりも、真っ先に自分の身のことを心配してくれる律には本当に頭が上がらない。

最初に律が「仏の顔も三度まで」と言ったが、不摂生がたたって鳴海が倒れたのはこれがはじめてではない。二度目、いや、律の中のカウントでは三度目かもしれない。一度だけ未遂だったことがある。

「こだわりたい気持ちも分かる。演奏するのって楽しいし、ふぉにたんと一緒のなるみんって生き生きしてるもん。そんななるみんが僕は好きだからさ、もう少し自分のことも考えてよ。僕だけじゃなくて、なるみんがいなくなったら困る人たくさんいるんだから」
「……はい」
「とりあえず今日はしっかり食べて、しっかり寝て休んでね。あとこれからしばらくはバイトも少し減らすこと。いい?」
「はい、はい、本当にすみません、申し訳ないです」
「だからもう顔上げてってば。とりあえず美味しいものは作ってあげられないけど、なにか作ってあげる。なにがいい? なるみんは休んでて」

鳴海が顔を上げたのを確認すると、律はキッチンへ向かう。シンクの上には律が来る途中にスーパーに寄って買ってきてくれた野菜やレトルト食品などが並んでいた。

「りっちゃんが作ってくれるならなんでもいいよ! りっちゃんが作ってくれるものなんでも好きだし!」
「それが困るんだけどなぁ」

迷うことなく買ってきた野菜を定位置にしまいながらくすくすと律は笑う。

律は料理が得意ではないし、お世辞にもうまい方ではない。
鳴海は自分のためにとわざわざ時間を割いてこうして家にやって来て、手料理を作ってくれるのがなにより嬉しかった。「美味しい」と言うと「ありがとう」とはにかむ律が好きだ。決して規則的ではない包丁がリズムを刻む音、時折なにかを間違えたのか慌てた風の律の声、上手くできた時の嬉しそうな律の顔。他愛のない話をしながら小さなテーブルを一緒に囲む時間も、後片付けはどちらがやるかで毎度起こる些細な揉め事も、鳴海にとってはユーフォニウムを吹いている時と同じくらい、幸せな時間だった。

「……りっちゃん、いつもありがとう」
「ん? なんか言った?」
「……いつもありがとう! りっちゃん!」
「……どういたしまして?」

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