守らなければ、守りたいのに、ああ何故に貴女は笑ってばかりなのです、大丈夫ってそんなはずないでしょう、心配させて下さい。

 ああしかし私に他人を心配できるほどの力は無いのです、技量も、腕力も、頭脳も優しさも器も人格も何もかも、足りていない。

 中途半端だ。

 冷静さはエースに劣り。

 優しさはデュースに劣り。

 直情さはケイトに劣り。

 素直さはシンクに劣り。

 覚悟はサイスに劣り。

 気遣いはセブンに劣り。

 速さはエイトに劣り。

 力はナインに劣り。

 考え方はジャックに劣り。

 頭脳はクイーンに劣り。

 器はキングに劣り。

 駄目ですねもう。全然駄目です。誇れるものが何も無い。

 知識も冷静さも何もかも半端すぎる。

 情けない始末です、本当に。

  



 私に、存在する価値はあるのか否か。

 

 

「……最近、調子が悪そうね。大丈夫?」

 母と慕うアレシアに尋ねられ、トレイはハッと意識を取り戻した。

「何か悩み?」

「……いえ、特に」

 慕う母だからこそ言いたくない。

 ケイト辺りがいたら怒られそうな少し素っ気ない物言いだが、今のトレイにはそれに気づく余裕が無かった。

 アレシアは何も言わず、いつもの検査を終えると特に何も告げる事無くトレイを帰した。





 私は一体どう在るべきなのか。





 アレシアの検査を受けてからまっすぐに寮の自室に戻り、ベッドに潜って掛布団の中で丸まったが、どうにもこうにも眠れない。

 まるで戦闘中のように頭の中が冴え渡り、神経が高ぶるばかりで一向に眠気が訪れない。

 寝るのを諦め、トレイは上半身を起こした。

 今までも眠れなかった事はある。そういう時はただ横たわっているのがベストだ。動かさないだけでも身体は休んでいるのだから。

 だが、今夜の不眠は今まで以上に質が悪い。一時間を過ぎても一度も眠気が訪れず、脳裏の映像に血が飛び散り銃声と金属音が響いている。

 まさか、戦闘で心に傷を負った?

 馬鹿馬鹿しい。

 自分は0組。魔導院の中でも最たる人殺しだ。

 人殺しに憂う資格は無い。

「……少し……歩きましょうか」

 上着を羽織り、靴を履いて、トレイは部屋を出た。

 男子寮の、0組の男子の部屋が集まった廊下は、最低限の照明を残して静まり返っていた。

 ナインは騒がしいが夜は早くに寝るし、ジャックも実はこっそりと夜も一人で外に出て鍛錬している事が多い。

 エースやエイトは早寝の主義だし、キングは無駄な物音を立てたりしない。

 だから――人気を感じない。全く。

 きん、と耳が鳴る。過ぎた沈黙で逆に耳が痛み、奇妙な音が聞こえるようになる。

 心地良い。

 誰も自分を気にかけない。

 世界で一人きりになったような気分だ。

 そのまま廊下を歩くと、玄関の所に管理人のモーグリがいた。

 戦闘の余波で眠れないと告げると、寮の周りを歩くだけ、一時間以内に戻るという条件で出してくれた。

 割とあっさりしていた。恐らくこの御時世なので似たような感じで夜半の外出を求める候補生が多く出たのだろう。暗黙の了解で見逃しているのか、あるいはあのモーグリの気遣いによる独断か。

