タタン、タタン、と揺れる列車の中。
暇潰しに持参してきた日刊予言者新聞を読んでいると、視界の隅に窓の外の景色がちらりと映った。
長く、どこまでも続くレール。
ちらちらと見える林、森、どこかの町並。
大きなカーブに差し掛かっているのか、先頭部分が見える。
列車は白い煙を噴き出しがら、ひたすら目的地へと進んでいく。
次の停車駅が都会にあるためか、林が森の数が少なくなり、ちらほらと民家や道路や大きな建物が見え始める。
少し離れたところにある道路で、薄水色の車が走っている。大家族を載せているようで、運転している父親は楽しそうに喋り、母親は地図を見ていて、後部座席には三、四人くらいの子供達が載っている。
どこかで見た車種と思えばフォード・アングリアで、小さく苦笑した。
景色から目線を外して、日刊予言者新聞を再び読もうとする。
と、四人掛けボックス席のドアがコンコンとノックされた。
あれ? と戸惑う。ここは予約席で、まだ次の駅には着いていないはず。まさかとは思うが、今更、自分の席を見つけられましたという人だろうか。
ともかく荷物を持ってるなら手伝おうかとドアの方を見ると、
「席、空いてない? 空いてるの、ここしかなくてさ」
つい先日に見かけた赤毛の青年がいた。
うんいいよ、と言う前に青年はさっとドアを開けて向かい合わせの席に座り込んだ。
赤毛の青年はチェックのシャツにジーンズを着ていた。外出着と普段着の中間といった感じだ。
青年はポケットの中をごそごそさせると、中からサランラップに包まれたサンドイッチを取り出した。
サランラップを開封して、パンを捲って中身を見る。と、眉毛がへにゃりと垂れ下がった。
「またコンビーフだ。僕、コンビーフ嫌いなんだよね」
「僕のと交換する?」
今朝、自分で作って持ってきたサンドイッチがある。中身はオーソドックスに、ベーコン、レタス、トマトだ。
有り難う、と青年はお互いのサンドイッチを交換した。
広げていた日刊予言者新聞を折り畳んで脇に置く。コンビーフのサンドイッチを齧ると、久し振りに食べる味でおいしかった。
やがて二人でサンドイッチを食べ終えた頃、ガラガラと台車を引き摺る音が聞こえてきた。何やら甘い匂いが近づいてくる。
二人のボックス席の所で、台車は止まった。
「車内販売よ。お菓子はいかが?」
小太りのおばさんがにっこりと微笑みかけてくる。愛嬌のいい笑顔だった。
「僕はいいよ」
赤毛の青年は言う。が、
「全部頂戴」
ポケットの中の金貨や銀貨を出して言うと、おばさんはまた微笑んで、台車のお菓子やジュースをほとんど――というより全部置いて行った。
台車のガラガラという音が遠ざかって行く。
ボックス席の中に色とりどりのお菓子が溢れ返った。
赤毛の青年に一緒に食べようと言うと、青年は「うん」と頷き、お菓子の封を開け始めた。
そこかしこにある蛙チョコレートの封を開けてカードを出していくと、見覚えのない魔法使いがいる。
これ誰だろう、と呟くと、赤毛の青年が細かく教えてくれた。教科書に載っている事というよりは、常識として浸透しているそうだ。
ぴょんぴょんと跳ねるチョコレートを捕まえる。が、
「あ」
掴みが甘かったのか、手を擦り抜けて窓に張りつき、よじ登って、わずかに開いたままだった窓の隙間から飛び出してしまった。
「あーあ」
赤毛の青年が茶化すように言う。
気を取り直して百味ビーンズの箱を開ける。色と匂いで味がわかる物もあれば、キャベツとレタスといったように紛らわしい味の物もある。
「うえー」
赤毛の青年が呻いた。
「鼻くそ味だ」
百味ビーンズはほとんど運に近い。
それでもこれに夢中になるのは何でだろう、と思いながら頬張ると、
「……ッ!」
ゲロ味を引き当ててしまった。
ビーンズ自体は小さくても、味はゲロ味。
