ねえ、そこで泣いているのは誰?

 どうして泣いているの?

 声をかけると、暗闇の中、膝を抱えてうずくまっていた女の子が振り向く。

 その子は、頬を涙で濡らしているその子は、

「え――……」






     *






 ジムリーダーである父のセンリからポケモン教会関連の重要な書類をオーキド博士に渡して欲しいと頼まれ、ルビーはサファイアのトロピウスを借りてカントー地方にやってきた。

 無論、トロピウスの主であるサファイアも一緒に、だ。

「こんにちは」

 ルビーはオーキド研究所のドアをノックした。

 ガチャリと内側から鍵が開けられ、出迎えたのは、

「よう。御苦労さん」

 白衣を着たグリーンだった。

 彼はルビーが腕に抱えている茶封筒を見つけると、これだなサンキュとルビーの腕からもぎ取り、中身を出してパラパラと捲って中身を確かめ出す。

 ルビーとサファイアは数秒ほど唖然としてから、ハッとなった。

「な、何でグリーンさんがここにっ?」

「ジムのお仕事はどうしたったい!?」

 二人が同時に叫ぶと、あー、とグリーンはうるさそうに呻いた。

 ただ反応は予測していたのか、さほど不機嫌でもなさそうに、

「今、クリスが休み中でな。代わりに俺が手伝ってるんだ。ジムの方は、連絡が来たら急いで行くようにはしている」

「クリスさんが休み? 何かポケモンを捕獲しに行ったんですか?」

 ルビーの知るクリスとは、真面目で努力家で、バトルやコンテストよりも捕獲を好むトレーナーだ。

 スペシャリストとも言える腕前を持つクリスがどんなポケモンを捕まえに行ったのか、ルビーは話題の一環として、また興味の対象として尋ねた。

 が、ふとグリーンの顔に影が落ちた。

 その微妙な変化を敏感に察し、サファイアが小首を傾げる。

「もしかしてクリスさん、風邪でも引いたとね?」

「――風邪……ああ、それに似ているな」

 グリーンはぽつりぽつりと呟いた。

「今、クリスは、体調不良で療養中なんだ」






     *






 また真っ黒い闇の中。

 ここはどこ? 今日もオーキド博士の研究所でお手伝いをしなきゃいけないのに。

 あと塾での手伝いも。それにゴールドが無茶をやっていないか気になるわ。

 早くここから出たい。

 早くみんなの所へ――

「私を置いて行くの?」

 いつの間にか目前に彼女が現れていた。

 今日の彼女はポロポロと涙をこぼしていて、そして何故か前の私が着ていたのと同じ服を着ていた。

「私はもうここからどこへも行けないの。ジョウトにもカントーにもどこにも旅はできない。せっかく各地を回ってバッジをゲットして、ロケット団を倒して、スイクンも捕まえたのに」

 ぽつぽつと呟く彼女の背後に、すっと、あの流麗なフォルムを持つ伝説のポケモンが現れる。

 スイクンは寄り添うように、彼女の背後に佇んでいた。

「私はもうここにいるしかないの。でも貴女はどこにでも行ける。狡いよね……私はもうここにいるしかないのに」

 ふと、風の匂いを感じた。

 私は顔を上げて、唖然となった。

 空。

 雲。

 虹。

 太陽。

 いつだったか、ポケモン達と、あるいはゴールドと、あるいは一人で見上げた空が広がっていた。

 青空の中を、ホウオウが優雅に飛んでいる。

「世界は、こんなにも美しくて。そして未だに広がっている」

 なのに、私と彼女の周りには暗い闇が纏わりついている。

「私はどこにも行けない。だけど、世界はまだある。でも、行けない」

 彼女がそっと顔を近づけてきた。

 私と同じ顔なのに、自分でも見た事が無いくらいの、ぞっとするほどの酷薄な笑み。

「ねえ。……どう思う?」

 ひ、と息を呑んだ。

 自分の顔だからこそ見たくもなかった、醜く歪んだ表情。

 目尻にじわりと涙が浮かぶ。みっともないから泣き叫びたくはない。けど嘆きたくなる、この奇妙な状況。

 不意に、彼女の背後のスイクンと目が合う。

 私が出会ったのとはまた違うスイクン。寄り添うように佇んでいるという事は、彼女はゲットしたのだろうか。

 スイクンは何の反応も寄越してこない。ただじっと、こちらを見据えている。

 強い眼差し。

 まるで何かを訴えるような。

 その時、ふと私を見つめる彼女の目線の向きが変わった。

 私じゃなく、私の背後を見ている。

 彼女の唇がゆっくりと開く。

「貴方……ゴールド?」

「いんにゃ。正確には『お前の』ゴールドじゃねえよ」

 私は驚愕のあまり肩を跳ねさせ振り向いた。

 そこに、ビリヤードのキューを持って、薄く笑うゴールドがいた。






     *


 



