中学二年生、初夏の思い出


いつかこの日が来ると予想はしていた。明日か、明後日か、遅くとも、コンクール本番を迎える、二週間以内には。

朝から使用されていないらしい教室には熱気がたちこめていた。湿気を含んだ空気がまとわりつき、窓越しの太陽の光が制服のシャツから無防備にさらされている腕をじりじりと焦がす。

数メートル離れた先にいる先輩を見ながら、はやく終わらせてくれないかなと呑気に考える。
スカートをぎゅっと両手で掴んで、俯いて唇を固く結ぶ彼女は、自分から呼び出しておきながら、ここに来てから一言も発していなかった。

「話ってなんですか?」

耐え切れずにこちらから切り出す。これから言われるであろうことはとっくに予想はついていたけれど、もしかしたら違う話かもしれない。
おもむろに俯けていた顔を上げて、光のない目をこちらに向ける。薄い唇が開いたと同時に、白い喉がわずかに動いた。

「……て……よ」
「すみません、もう一度言っていただけますか?」
「――ソロ、アタシに譲ってよ」

あくまで冷静な弾にいらついたのか、早口で告げる。言い切ると同時に目尻に涙が浮かぶのが見えた。

「……いやです」

きょとんとした表情を浮かべて、そして眉をややハの字に下げて。ほんの少し、意味深な間を空けた後。にっこり。笑顔をはりつけて。

見開かれた目から涙からこぼれ落ちた。

「なんで、アンタなんかが」
「それはぼくが上手いからでしょう? 実力の差です」

そんなの、言われなくても分かっている。一週間ほど前に行われた、オーディションの時に。――いや、それよりも前、弾が入部してきた時から、薄々感じていた。こうしていつか負かされる日が来るのだと。

実力の差を感じていたからといて、手を抜いたわけではない。そんなこと、するわけがない。誰よりも早く学校に来て、誰よりも遅く学校に残って、飽きるほど同じフレーズを何度も何度も繰り返し練習した。

再び俯いてスカートをぎゅっと掴んで俯く。またか、と長期戦を覚悟してふぅと小さく息を吐いたと同時に大股でこちらに歩み寄ってきた。

乾いた音が反響する。時差をつけてやってくる、左頬の痛み。突然のことで衝撃に堪え切れずに床に倒れ込んだ弾の上に、影が覆いかぶさる。

「お願い、おねがいだから、ソロ、アタシに、よこしてよ」
「……いやです。ゆずりません」
「おねがい……なんでも、するから」
「じゃあ潔く引いてください。見苦しいですよ」

軽く肩を押す。びくともしない。乱れたスカーフがセーラーからのぞいていた。

「だって……だって……」

彼女の涙が、弾の白いシャツに点々と染みを作る。

「やっと……コンクールに、出られたのに、アタシは、今年で、最後なのに……去年、アンタのせいで出られなくて、今年やっと出られると思ったら、今度は、アンタにソロとられて」

悔しい。やっとのことで吐き出された一言は、セミの鳴き声にかき消された。

「おねがい、アタシは今年で最後なの、アンタは、アンタは来年もあるでしょ? だから」
「いやです」

本日二度目の答えと、頬の痛み。
これ以上殴られたら、先生に勘繰られるじゃないですか。口を開こうとした瞬間、右目を覆っている前髪を掴まれる。これには一瞬顔を歪めたが、隙を見せるまいと人当たりのいい笑みを浮かべたいつもの顔をすぐにはりつけた。

「最後にコンクールに出られただけよかったじゃないですか。コンクールに出た、っていう、思い出は残りますよね?」
「……うるさい」
「ソロが吹きたいなら実力で勝負してください。先輩がのぞむなら、何度でもオーディションをやってあげますよ。あ、今から先生に頼みに行きますか?」
「うるさい!」

前髪を掴んだ手に力が込められる。

左手は弾の前髪を掴んだまま。彼女の白くて細長い、女性らしい指が弾の細い首に伸びる。

「なんで……なんでアンタなのよ……いつもアンタばっかり、ずるい」
「……ぼくだって、なにもしなくてソロに選ばれたわけじゃない。先輩と同じように、部活以外でも必死に練習した。オーディションだって、対等に受けた。勝つ人がいれば、負ける人がいるのは、当たり前のことです。もしコンクールで代表枠に入れなかったら、貴女はそうやって選ばれた学校にかみつくんですか?」

ぴくり。身じろいで、馬乗りになっている彼女の動きが止まる。
首を絞めていた両手がおもむろに離れていって、生ぬるい空気を吸い込む。ちかちかしていた視界が、クリアになっていく。

改めて自分にまたがっている彼女を見ようと視線を下げた瞬間、肋骨がぎしりと軋んだ。折れたのではないかととっさに思うほどの衝撃に、今度ばかりは平静を保てずに嫌な音がした部分を両手で押さえ、その場にうずくまる。

「もう、いい」

自分の荒い呼吸と、遠くに聞こえるセミのうるさい大合唱にまじって、上靴が廊下を擦る音がだんだんとフェードアウトしていくのがぼんやりと耳に入って、彼女が教室を後にしたことを理解する。

しばらくしてようやく痛みがひいてきて、うっすらと目を開ける。滲んだ視界に、夏のコントラストのはっきりとした青空が映った。

(夏は、やっぱり嫌いだ)
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