 何にしろ助かった。そう思いながら、言われた通り、寮の周りをゆっくりと歩く。

 人気は無い。

 獣の気配も無い。小鳥や虫の声も聞こえない。

 何も無い。

 空を見上げると、濃い群青と黒に染まり切っていた。端の方がわずかに薄い水色を帯びているようにも見える。

 太陽が昇り、あれの色が広まれば、朝という時間帯になるのだろう。

 授業と訓練と戦争が続く、この世界の日常というやつが始まる。

「……トレイ?」

 ふと、世界の沈黙を破って、ここにいるはずのない彼女の声が聞こえてきた。

 まさかと思いながら振り返ると、幻聴や空耳ではなく、本当に本物の彼女がいた。

「シンク。……どうしてこんな時間にここに?」

「……トレイが元気無いの、気になって。寮のモーグリに、眠れないから外で散歩したいって言ったら、一時間だけだよって出してくれた」

 ねえ、とシンクが問いかけてきた。

「トレイ、物凄く悩んでるよね。史上最大級の勢いで。……だから元気が無いんだよね」

 ナイフを持ってさっくりと、こちらの心の表面を刺してくる。

 痛い。

 あの戦闘で銃弾を受けた時よりも辛い痛みが心を抉る。

 心配――されていた。

 心配させてしまっていた。

 つまり。

 心配させるような態度を取っていたという事だ。

 他人を心配させるほどの態度だったという事だ。

 ああ何て事だ。

 何と自己主張に忙しいのだ。

「……戦闘で疲れただけです。すぐに戻ります」

「嘘」

 シンクがぽつりと言われた。

 トレイはシンクの顔を見た。

 いつものように屈託の無く、緩い、天真爛漫で、しかし今は全くふざけていない。

 真剣で真面目で真摯な眼差しを向けてくる。

「みんなはトレイをそっとしておこうって言ってるけど、シンクちゃんはそうしないよ。だってトレイが好きだから。トレイが好きなシンクちゃんはシンクちゃんだけだから、シンクちゃんだけで決めた行動を取る」

 そう言って、いつもの調子で歩み寄られて。

 腕を伸ばされ、背中に回され。抱き着かれた。

「あったかい?」

 実を言うと体温はそんなに感じ取れない。寝間着と上着を着ているから、染みてこないのだ。

 だが、自分の心で、自分の想いでこちらに触れようとしたシンクの気持ちは伝わった。

「トレイが好き。だから悩んで元気が無いの耐えられなかった。……御免ね」

「いえ……」

 呟く自分の声が震えている事にトレイは気づいた。

 目頭が熱くなって、ポロポロと何かが零れる。頬を熱い物が伝い落ち、あとには濡れて渇いたような感触だけが残った。

 涙、という正解の単語を忘れたまま、0組の少年は呟く。

「すみません……御心配をおかけして」

「心配させていいんだよ? だってトレイが隠そうとしても隠しきれなかったって事は、ね、トレイがそれだけ思い詰めて悩んでるって事なんだよ。だからそんなに自分を責めないで。謝らないで」

 ポンポンと背中を叩かれる。懐かしい感触。

 昔の事だ。幼い頃。

 ほんの些細な事を考え、無口になっていた時、ぐじぐじ悩むなとナインに怒鳴りつけられ、その剣幕と怒鳴られたという事実に泣き出してしまった時、あの頃はまだ輪の外でみんなを眺めていたシンクが真っ先に駆けつけてきてくれた。

