奏は、いなくなった。
だから、テオドアがベルベットルームに出る理由も、無くなった。
「こんにちは」
奏はいなくなった。
だが、会う事はできる。
こうして、夢の中で。
時々、という頻度ではあるけれども。
「あ、テオ。久し振り」
にこっと明るく笑う彼女は、あの日々と全く変わらず、可愛らしく、愛おしい。
彼女は今、自分の居場所ともなった、名前の無い、名付けようも無い空間にいる。
一人ではない。
彼女の傍には、望月綾時がいたり、もう一人の彼女とも言うべき彼がいたり、あるいは気紛れや機嫌で複数のペルソナがいたりする。
今日は――否、ここには壁が無く、空間という概念が存在しないように、時間という概念も無い。だから今日や過去という表現は使えない。
使えるのは、今という言葉だけだ。
今は、望月綾時の姿も、もう一人と言える彼の姿も無く、どっかりと座り込むトールとジークフリートと、アリスがいる。
アリスはトールとジークフリートの武器を興味深げに眺めていて、トールはぴくりとも動かないまま。逆にジークフリートは何か喋っている。
ジークフリートの話は有名だ。彼が持つ物語でも語っているのだろうか。
「今日はお話したい事があります」
「なになに?」
奏が新しい絵本を貰った無垢な子供のように笑う。
実際、ここにしかいられない彼女が外部の情報を得るには、テオドアの方から来てくれるしかない。
だから彼女はいつでも笑顔で待ってくれている。
テオドアには、それがとても嬉しかった。
「マーガレット姉上の元にお客様が訪れました」
「……もしかして、私と同じワイルドのペルソナ使い?」
「ええ」
テオドアが頷くと、有里は「凄い凄い!」と子供のように手を叩いて喜んだ。
「じゃあ、次の物語が始まったんだね」
「詳しくは分かりませんが、何やら物騒な事件が起きているそうで」
事件の所で奏の表情が曇った。眉尻を下げ、一瞬、わずかに悲しそうな表情が覗く。
だが、彼女はすぐにパッと表情を笑みに切り替えた。
「そのワイルドのペルソナ使いの人って、やっぱり転校生?」
「ええ」
テオドアが肯定すると、有里は「ふふふっ」と笑った。
「転校生で、ワイルドで、私と一緒か。……全力で頑張って欲しいな」
奏は胸の前で祈るように軽く手を組んだ。
全力で頑張る。
それこそが、望まない未来を退け、望む未来へと駆け上がる唯一の方法だと、知っているから。
「わざわざ来てくれて有り難うね、テオ」
「いえ。……私は、現世の事をお伝えしに来たのではありません。貴女に会いに来たのですから」
テオドアに見つめられて、奏の顔がボッと真っ赤になった。
テオドアの美貌を直視できず、顔を斜め下に下げて俯くしかない。
垂れた前髪から覗く顔は真っ赤だ。
ごく普通の、高校生の女の子。
「顔を見せて下さい」
テオドアが甘い声で囁くと、奏はゆっくり、ゆっくりと頭を上げて、テオドアと目線を合わせた。
奏の眼は甘く潤んでいた。
思わずどきりとすると、血色も良く柔らかな奏の唇が淡く開いた。
「……迷惑じゃなかったら、で、いいんだけど……その、私も、会いたいから……」
あとはごにょごにょと口籠もってしまって聞こえない。他人を気遣い過ぎる癖がここでも出てしまったのだろう。
だが、テオドアには確かに届いた。
「ええ。これからは、もっと頻繁に」
奏の顔に、パッと華やいだ笑顔が咲いた。
もう生者ではない彼女は、しかし芯に力の入った、
「約束だよ、テオ」
見ているテオドアの胸が締め付けられるような表情で、笑った。