▼ 弾と芹沢
「あれ? サックスは?」
「え、えっと……茅ヶ崎くんと芹沢くんなら、トイレに行きました」
舞台袖で人数をチェックしていた千鳥に、おずおず答えたのは朔楽。
「トイレ? 二人でか?」
「芹沢くんが緊張で気持ち悪くなったらしくて……茅ヶ崎くんはその付き添いです」
「緊張で? ……馬鹿にするつもりはないが、たかが学習発表会でそこまで……」
「芹沢くん、今回ソロありますから……。初めてらしいので……」
「……そうか……いやそれにしたってだが……」
茅ヶ崎もたかがこんなお祭りでそこまで緊張するなんて、と顔を真っ青にした芹沢の付き添いをしながら馬鹿にしていたが、中学まではクラリネット、高校ではサックスという花形楽器を担当していながら、今まで一度もソロなんてものをやったことがなく、なおかつ本番に弱い芹沢にとっては、たった三小節でもそれがソロであればしにそうなくらいなのだ。弾から言わせてもらえば、前に出てピンポイントスポットを浴びないソロはソロではないらしいが、それでも楽譜にソロと書いてあれば、それが座奏だろうと一小節だけだろうと譲らないのが茅ヶ崎弾という人間だ。
にも関わらず、今回は芹沢がソロを担当することになったのは、アルトサックスとテナーサックスにそれぞれソロがあったからだ。芹沢の気が乗らないのなら自分が持ち替えでやると弾が言い出し、芹沢もそれでいいと言ったのだが、実際やってみると厳しかったので、アルトサックスのソロが弾、テナーサックスのソロが芹沢になった。
「ねえまだなの? そろそろ行かないとまずいんだけど」
数秒おきに腕時計をちらちら覗き込みながらそう尋ねる弾はあからさまにイライラしていたが、芹沢の丸まった背中をなでる手は止めなかった。
「……ごめん、もう少しだけ待って。もう大丈夫だけど、もう一回きそうだから」
それって大丈夫じゃないじゃん、という突っ込みは、ボリュームのあるクセっ毛の間から覗く横顔があまりにも真っ青だったので心の中に留めておく。
本人の宣言通り、もう一度嘔吐き出した芹沢の背中から手を離して立ち上がると、弾はあらかじめ用意していた紙コップに水を入れる。極度の緊張で食事がのどを通らないらしく、朝も昼も水以外はほとんど何も口にしていないので先ほどからもどしているのは胃液ばかりだった。
「ねえ、弾くん」
ぽつり、まだ少し嘔吐きが残る中で、芹沢は掠れた声で弱々しく弾の名前を呼んだ。
「何?」
「……おれ、ちゃんとできるかな」
もともと細くて頼りない背中が、今日はいつもよりも小さく見えて、頼りなくて、触れたらその瞬間にぽきりと折れてしまいそうで、壊れてしまいそうで。
「できるよ」
「……ほんと?」
「できるに決まってるでしょ。っていうか、ぼくが教えてあげたんだから、できなきゃおかしいでしょ」
「……そうだね」
プレッシャーをかけたいわけではなく、それがすごく遠回りな励ましだということは、芹沢だから分かったこと。弾は素直じゃないから、不器用だから、有亜くんならできるよ、だって今まで頑張ってきたじゃない、なんて言えるはずもない。
「付き合わせてごめんね。もう大丈夫だから、早く行こう」
ようやく立ち上がった芹沢はふらふらとおぼつかなく、相変わらず顔色も悪いが、表情はどこかすっきりしていた。