「虎」


「んー何?」


「どーん!」


「おっと」


「……何でよろけないの何でこけないの不意打ちだったのに何で何で」


「いや俺、鍛えているから。伊助を抱き留めるなんて訳が無いよ。それっ」


「きゃっ……! だ、抱き上げろとは言ってない!」


「おーいお二人さん、放課後の廊下でイチャつくのはやめてもらえないかなー。学級委員長からの注意ー。ほら周りを見て御覧、彼女がいない男子と伊助ファンの男子が歯ぎしりをしつつ虎若フルボッコフラグを実現させるために武器を取りに行ってるから」


「俺死亡フラグ!? ……まあ、あれだ庄ちゃん。騒いだのは申し訳ないけど、伊助、せっかくの『甘えたい周期』だからさ」


「何それ」


「たまーに、一ヶ月に一回か二週間に一回くらいのペースで来るんだよ。伊助がスゲェ甘えてくるの。これがめっちゃ可愛いんだな」


「へえ。でもそれはよそでやってくれる?」


「んーでもさ、俺、伊助の甘えはなるべく受け止めたいんだよな。何しろ可愛いし、それに――」


「とーら」


 伊助が甘い声を出す。対する虎若も甘い表情を浮かべ、


「なーに?」


 同じように答える。


 ――何このバカップル。真面目に注意した僕が馬鹿だった。


 つい、と庄左ヱ門は視線を逸らした。教室に戻ろう、と踵を返す。


 と、


「虎」


「何?」


「好き」


「俺も」


 後ろから甘いやりとりが聞こえてきた。


 しかし何かがおかしい。庄左ヱ門は吐きそうになった溜息を飲み込んだ。何だか――伊助の気配が、違うような。


 だァんっ! と何かが壁にぶち当たるような音が響いた。バスケットボールや机ではない。もっと柔らかい物。


 衣類を纏った肉と骨が硬い壁に激突した音だった。


 その直後に激しく咳き込む音が聞こえてくる。虎若だ。


 庄左ヱ門は慌てて振り向いた。


「虎若!?」


 彼が胸に手を当てて咳き込んでいた。病気の咳ではない。肺が何かの衝撃を受けたのだ。


 何の衝撃を?


 ――ま、さか、さっきの……。


 壁に背を付けていた虎若がズルズルと下に落ちて座り込む。咳が止まらない。


「大丈夫!? 今、乱太郎を呼ぶ――」


 から、と言いかけた背中にぞくりと寒気が走る。


 ――まさか今の音、伊助が……!?


 否、そんなわけがない。伊助が虎若を壁に叩きつけたりするはずがない。そもそも彼女にはそんな力は無い。


 ――いや、さっきの油断していた虎若なら……。


 いきなり突き飛ばされれば受身も取れない。背中から壁に叩きつけられてしまったのなら、立ち上がれなくなるくらいの痛みも受けてしまう。


 そこまで考えて、庄左ヱ門は首を振った。何で伊助が暴力を振るったように考えるんだ、と。


 ふと、隣に気配を感じた。伊助だ。


「伊助、虎若を運ぶの、手伝って――」


 息を飲んだ。


 虎若の前に立っていた伊助が、足を跨って、彼の腰の辺りに身を下ろした。スカートの裾がめくれるとか、皺が付くとか、そんなのはお構いなしに。


 硬く凍った気配とは裏腹に、その顔には優しげな笑みで満ちていた。


「虎」


「ん……?」


 けほ、と軽く咳き込みつつも虎若が返す。激しい咳はやんだものの、未だに軽く小さな咳をしている。


「好き」


「俺も……」


「ほんと?」


「本当だよ」


「そっか」


 伊助は微笑んだ。その笑みのまま。


 腕を伸ばして。


 手を、虎若の首に食い込ませた。


「……っ!」


 咳き込んでいた途中で呼吸を絶たれ、虎若の顔が苦しげに歪む。


「伊助っ!?」


 庄左ヱ門が顔を真っ青にして叫ぶ。


 後ろから多人数の足音が聞こえてきた。気配を探る。三治郎と団蔵と、きり丸、兵太夫に、金吾と喜三太に乱太郎、しんべヱもいる。は組全員だ。


 放課後で人気の少ない校舎とはいえ、気づいてみれば周りには人がいた。大勢とは言えないものの、少ないとも言えない。良く見ればそれらは同学年のい組やろ組の連中だった。


 顔が真っ青な彦四郎が何とかしようと駆け寄ろうとするのを伝七と左吉が止めている。元より顔色の悪いろ組の連中はおろおろしているが、全員が携帯を握っていた。恐らく、は組に連絡を取ってくれたのだ。