 言葉より伝わりやすいものがあると、あの頃からもう既に知っていたのかもしれない。彼女は隣に座ると、背中をそっとさすって、何も言わず、ただずっと傍にいてくれた。

 あの頃と変わらない。根元はまるで変わっていない。天真爛漫で無邪気で優しいシンク。

 なら、昔のままのあの自分でもいいのだろうか。内側に籠もりやすくて考えるのが大好きで、あまり強いとは言えない素の自分。

「トレイはトレイのままでいて? そのままでいいんだから。たまには比べるのもいいけどさ……少しは自分の事も好きになってよ」

 シンクがぎゅうっと抱き締めてくる。最重量級のメイスを振り回しているためか、力強い抱擁だった。

 抱き締められたのなら抱き締め返してもいいだろうかと、恐る恐る腕を回す。シンクの身体は細くて、いとも簡単にすっぽりと腕の中に入った。

 抱き締め合うと、互いの顔が見えない。

 なら、素の表情のままで喋っても大丈夫だろうか。

「何もかも、どれを挙げてみても、中途半端で。……面白いくらいに、半端で。そんな自分はどうなのだろうかと、思っていたんです」

「トレイはトレイだよ?」

 シンクならそう言ってくれると思った。

 「しかし、私は突き詰めてみると、どれも中途半端で、何か一つ、これというものを抱いて、貫いているものが無い、と……思うのです」

「シンクちゃん、トレイの事を中途半端って思った事ないよ?」

「私自身が納得できないのです」

 吐き捨ててから、ふとある事に気づいた。

「……これも『私』なのですね」

 吐露して、喋っている内に、だんだん心の荒みが収まってきた。

 他人と比較しても自分は自分でしか在れない。

 一度は納得したはずの答えを、納得できず、また思い返してしまった。

「悩むのも納得できないのも私しかいない私という個性の一つなんですよね。――有り難う御座いますシンク、落ち着きました」

 抱擁を解くと、シンクはにっこりと微笑んだ。

「うん。良かったぁ、トレイが元気出て」

「はい。有り難う御座います」

 心からそう思って湧き上がる想いのまま笑みを見せると、シンクが顔を真っ赤にして俯き、今度は逆にトレイが「熱ですか!?」と心配する事になった。





 私は私のまま。私でいいのですね。





 翌日。

「お早う御座います皆さん」

「おう。お早うさん」

 朗らかな笑みで教室に来たトレイに、サイスは内心でほっとした。

 昨日とは明らかに表情が違う。どうやら悶々思考期間は過ぎたらしい。また何ヶ月かしたら耽るのだろうが、それはそれで別にいい。

 落ち込まない人間などいないのだから。落ち込みたい時は落ち込めばいいのだ。トレイはこの辺りをどうも理解しない。まあそれも個性だからいい。

 軽やかな足取りでトレイが席に着き、教科書とノートを取り出して目を通し始める。いつもの予習だろう。

 目線できちんと文章を追っている。密かに様子を眺めていたセブンは安堵した。

「良かった、元気が出たみたいで――」

 と呟いた時、かつかつかつと勇ましく厳しい歩調が聞こえてきた。

「ほえ? クイーン……じゃないよね?」

 クイーンは換気のために窓を開けている。教室の扉の方を見たジャックは、思わずぽかんとした。

「え!? 今の足音ってシンク!?」

 後ろには苦笑気味のレムとマキナがいる。

 つかつかつかと凄まじく速い歩調でトレイの元に向かうシンクを見つつ、ケイトはレムに尋ねた。
 「ね、ねえ、何があったの?」

「うーんと……トレイ、ほら、悩みが解決したみたいでしょ? 表情もパッてしているし、顔色もいいし」

「うん、まあ、それは見れば分かるけど。それで何でシンクが……怒ってるの?」

「ここに来る途中で、トレイが女の子に声をかけられたんだ。ほら、元がいいし、今日は凄く調子が良さそうだろ? だから女の子が友達数人と一緒に思い切った感じでお早うって声をかけてきたんだ。そしたら、トレイが笑顔で、凄く人当たりの良い感じで、お早う御座いますって返してさ。女の子達が黄色い声で歓声を上げて」

「シンク、エントランスでトレイが来るのを待ってたみたい。でもトレイの周りには女の子が何人もいて、囲んでいて、みんなもうメロメロで」

「それを見て御立腹したと、そういうわけなんだ。まあ流石に女の子達は0組の教室に着く直前で散らばっていったけどさ」

 ケイトは絶句した。

 今、シンクに襟首を掴まれてぶんぶんと上下左右に揺す振られまくっているトレイを横目でちらりと見てから、小首を傾げて、

「トレイってそんなにイケメン?」

「顔はもちろん格好良いよ。でもそれだけじゃなくて、何て言うのかな、オーラがキラキラしていて、笑顔が格好良くて、穏やかで、あったかくて。……そう、王子様って感じだった」

「多分、テンションが上がっているか、精神状態が凄くいいんじゃないのかな。それがモロに出ているんだと思う。男の俺でも納得するくらい、今朝のトレイは格好良かったよ。……今はああだけど」

