おやすみ、またあした


「俺、やめようかな」

壁に背中を預けて、薄暗い宙をぼんやりと見つめながら奏斗はぽつり呟いた。

奏斗がなにをやめたいのか。主語を言わずとも音哉は分かっていた。

「やめたいなら、やめればいい」
「……うん」

やめるな、とは絶対に言わないと決めていた。本音を言えばやめて欲しくないけれど。今の奏斗が欲しいのはその一言ではない。
仕事ではないのだし、義務でもないのだから無理してまで続ける必要はない。またやりたいと思ったら、その時は戻ってくればいい。彼のドラムを、パーカッションを楽しみにしている人はたくさんいるのだから。音哉もそのひとり。

「その時は俺もやめるから」
「……いいよ。音哉はやめなくて」

音哉だって吹奏楽は好きだ。だからこそこつこつお金を貯めて、決して安くはない楽器を購入したのだし、学校を卒業した今だって続けている。
自分に吹奏楽をやるきっかけをくれた、楽しさを教えてくれた奏斗がやめるというのなら、その時は絶対に音哉もやめるだろう。奏斗の音楽が好きだから。同じ舞台に立って演奏したいから。奏斗と同じ舞台に立って演奏している瞬間が、音哉はなによりも幸せだった。

「こうなるのは分かってたけど、実際なるとつらいなぁ」
「……うん」
「みんな、"俺"には興味ないんだもんな」
「……そんなことはない」
「だってそうじゃん」

返す言葉が見つからなくて、両腕に顔を埋めて鼻を鳴らしている奏斗の頭をくしゃりと音哉は撫でる。

少なくとも音哉は"奏斗の"音楽が好きだし、今所属している楽団だって、必要としているのは"奏斗"自身だ。
しかし音哉以外の知り合いが口をそろえてそう言ったところで、奏斗には信用できない理由があった。

「だから俺、パーカスにしたのになぁ……でも結局音楽やってるって時点で、同じなんだよね」

ドラムが楽しそうだったから。あんな風に叩けるようになりたいから。
だからパーカッションにすると、中学一年生の体験入部の帰りに奏斗はとても楽しそうな表情で言っていた。
入部して無事にパーカッションに決まり、ドラムを究め、中学、高校、大学を卒業した今でもパーカッションを究めている。好きこそものの上手なれというが、奏斗の探究心はすごかった。

あの時、ドラムを叩きたいと言った奏斗の表情は純粋そのものだった。きらきらと
輝いていたのを音哉は未だに覚えている。
しかし後付なのか、その時から考えていたのかは分からないが、奏斗がパーカッションにした理由はもうひとつあった。

奏斗の家族や親戚は全員なにかしら音楽に携わっていた。楽器の経験があったり、音楽に関係する仕事についていたり。名前を聞けば、音楽に詳しい人なら誰かは分かるはずだ。猫柳の苗字の、奏斗と血のつながりがある誰か。
それが奏斗を苦しめていた。名前を言えば、両親や親戚と比べられる。

両親も学生時代に吹奏楽をやっており、当時は母親はホルン、父親はトロンボーンとサックスを吹いていたと聞いた。
だから管楽器は選びたくなかったのだそうだ。同じ楽器を選べば、両親と比較されるのは目に見えていたから。

大学も、卒業後に入った楽団も、なるべく小さな、あまり名前の聞かないところにした。それでも名前を言えば親や親戚の名前を出されることは完全にはなくならなかったが、注目を浴びることはあまりなくなった。

「俺はお前のドラムが好きだ。ピアノも、それ以外の楽器も、お前の音楽が好きだ」
「……ありがと」
「お前の音楽が好きだし、聞きたいと思うけど、気が向いた時でいいから。その時はなにか聞かせてくれ」
「……音哉は優しいね」

自分の一言なんか、奏斗にとって大したものにならないだろう。けれど、自分にできることといえばそれくらいしか思い浮かばなかった。

親の七光りというわけではない。奏斗だって、生まれ持った素質もあるだろうが実力はあった。それになにより、今の奏斗があるのは、昔の奏斗が人一倍裏で努力してきたからだということを音哉は知っている。それをいちばん知っているのは音哉だと思う。

それでも言われるのはあの家の子どもだからそのレベルは当然だということで、奏斗自身の努力や実力について触れてくれる人はほとんどいなかった。奏斗の演奏を一度聞けば目を丸くして驚く人は多いが、それでも奏斗をよく知らない人はみな誰かを通して自分を見ているのだろうという疑いがどうしても拭えなかった。

「でも俺、吹奏楽やりたい……」
「うん。好きだもんな」
「うん。ドラム叩きたい」

吹奏楽は、ひとりではできない。大勢の方が楽しいのが吹奏楽。
大勢の中に飛び込むということは、重ねられたり、比較される回数も比例して多くなるということ。それは奏斗だって分かってはいた。覚悟もしていたつもりだった。しかし実際に言われ続けてみると想像以上につらかった。ひとりで泣くことも最近は多くなった。ずっと隣にいるのに、支えてあげたいのに、いつもなにもできなくて音哉は悔しくてたまらなかった。できることといえば、ただ隣にいてあげることくらいだ。

言っている本人はなんの気なしに言っているのだろうし、褒め言葉だと思っている人も中にはいるのかもしれない。
猫柳と聞けば音楽に詳しい人は思い当たるのは仕方ないとしても、奏斗は好きでやっていることなのだから。仕事ではない。だから比べることではないと思うし、そもそも音楽を誰かと比べること自体、音哉は間違っていると思う。

「……少し、休んだら。……もうちょっと落ち着いたら」
「……うん」
「そしたら多分、またやりたくなるから。もうちょっとだけ、待ってて」
「分かった」

奏斗の頭を撫でながら、床に転がった数本のスティックに目をやる。


――今は、少しだけ、休ませて。

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -