春の陽気とサックスとトランペットと


 日曜日。今日は部活は休みで、特に予定もない。何をして過ごそうかなと、晴れ渡った青空を見ながら弾が考えていた、その時。

「弾きゅん弾きゅん!」

 ドアが勢いよく開いたのと、名前を呼ばれたのはほぼ同時だった。足の踏み場もないほど散らかった部屋を、何も踏まずに器用に弾のいる窓際まで駆けてきたのは兄の連。
 部屋に入る時はノックをしてくれと何度も言っているのだが、それでも家族は皆ノックをしないか、よくてノックをしながらドアを開けるから困ったものだ。母親にはそれでもしつこく言っているが、連に関してはもう半分諦めているので何も言うまいと少しだけしかめた顔を元に戻す。

「何? れんれん」
「サックス吹かせて!」
「サックス? ……なんで急に?」
「吹いてみたくなったから!」

 純粋な眼差しで弾を見上げ――いや、見下ろしている連は、これでも弾のひとつ上の兄だ。連のことだからそれ以外に理由はないのだろうし、我ながら分かり切ったことを聞いてしまったなとなんとなく後悔する。しかしそれよりも壁ドン――この場合は窓ドンになるのだろうか――を弟に対してやるのはやめてほしい。もし誰かがこの光景を見たら、絶対変な勘違いをされる。今家にいるのは連と弾の二人だけで、二人の部屋は二階にあるから外から誰かに見られるという心配はないといえばないが。

「別にいいけど……」
「んじゃサックス持っていつものとこ行くべ! オレラッパ取ってくるから先行ってて! 一緒に吹こ!」
「一緒に、って、ぼくがトランペット吹くの?」
「うん! ラッパ超楽しいよ!」

 言い終えるが早いか、連は再び足の踏み場がほとんどない床を、再び器用に何も踏まずに出て行った。

 今しがた連が出て行った開けっ放しのドアを呆然と見つめて、弾はため息をひとつ。相変わらず落ち着きがないというか、騒々しいというか。それが連であり、自分の兄なのだが。

「……トランペットかぁ」

 無意識にそう呟いた弾の顔は、どこか楽しそうで。

 本音を言えば、一度金管も触ってみたいと思っていたから、連の強引さには感謝する。プライドの高い弾だから、学校ではそんなことは絶対に言えない。弾は今までサックス一筋できたから、構え方を知らないのも、すぐに音が出ないのも、運指を知らないのも当たり前のことで、なんらおかしいことではない。音が出なかったからといって誰も笑ったりなんてしないだろうが、弾にとってはものすごく恥ずかしい。

 ト音もヘ音もハ音も、吹奏楽に使われるあらゆる楽器の楽譜の読み方や、頻出するものからなかなか見ないものまで音楽用語を網羅したり、他にもとにかく音楽に関するいろいろな知識を頭に叩き込んだ弾だが、習うより慣れろということわざがあるように、やってみなければ分からないことはたくさんある。知識だけは大量にあっても、サックス以外の楽器は分からないことも多い。

 (まあ、木管と金管ならアンブシュア気にする必要ないだろうしね)

 アンブシュアは自分を納得させるための適当な言い訳で、本心ではやりたくて仕方なかった。相手は兄の連だし、連なら音が出なくても笑ったりはしないだろう。

 楽器ケースを片手に提げて部屋から出てきた弾の表情は、珍しく浮かれていた。


   * * * * *


 数分後、二人は雑草が好き勝手生い茂った近所の川原にいた。楽器を吹きたい時はいつもここに来る。
 外で楽器を吹くのは楽器にはよくないのだが、家で吹こうものなら家族に怒られるし、近所迷惑になる。今日は風もそれほど吹いていないし、気温も少し肌寒く感じる程度だから、長時間でなければ大丈夫だろう。さすがに真夏のじりじりと肌を焦がす容赦なく照りつける日光の下や、真冬の雪が降る中で吹いたりすることは連でもやらない。

「ほい! ラッパ! 大丈夫だと思うけど、ピストン動かなかったら言って!」
「う、うん……ありがと」
「よっしゃ! 音出っかな!」

 弾にトランペットを渡すと、連は早速サックスを構えた。弾には構え方を教えろと言ってきてちゃんと理解できるまでしつこく説明を求めてきたくせに、自分は教えてくれないらしい。ほぼ毎日見ているからなんとなく形は分かるとはいえ、これで本当に合っているのだろうかとおずおず弾もトランペットを構えた。

 サックスを構える連は、体に力が入っていてどこかぎこちないが、なんだかさまになっているように見えた。弾とは正反対に、身長があるからだろうか。身長があると、何をやっても格好になっているように見える。
 弾は男子の平均身長よりもはるかに下回っているせいか、高身長の同性が楽器を構えているのを見るとかっこいいなと思うし、同時にそれ以上に嫉妬もする。もう少しくらいは大きくなるだろう、いつかはきっと、そう思い続けて高校二年生になってしまった。もう望みはないだろう。

 どきどきしながら連がサックスを吹くのを今か今かと視線を送っていると、どうやら楽器に息は吹き込んでいるらしかった。連の顔が徐々に真っ赤になっていくのを見て、弾は思わず吹き出す。

「くあー! やっぱ一発で音出ねーや! むずっ」
「そりゃーね。金管と木管は違うもん」

 連が初めてトランペットを吹いた時、一発で音が出たからまさか、とは思っていたが、サックスはそうならなくて弾は内心ほっとしていた。連ならサックスでもいい音を出しそうだし、それは兄弟でも悔しいから。

「弾きゅんも吹いてみ!」
「う、うん……」

 連に言われ、構え方も不安なままトランペットを構える。薄い唇に押し付けたマウスピースはひんやりしていた。
 構え方すら教えてくれなかった連が、吹き方を教えてくれるわけもなく、隣でただにこにこ笑って、弾が音を出すのを待っていた。

 金管は、リコーダーや鍵盤ハーモニカのようにただ息を吹き込めば音が出るものではない。唇を振動させて音を出す。それは弾も知っている。

「あーあー、そんな力入れちゃーかえって出ないよー?」

 しかし、頭では分かっていても実際にできるとは限らない。勢いよく吹き込んだ息は、ただ管を温めただけだった。ふしゅーと風船から空気が抜けるような、なんとも間抜けな音が春の心地いいそよ風の音に混じって弾の耳に届いた。

 連の言い方には馬鹿にした意味合いは一切含まれていなかったが、金管を吹いたのは小学生の時、見学に行った時以来だからと弾は心の中で言い訳する。その時も音は出なかったのだが、人の記憶というものは時に都合よく書き換えられているものだ。あの時は音が出たのに、どうして、と弾は顔を歪ませる。

「次は出るって! ラッパはこー、唇を震わせて」
「それは知ってるよ」
「お、さすが弾きゅん!」

 恥ずかしくてつい言い返してしまったが、さすがそこは連で、怒ったりはしなかった。他の人なら怒るまでいかなくとも、気を悪くする人がほとんどだろう。つい言い返してしまった後で弾もはっとしたが、だからといって素直に謝れるわけもない。

 悔しそうな表情をしながらトランペットを構える弾を、連はじっと眺めていた。連の視線をなるべく気にしないようにして、弾は大きくブレスして再び息を吹き込む。今回も音は出ず、再びただ息が漏れる間抜けな音が聞こえただけ。それが悔しくて弾の表情がだんだん険しくなっていく。

