耳に響くのは雨の音。

 空から降って滴が地に落ち跳ねる音は、響きを通し越して聴覚を満たし、ついには五感の全てを音と冷たさで支配した。

 ざあざあと一定の間隔で降り注ぐ雨の中、それでも動かない。動けないのではない。敢えて動かないのだ。

 静かに一定に、いつまでもいつまでも降り続く雨。その音が何故かやたらと心地良くて――。

「――何してんだお前」

 肌と服を叩いていた数億の滴が不意にやんだ。視界の上の方に、何か黒っぽい布のような物が張っている。

 ああ傘だな、と思った。思っただけで、それ以上は思わない。思えない。

 雨が途絶えたせいで、急に身体の冷えを感じるようになった。しかし聴覚を支配する雨の音のせいで、頭の中が上手く働かない。

 例えるなら一晩中、テレビの前で座り込んで砂嵐のノイズを聴き続けているような、立ち上がって耳を塞ぎたいのにできないような、そんな抗えない不快感がある。

 雨は嫌いじゃないのに、今だけはちょっぴり嫌いだと思った。

「風邪を引くぞ。……てか聞いてる? 俺の話」

「聞いてる」
 
 ぽつりと言った。身体は冷たくても、唇はまだ震えてはいなかった。後ろにいる彼が短く溜息をついた。

「傘も差さずに雨ン中突っ立ってるって、馬鹿かお前?」

「馬鹿じゃない」

「じゃあ何やってたんだ?」

「……あれ」

 すっと指差す。腕もまっすぐに伸ばして。

 その方向の先、遥か遠く、視界でうっすらと見える程度の距離の先には、花畑があった。

 意外に聡い彼はそれだけで全てを察してくれたらしい。ああ、と頷いて、

「シェイミの花運びか。そういや、もうそんな時期か」

 シェイミは花運びという己の使命を懸命に果たそうとする。

 けれどそれまでの旅路で何らかのトラブルに巻き込まれる事も多く、珍しいポケモンだから人間に巻き込まれることも少なくない。

 だから、とても気に掛かる。シェイミ達は無事にあの花畑に辿り着けるのだろうかと。

「そんなに気になるんなら、行ってみたらどうだ?」

「……でも、あそこ……私一人じゃ、とても……」 

「あー、そういやチャンピオンロード通らなきゃいけなかったんだっけ。んじゃ、俺も一緒に行ってやるよ」「――いいの?」

「もち」

 背中に温もりのようなものが当たった。冷えた身体に、電気のように温もりが走る。

 肩に硬い何かが乗っかった。後ろから伸びてきた片腕で抱き締められ、引き寄せられる。

「……バク」

「どうせ戻れっつっても戻らねえだろ? ならせめてあったかくなるように」

 ククク、と彼が笑った。肩に乗った顎を通して緩い振動が伝わってくる。

「つーかお前、最近はしょうぶどころでヒカリとバトルするようになったじゃねえか。あの強さならチャンピオンロードも楽勝じゃね?」

「……あそこにいる人達も、強くなってるから。……それに、バトルは嫌って言っても聞いてくれないし……」

「血の気が多そうだもんなあ、ああいう所にいる奴らって。――よっし。俺が全部追い払ってやるよ。安心しな」

 ポンポンと鎖骨の辺りを緩く叩かれる。頭や胸を避けた結果なのだろうか。意外に頭を使って、気遣ってくれている。

 背後にいる彼に自分から身を寄せると、腕の力が強まった。

「戻ったら、何か温かい飲み物入れてやるよ。何がいい?」

「貴方のココア。……おいしかったから」

「お、気に入ったのか? 美味いだろあれ。お湯にどれだけ溶かすかとか蒸らすかとか結構考えてるんだぜ。ミルクとマシュマロ、どっちにする?」

「マシュマロ」

「はいよ」

 頬に柔らかいものが当たる。唇だ、と気づいて思わず呆然とすると、

「ん」

 今度は唇に当たった。油断していたので無防備だ。

 熱い唇は表面を軽く吸って離れた。

 間近で彼の顔を見上げると、悪戯っぽくも優しい笑顔を浮かべていた。

「帰るぞ」

「――うん」


  

「おい聞いてくれデンジ! 最近バクの奴がポケギアの電話機能を使ってにやにや笑いながら女の子と話していやがる! とうとう春が来たんだ……!」

「……気づくの遅すぎだろお前」

「仕方ありませんよ、四天王のオーバさんはしょうぶどころには来ないんですから」

「ああ、そうだったな。ヒカリ」

「え? 何その流れ。もしかして俺以外バクの彼女が誰なのか知ってる系!?」


 


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