▼ 響介と楠瀬と理澄
「楠瀬先輩、起きてください。パート練習しないとまずいですよ。……楠瀬先輩!」
先輩相手に乱暴なことはしたくないけど、こうでもしないと楠瀬先輩は起きない。やられたら脳ががっくんがっくんいって気持ち悪くなるくらいに揺さぶって、名前を五回くらい呼んだところで、先輩はやっと目を開けた。
「あ、楠瀬くん起きた? じゃあ昨日言われたところ、パート練しよっか」
「……はい」
楠瀬先輩はおもむろに起き上がると、のっそりと自分の楽器を取りに行き、倉鹿野先輩が準備した椅子に腰を下ろす。そして大きなあくびをひとつ。個人練習が始まってからずっと寝てたのにまだ眠いなんて、生まれてすぐの赤ちゃんでもそんなに寝ないはずなのにどうなってるんだろう。
「いつもごめんね、小虎くん」
「いえ、いいですよ」
楠瀬先輩が管に溜まった水を捨ててる間に、倉鹿野先輩が耳打ちしてきた。
倉鹿野先輩は気持ちよさそうに眠ってる楠瀬先輩を起こすのは気が引けるーって言うから、楠瀬先輩を起こすのはいつもおれの役目だ。先輩だし、おれのほうが気が引けるけど、起こさなきゃパート練習できないし、しなかったらまた今日も合奏で捕まるからおれがやるしかない。
「準備できた?」
「おれは大丈夫です」
「……できました」
「じゃあ最初からそこまでやってみよう。……いち、に、さん、はい」
きっちりチューニングしてないからきれいな和音ではないけど、少なくとも楠瀬先輩は音を外してはいなかった。寝起きですぐに楽器がまともに吹けるのはすごいと思う。ホルンは他の楽器と比べて倍音が多くて、ほんのちょっとの息の入れ方の差で違う音が出ちゃうんだけど、楠瀬先輩は寝起きでも音を外すことはほとんどない。中学生の時、ある映画に憧れて起きてすぐにホルンを吹いてみたことがあるんだけど、案の定一発目から音を外した。やっぱりウォーミングアップしないとおれには無理だった。今でもできる気がしない。
「うん。今のよかったと思うけど、どうかな?」
「おれもよかったと思います」
「……ボクも」
三回くらいやった後の倉鹿野先輩の質問の楠瀬先輩の答えは、本心から言ってるのか、それとも早く寝たいから適当に合わせたのかは分からない。でも、倉鹿野先輩もああ言ってるし、おれも今のはよかったと思う。二回目の時点でほぼほぼ合ってたから、今日の合奏で源内先生に長時間つかまることはないだろう。合奏でも同じことができたら、の話だけど。
「他に気になるところある? ――って聞きたいところだけどそろそろセクション練習だね。ちょっと俺トイレに行ってくるから、休憩するなり個人練習するなりしてて」
「はい」
「……はい」
返事はしたものの、どうせ気が付いたら寝てるんだろうな、楠瀬先輩。いつものことだし、個人練習したいところがあったから、楠瀬先輩のことは気にせず練習を再開する。
――そして数分後、気が付けば楠瀬先輩はまた教室の隅でブランケットにくるまってすやすやと眠っていた。……楠瀬先輩って、一日何時間寝てるんだろう。