「起きたかよ」

 目を覚ますと、ゴールドが私を見下ろしていた。

 ゴールドの背後には天井が広がっている。

 ごくありふれた模様の天井と照明。

 見慣れているはずなのに、どこなのか思い出せない。どうしてかしら。

「クリス? おーい」

 ゴールドが目の前で手をハタハタと振る。

 返事を求めている、というのは分かる。だから何か喋らなきゃとも思う。

 けど唇も喉も動かない。

 どうしようかしら、ともう一度思っていると、意識がだんだん醒めてきた。

 背中に、緩く温かくて柔らかい何かを感じる。これは布団ね。だとしたら頭の下に敷かれているのは枕。

 身体全体も緩くて温かい何かで覆われている。掛布団。

 何だか、慣れているような忘れていたような、不思議な感触。

 寝袋じゃない。ポケモンセンターのベッドじゃない。オーキド博士の研究所のソファでもない。どこだったかしら。

 何だか身体中が熱い。全身に関節痛があって、物凄い倦怠感と疲労感がある。まるで全力疾走をした後のような熱っぽさ。

 疲労かしら。

 今までポケモンを捕獲するために山に上ったり野外で泊まったりしたし、旅をしてきた身だから、体力には自信があったのに。

 それでも疲れるなんて。何か余程の事をしたのね。

 ……あら?

 私……何をしていたんだっけ……?

「クリス」

 ゴールドの声が、何故かとても優しかった。

「いいんだ。無理して考えなくて」

 ふと右手が涼しくなった。ゴールドが私の右手を布団から取って、両手で包むように握ってくれていた。

「また、俺が行くからさ」

 どこに? と尋ねようとした時。

 ふわっと意識が宙に浮いて、綿よりも優しく、けれど有無を言わさない勢いで押し寄せてきた眠気に、私の意識は呆気なく負け、瞼を閉じてしまった。

 




     *






 また、あの夢が来た。

 私と同じ顔の女の子がいて、その女の子が私に語りかけてくる。

 けど、今日は何故かゴールドもいた。

 ゴールドが女の子と何か喋っている。

 私の視線に気づいたのか、ゴールドがパッと振り向いた。

「クリス。具合、大丈夫か?」

「え? ええ、まあ……」

 というより、夢の中だから現実世界での疲労は反映されない。ここでは健康体のままだ。

 私の答えに満足そうに頷くと、ゴールドはまた女の子の方に向き直った。

「ってなわけでよー、悪ィんだけど、あいつは俺のだから。こんな所に置いて行きゃしない。引っ張ってでも連れて行くぜ。んで、俺と一緒に、あの世界で生きるんだ」

 何か物凄い事を喋っている。良く分からないけど何か凄まじい事を言っている。

 私は慌てて駆け寄った。

「ゴールド、何を言っているの?」

「何って、こいつがお前の説得じゃ耳を貸さねえっぽいから俺様がわざわざ来てやったんだよ。感謝しろよ?」

「か、感謝って」

「まあ、俺としてもお前がいなくなるのは困るしよ」

 不意にふっと真顔で言われ、頬に熱が走った。

「な、ななななななななな」

「……まあ確かに、そっちはそっちで、こっちはこっちだものね」

 あの女の子が言った。

 私と同じ顔には、いつになく寂しげで、でもスッキリしたような表情が浮かんでいた。

「分かってはいたの。私は私で貴女は貴女。八つ当たりしても仕方ない。だって違う存在だもの。……でも悲しかった」

「わ、私達は違う存在でも同じよ。私が感じている事はきっと貴女に届く。これから、たくさんの事、貴女に伝えるから。今までは知らなかったけど、今度は意識しているから。そうしたらきっと貴女に届く。絶対に」

 女の子が笑った。

 初めての、心からの笑顔だった。

「――うん。待ってる。だから、気を付けてね。碌でもない大人が一杯いるけど、それ以上に素敵な仲間がいるはずだから」

「ええ」

 頷くと、ゴールドが手を差し伸べてきた。

 行こうぜ、と言う彼の手を握り締める。

 光が溢れて、そこでまた意識が途切れた。



 






 

 



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