 マキナはひくりと口元を引き攣らせた。

 あー、とケイトも生温かい眼差しで件のトレイとケイトを見る。

「やっぱり、駄目! トレイはちょっとくらい落ち込んでいるのがちょうどいいの! シンクちゃん以外の女の子に愛想を振り撒いてちゃ駄目! フェロモン出しちゃ駄目!」

「い、いえあの、フェロモンとは何の事かさっぱり、というか今日は悩みが解決してせっかくの日だというのにシンクは歓迎してくれないのですか!?」

「トレイの悩みが解決したのはいいよ? でも駄目。他の女の子に笑っちゃ駄目! そうでなきゃメイス振り回すから! 脳天にズドンって!」

「分かりました、笑いませんから、おち、落ち着いて、の、脳が揺す振られて吐気が」

「お待ちなさいシンク、その辺にしなさい! ――トレイの顔色が本当に悪くなっています!」

 クイーンが慌ててトレイとシンクの間に入る。

 シンクはまだ物足りなさそうに文句を言い、トレイは揺す振られた頭を両手で抑え、エースとデュースが大丈夫かと声をかける。

 見かねたエイトが冷たいドリンクを差し出し、ジャックは楽しそうに笑っていて、セブンとキングは一歩離れてそれを眺める。

 いつもの0組だ。

「授業を始める、――何だこの騒ぎは」

「あ、クラサメ隊長。あの、トレイが具合が悪そうなので」

「すみません、外の空気を吸ってきます」

 裏庭へ続く扉をくぐって、トレイはよろよろと出て行った。

 従卒のアリアとモーグリが顔を見合わせ、心配そうな顔で見送る。

 ふむ、とクラサメは呟いた。

「少ししたら戻るだろう。――トレイの分はあとで渡すとして、テストを返却する」

 教室中がざわつく。

 クイーンは期待に満ちた表情、ジャックとナインは諦めているのか突っ伏していて、名前が最初に呼ばれるエースが席を立って教卓の前に並ぶ。

 名前を呼び、順々にテストを返却していく最中、トレイが戻ってきた。

「大丈夫か」

「はい、すみません。もう大丈夫です」

「では、君の試験結果だ」

 返却された用紙を見て、トレイ――ではなく、後ろから覗き込んできたナインが声を上げた。

「うっわマジかよ! トレイ100点だってよ!」

「え!?」

「ほ、本当ですかナイン!?」

 エースとクイーンがナインの手からトレイの試験用紙を引っ手繰る。本人の意思はお構いなしだ。

 ちょっと、あの、と、自分を置いて騒がしくなっていく周りに唖然とするトレイに、セブンは声をかけた。

「凄いじゃないか。クイーンは98点だ。とうとう抜いたな」

「……実は……このテストを受けた記憶が……無いのですが」

「え?」

「は!?」

 今度はジャックが声を荒げた。ガタッと椅子を蹴るように立ち上がり、

「って事は睡眠学習? 寝ている間に手が勝手に答えを書いてくれたとか!?」

「んなわけねえだろ。単にあれだ、うだうだ悩んでいる時の方が集中力が上がるとか、そーいう事なんじゃねえの?」

 サイスがびしっと揺るぎない突っ込みを与える。

「マジかよ。悩んでいる時の方がスゲェって、どういう事だコラァ。あれだ、俺も悩んだら点数伸びるようになんのか!?」

「無理だろう」

 キングがぼそりと言った。

 んだとコラァ!? と騒ぐナインはよそに、シンクはトレイの元に歩み寄り、いつもの笑顔で言った。

「やっぱり、いつものトレイが一番。ね?」

 トレイは手元の試験結果を見た。100点。クイーンを上回った答え。

 しかし、騒ぐ周りと、そこに何の疑問も抱かず在る自分を思って、トレイは心からの笑みを浮かべた。

「はい」

「……えへへ。その笑顔、シンクちゃんの前だけなら許可するよ?」

「? そう、ですか。はい。分かりました」

「オメェ納得すんのか!? 笑顔が許可制っていいのかァ!?」

「あれに口を出すのは野暮だ。ナイン」

 やれやれとキングが首を振る。もう少しナインはその辺の空気が読めないものか。

「席に着け。授業を行う」

 クラサメの一声に、候補生達はぞろぞろと戻る。

 トレイはいつものように席に着いた。

 ふとシンクの方を見ると、彼女もこちらを見て微笑んでいた。

「有り難う御座います」

 唇だけで告げると、シンクは照れたように「えへへ」と、トレイの大好きな笑顔をくれた。

 その様子を見た周りが「ああバカップル」と奇しくも同時に思っていた事を明かされるのは、交際してから一週間後の事だった。


 

 

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