 ふと隣の連を見るとなぜか腹式呼吸の練習をしていて、それを見た弾は一度マウスピースを唇から離した。一度深呼吸をしよう、落ち着こう。そう、連を見て思ったから。

 大きく息を吸って、吐いて。吸って、吐いて。焦る気持ちを落ち着かせて、もう一度トランペットを構える。大きくブレスして息を管に吹き込むと、かすかにだが今度は音が出た。弱々しいけれど、それは確かにトランペットのBの音だった。

「出た! 出たよれんれん!」
「やったじゃん! すげーよ弾きゅん!」

 音が出たことに興奮して思わず連のほうを振り返ると、連の耳にもしっかり届いていたようで、歯を見せてにかっと笑った。やったとばんざいをして喜ぶ連は自分よりも喜んでいて、そんな連を見た弾の顔にも、少し前とは打って変わって満面の笑みが浮かんでいた。
 声を出して笑ったのも久しぶりのような気がする。小さな子どものように無邪気にはしゃいでしまったことなど、今の弾にはどうでもよかった。

「よっしゃ! オレももうちょい頑張ってみっか!」

 気合いを入れ直した連を横目で見ながら、弾はもう一度楽器を構える。はやる鼓動を感じながら息を吹き込むと、またBの音が出た。今度は音の輪郭がはっきりしていて、音量も心なしか大きくなった気がする。音が出たことが嬉しくて、意識すれば少しずつ音が変化して、だんだん自分の思い描いた音に近い音に近づいていくのが楽しくて、うろ覚えの運指でスケールを奏でてみる。

 どきどきして、わくわくして、こんな感覚は前にも経験したことがあって、それはいつかと記憶を手繰り寄せてみたら、あれは確か小学生の時。

 見学に行って、初めて楽器を間近で見た時。初めて楽器に触らせてもらった時。初めて音が出た時。運指を教えてもらって音階を鳴らせた時。簡単な曲を吹けた時。
 あの頃は何もかもが新鮮で、いちいち感動して興奮していたっけ。連が吹奏楽を始めて、トランペットを自在に演奏する連がかっこよくて、自分もあんな風になりたいと純粋な夢を抱いて、ようやく楽器に触れることができて、とにかく嬉しくて、そして楽しくて。今弾が感じているこの感覚は、あの時抱いたものにとてもよく似ていた。

 いきなり上の音を狙うとアンブシュアが崩れるからと、これから金管に移行するわけでもないのにそんな理由で弾が下の音を必死に狙っていると、不意にサックスの音が聞こえて弾は肩を跳ねさせた。トランペットの音が出たことが嬉しくて、連の存在などすっかり忘れていた。

「出た! オレも出たよ! すごくね!?」
「……おめでとう」

 体全体を使って喜びを表現する連も、あの時の自分に似ているなと、顔が緩むのを感じながら弾は思った。普段なら兄ながら子どもだなと内心呆れたりもするけれど、音が出たら嬉しい気持ちは、たったさっき思い出したから。

「なあなあ弾きゅん、運指教えて運指! チューリップくらいは吹けるだろ! もしくはちょうちょ!」
「ソプラノリコーダーと一緒だよ」
「リコーダーとか忘れた! しょうがっこーとか何年前だよ! 超昔じゃん!」

 そんなに前のことでもないでしょ、と言いかけて、連からすれば小学校を卒業するまでと同じ約六年もの期間が経っていることに気付いて口をつぐむ。中学校、高校は小学校と比べると卒業までの期間は約半分で短く感じるが、それだって積もり積もれば短いともいえない時間になる。

「じゃあ、トランペットの運指教えてくれたらいいよ。ぼくも簡単な曲吹きたいから」
「おう! いいよ! ……あーでもいざ教えるってなるとわからん!」
「えぇ……まあれんれんらしいけど」

 その後も簡単な曲をユニゾンで合わせて、気が付けばお昼をとっくに過ぎていて、ついでに吹こうと思って持ってきたソプラノサックスの存在を弾が思い出したのは、お腹が空いてこれ以上は無理だと二人同時に倒れ込んだ時だった。
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