思わず噎せ返ると、赤毛の青年が慌てて背中をさすってくれた。青年が差し出してくれたかぼちゃジュースを飲むと、いくらか気が楽になった。
口直しに魔女鍋スポンジケーキを食べる。
かぼちゃジュースを飲んでいると、ふとバタービールを思い出した。おばさんの車内販売では売っていなかった。
「ねえ、この後、ホグズミードに行かない?」
「いいね。ハグリッドも誘ってさ」
「そうだね。夕方からならきっと大丈夫」
と、二人で話していると、今度はカツカツという、テンポの速い足音が近づいてきた。
ひょこっと顔を覗かせたのは、豊かな栗色の髪の女性だった。落ち着いた黒い色調のワンピースを着ていて、知的な雰囲気がある。
女性は二人のいるボックス席をぐるりと見回した後、二人に言った。
「ねえ、ネビルのヒキガエルを見なかった?」
青年が視線で訊いてきたので、ふるふると首を横に振る。
そう、と肩を落として女性はボックス席を出ようとした。が、直前で足を止めて振り向き、
「気づいてた? 貴方達二人とも、口元に食べかすが付いてるわよ」
指摘されたので、二人で慌てて拭い取った。
「それにもうすぐ着くわよ。荷物の準備をしたら?」
ボックス席に溢れているお菓子を見ると、女性が小さな笑みで、
「ああ、お菓子なら大丈夫よ。おばさんがあとで送っておいてくれるって。――じゃ、あとでね」
と、とってもチャーミングなウィンクを残して去って行った。
タタタ、と列車がレールを走る音が、タタン、タタン、と、徐々に緩くなっていく。
もうすぐ駅だ。
言われた通りお菓子はボックス席に置いて、自分の手荷物だけ持って列車を降りる。
と、駅には大勢の人がいた。
黒いローブを着込んでいる人、箒を持っている人、大荷物のトランクを抱えている人、様々だ。
どこからか「あれ!? トレバー!?」「えっ、まさかネビル今度は本当に逃がしちゃったの!?」という騒動が聞こえてくる。
列車の乗車口の所で、先に降りていた赤毛の青年と栗色の髪の女性が楽しそうに喋っている。ただの友人という割には二人の間の距離は近く、時たま仲睦まじくじゃれ合っていた。
何だか二人の周りには幸せそうなオーラが漂っているが、慣れているので敢えて話しかける事にした。
「これって何かのイベント? ねえ、――ロン、ハーマイオニー?」
二人の名前を言うと、ロンはくすりと小さく笑い、
「ああ!」
隣のハーマイオニーが、
「ええ。イベントよ。十周年の!」
笑顔を見せた。
その二人の背後で、久し振りに見る得意げな笑みが見えた。ジョージだ。それにかつてのクィディッチのメンバー達。
みんなとロンが、何やらクラッカーのような物を構えていた。
「ちょ、ちょっと待って、まさかそれ――」
「そう! 俺達の店の新商品!」
ジョージが誇らしげに叫んで、みんなが一斉にクラッカーの紐を引いた。
パン、パンパンパン、と、花咲か豆が爆ぜた時に似た音がいくつも柔らかく響き渡る。
続いて金色や銀色の紙テープが飛び出してきて、あ、何だ普通だ、と思った直後、
「普通だ、って思っただろ!?」
クラッカーの中心部分が膨れて、ドォン! という大砲のような音を叩き出した。
弾き出されたように虹色の紙テープが、鳩が、帽子が、紙吹雪が、手紙が、煌めく粉が、今度は視界を埋め尽くすほどの勢いで舞っていく。
花弁というよりは雨のような勢いだ。
地面に落ちた吼えメールが開いて「ハリー! 十周年よ! おめでとう!」というモリーおばさんの声が響き渡る。
誰かのふくろうが――もしかするとホグワーツの森ふくろうかもしれない、いくつかの手紙をみんなの手元に落としていく。
魔法でキラキラと輝く紙テープや紙吹雪が髪や服に落ちていく。
眼鏡の表面についたので、取らなきゃと眼鏡を外した。視界がぼやけて、みんなの笑顔が霞む。
と、ふわりと、数日振りに感じる懐かしい香りがした。
「ハリー!」
