何も無い闇の中。
ここはどこでしょうと周りを見ても、何も無い。
暗く沈んだ世界。
何も聞こえない。
何も無いから何もしようがない。
戸惑っていると、不意に横にぽうっと暗い光が浮かんだ。
その光は下から上まで滑らかに進むと、足、腰、腹部、胸元、首、顔、頭部と人の形を描いていき、頭頂部まで進むと風船のように弾けて消えた。
光が消えた後には人影がいた。
辺りの闇のせいで薄くぼんやりとした輪郭しか見えない。
しかし、誰かがいるという存在を認めた途端、不意に霧が晴れたように人影の姿が露わになった。
人影は少年だった。
今、自分が通っている学校の冬服を着ていて、蹲っており、息切れを起こしているのか、肩が激しく上下に動いている。
髪は自分と同じ金色で、髪型も肩に届くほど。これも自分と似ていて、持ち上がった頭部の前髪から覗く瞳の色や形もほとんどそっくりで――。
「……!」
絶句した。
そこにいるのは、自分と全く同じ姿をした少年だった。
鏡のように、ではない。左右が逆になっていない。自分をそのままコピーしたような全く同じ容貌だった。
自分とは違うのは、血塗れの制服を着ている事、楽器ではなく弓を持っている事、息切れをしている事だ。
大丈夫ですかと声をかけようとすると、力尽きたように蹲っていた少年がゆっくりと立ち上がった。
膝に力を入れ、二本の足で身体を支え、腕を掌を浮かせて、ゆっくり、ゆっくりと立ち上がる。
垂れる前髪の隙間から覗く眼は強い光を放っていた。
額のどこかが切れているのか、頭から血が一筋垂れ、頬を赤く汚しながら伝い落ちる。
着ている服は血を吸っていてぐっしょりと重そうで真っ赤だ。
露出している顔にも額にも手にも幾筋もの傷ができている。
漫画や小説で良く見るような風貌だ。
しかし、彼は漫画や小説よりもなお現実味があった。
意志というより本能の光を宿す暗い眼差しの瞳、呼吸しても息切れが治らない様子、本物の殺傷能力を秘めてぎらりと輝く弓と矢、血を吸ってどこからが赤でどこからが朱なのか分からない制服を平然と当然のように着ている姿。
まるで本物の戦場にいて、そこで息をして生きているかのような。
思わず手を伸ばした。が、彼に届く寸前、手が彼の身ではなく、何か硬い壁のような物に当たった。
目の前には何も見えない。しかし届かない。硬く滑らかな何かで隔てられている。
透明な壁のような物があるかのように。
「――――?」
戸惑っていると、向こう側の彼と目が合った。
彼も驚愕したように目を見開く。そして手を伸ばす。しかしやはり隔てられてしまう。
彼はそれには驚かなかった。
口元にふっと笑みを浮かべると、目を細めた。
切なそうに。
あるいは、悔しそうに。
その笑みの理由を知りたくて、思わず口が開いた。手は触れられなくても声は届くかもしれない。
だが、息を吸って声を出そうとした途端、彼の背後に光が差した。
その光は教室の壁一面に近い面積があり、そこにはどこか遠い国のような景色が映っていた。
厳めしい現代風の防護服のような物を着た兵士らしき男達が銃を持って弾丸を撃ち、銃身自体を振り上げて殴打し、彼と同じ制服を着た少年少女がそれに立ち向かっていく。
頭上の空にはとてつもなく巨大な翼を持つ生物や六本の足の馬に乗って空を駆るおどろおどろしい騎士のような姿もあり、更に少年少女を援護するようにフードをすっぽりと被った大人達の部隊が続いていく。
彼は背後の景色を見た。そしてこちらに向き直った。
あ、と声を出すこちらを無視するようにくるりと背を向ける。
血塗れの姿のまま、弓を構え、矢をつがえて、駆けていく。
光の方へ向かっていく。
まるで自分の世界はそこだと言うように。
あの一瞬の眼差しを振り切るように。
一度も振り返らないまま、去って行った。
見送る事しかできず呆然としていると、不意に視界の端に強い光が差した。
振り返ろうとした瞬間、背後から迫っていた光が急に体積を広げて飲み込み、視界を身体を包んでいく。
思わず閉じた瞼の裏で光が強く瞬く。
やがてその光が見えなくなり、うっすらと目を開けると、目の前には訝しんだ顔のクラスメートがいた。
優等生で、品性方向に振る舞う自分が授業中に昼寝をしたため、病気か何かかと心配してくれたらしい。
優しいクラスメート達に、こちらも笑いながら答える。
頭の中に、先程に出会った少年の事は微塵も残っていない。