駆け寄ってきた誰かがハグをしてくる。ハーマイオニーじゃない。ぼんやりとではあるけど赤色の髪が見える。
ジニーだ。
「ね、覚えてる? 今日の日の事!」
「……忘れてないよ」
ちゃんと覚えている。
「ホグワーツに入学して、ちょうど十年目」
「そう! 十年前の今日、僕と君は会った!」
肩にがっしりと誰かの腕が回される。ロンだ。見なくてもわかる。
「で、ハーマイオニーと友達になったのはもうちょい後!」
「そう! トロールが暴れたのよね! そして貴方達が助けてくれた!」
「私は一年後に入学するのだけれど」
ジニーが拗ねたように言う。と、
「わしと会ったのはもうちょい前だがな、なあハリー」
頭をがしがしと、もがれるような勢いで撫でられる。
「ハグリッド! 来てくれたの?」
遠くからファングの鳴き声が聞こえてくる。
「勿論だ、さあ行くぞ! 今日はデケェ店を借り切ってのパーティーだからな!」
ハグリッドに引き摺られ、ロンに促され、ハーマイオニーに背中を押されて、歩き出す。
ようやく紙吹雪を取り終えて眼鏡をかけると、周りにいる仲間の姿が見えた。
クィディッチについて語り合うウッドとアンジョリーナ、腕に山のように抱えている小さなクラッカーを次々と破裂させているジョージとリー・ジョーダン。
トレバーを探しているネビルに、彼に付き合って駅の隅やベンチの下を見回っているハンナ、ディーン、シェーマス、アーニー。
クラッカーの余韻の紙吹雪や紙テープを楽しそうに眺めているラベンダー、パーバティ。
杖を振ってクラッカーの残骸を片付けているのはチャーリーとパーシーだ。
すっと誰かが擦り寄ってきたので誰だろうと思って横を見ると、その直前にジニーが割って入ってきた。
「さ、行きましょ」
ぐいっと腕を引っ張られる。
苦笑を浮かべているのはチョウ・チャンだった。
その横にいるのはルーナ。
グリフィンドール生だけじゃない、かつての仲間のほとんどが集まっている。
自然と笑顔がこぼれてきて、笑っていると、不意に人波の奥にプラチナブロンドの髪が見えた。
あ、と思う間もなく、目が合った途端、顔を背けて去って行く。
振り返りもしない。
「ハリー! 御馳走を作って待っていますからね!」
モリーおばさんの声を残して、吼えメールが燃え上がる。
教員達からの手紙を届け、それぞれ代理としてみんなに伝える役目を持った生徒が受け取ったのを確かめると、森ふくろう達が誇らしげに翼を広げて去って行く。
クラッカーの残骸が片付いてパーシーが一息ついた瞬間、狙ったようにジョージが残り全てのクラッカーを破裂させた。
怒り叫びながらジョージを追いかけていくパーシーにみんなが笑い、チャーリーと、今度はビルも杖を振った。
やがてパーシーを振り切ったのかジョージが戻ってきて、
「そういえば悪かったなハリー、最初に一緒に荷物を運んでやれなくて。店が思ったより混んでて間に合わなかったんだ」
「いや、ありがとう」
「ネビルは本当にヒキガエルを逃がしちゃったんだ、これで俺が間に合ってたらなぁ――」
「あっ、トレバー!」
そこでちょうど嬉しそうなネビルの声が聞こえてきた。
振り返ると、ネビルが大事そうに嬉しそうにペットのヒキガエルを抱えている。
ふと、足元にふわふわとした毛並を感じた。
「クルックシャンクス、お前も来てくれたのか?」
クルックシャンクスは答えず、ベンチにぴょんと飛び乗ると、またぴょんと飛んで、ハーマイオニーの腕に収まった。
最初の雨のような勢いは無く、ひらひら、ちらちらと、わずかな紙吹雪が舞い降りてくる。
クラッカーの余韻は収まっても、周りにいるみんなの声はまだまだ騒がしい。
風が吹いて前髪が掻き上げられる。今はもう全く痛みを感じる事が無い、稲妻の傷跡。
あの日から、ちょうど十年目。
みんなの声に囲まれて、ハリー・ポッターは笑った。