「虎若、大丈夫!?」


「つか何してんだよ伊助!」


「伊助、手を離して! 虎若が死んじゃう!」


 三治郎が泣きそうな声で叫び、虎若と同室の団蔵が怒声を上げる。


 喜三太が後ろから伊助を抱き締めた。彼女の腕を掴んで、虎若の首から離そうとする。


 が、どこから出ているのかと問いたくなるくらいの力で伊助の腕は固定されていた。喜三太の意図を察した金吾が虎若の首を絞めている伊助の手に指をかける。


 指も握力が異様なくらい強かった。しかし金吾は咄嗟に視点を変え、指を剥がすのではなく、伊助の手首を掴み、渾身の力で虎若の首から離した。


 虎若の首と伊助の掌の間に無理矢理に指を潜り込ませ、掌が重なった所で押し返す。


 握力なら負けない。徐々に伊助の手は虎若の首から離れた。


 逆の手を引き剥がそうと躍起になっている兵太夫としんべヱが、


「どっから出てんのこんな力!?」


「い、伊助、こんなに力、強かったっけ!?」


「伊助、伊助! 大丈夫!? 僕のことわかる? ねえってば!」


 三治郎が伊助の頬を両手でパシパシと叩く。


 先程の笑みとは異なり、伊助は今は強張った表情を浮かべていた。眉尻を下げ、泣きそうな顔で、


「……だよ……」


 ぽろりと涙が落ちる。


 それに一番に気づいたのは虎若だった。未だ片方の手で首を絞められつつも、自分から腕を伸ばして距離を詰め、伊助の身体を抱き締める。


 伊助の手の力がふっと緩んだ。


 力が抜けたように、ぱたり、ぽとりと両腕が虎若の肩に落ちる。


 金吾と兵太夫は荒れた息遣いで顔を見合わせた。


「やだよ……」


 ひっく、と伊助の喉が鳴る。


 虎若は咳をしつつ、伊助の背中を撫でた。


「やだよぉ……」


 強く伊助を抱き締める。


 掌を広げて、ポンポンと背中を軽く叩く。


「どこにも行かないで……」


「行かないよ、どこにも」


 喋って、虎若は気づいた。喉の辺りに何かがつっかえている。血だ。


 構わず飲み下す。


「虎は、ずっとここにいてくれる……?」


「いるよ。俺はずっと伊助の傍にいる」


「……嘘つき」


「どうして。俺は本当のことを言っているのに」


「嘘。嘘なんだ! だって虎は捨てようと思えば私のことなんかいつでも捨てられるし、何にも言わずに去って行くことだってできるもの!」


「嘘じゃないよ。俺は伊助を捨てない。伊助の傍から離れることなんてできない」


「嘘つき嘘つき口ばっかり口で言うのは簡単なのだから信用できない、どうして虎の目に他の女の子が映るの!? 虎の心が変わっちゃうかもしれないのに!」


「信用してよ。あと映るのはしょうがないじゃん、町を歩いている時とかはさ。それに俺の心は変わらないよ。ずっと。絶対に」


「絶対に嘘そんなのは一時の熱、一時だけ一時だけ、ずっとずっとそうとは保証できない!!」


 ぽろぽろと泣きながら伊助が叫ぶ。途中、三治郎が喜三太が割り込んで何か言おうとしたが、きり丸と乱太郎が止めた。


 虎若は穏やかに話し続ける。


「俺はずっと伊助が好きだよ」


「嘘」


「何で?」


「だって将来私のことを嫌うかもしれない多分そうなんだだから今は嬉しい台詞を軽々と口にできるそうなんだだってだって言うだけなら簡単だもの捨てるのも去るのも男の人側からしてみればすごく楽ですぐに済むことで」


「伊助。伊助だって、俺のこと好きって言ってくれているじゃないか。あれは一時だけの熱? それとも嘘?」


「違うよあれは私の本心ずっとずっと虎が大好き虎しかいないの虎しか考えられないし眼中にないし他の男の人なんて比較の対象でしかない、私の唯一は虎若なの」


「俺の唯一も伊助だよ」


「……ほんと?」


「本当だよ」


 虎若は伊助を抱き締めている左手をそっと離した。伊助の傍にいるは組の面子に向かって、ひょいひょいと手を振ってジェスチャーで示す。離れろ、と。


 言われた通りにみんなが離れる。


 虎若は左手で伊助の右手首を掴んだ。右手は背中を抱き締めたまま向きを縦に変え、頭と背中に当て、


「俺には伊助だけだ」


 大柄な痩躯で潰すようにして伊助を床の上に押し倒した。


 伊助の身が直接床に当たらないように後頭部と背中を右手で支え、左手を伊助の顎にかけて、


「え、ちょっ」


「ま、待った待った二人とも!!」


 制止する乱太郎ときり丸の声にはお構いなしに、かぶりつくように唇を重ねた。


 舌で伊助の唇を舐めると彼女がわずかに口を開く。その隙間から捻じ込むようにして舌を差し入れ、反応が遅れた伊助の舌を絡め取って唾液を吸う。


「ふ……」


 伊助の声が漏れる。喘ぎにも似たその声に虎若の神経が一気に高揚した。


 唾液を送り込んで、左手の指で伊助の喉をそろりと撫でる。


「ん、ッ」


 伊助の喉がコクリと鳴った。


 口腔で舌を絡ませ吸い合い、伊助の顔が紅潮したところで顔を離す。


「あ……」


 唾液の糸ができていた。伊助が恍惚とした表情を浮かべ、


「気持ち良かった……」


「伊助、俺の肩に両腕は回してくれないの? シている間、少し寂しかったぞ」


「ん、御免ね……今度はちゃんとやるから……」


 伊助が両腕を伸ばす。応えて身を落とすと、彼女の腕が肩から背中に回った。


 唇を重ね合わせる寸前、伊助が、


「……御免ね……酷いことして」


 また大粒の涙をこぼす。虎若は舌を伸ばして、頬を伝うそれを舐め取った。


「いいよ」


 酷いことはしていないよ、とは言わない。


 流石にこの周期的な『発作』は治さないといけないからだ。


 年々、少しずつ治ってはきている。最初なんか階段から突き落とされた挙句に押し倒されて制服のボタンを外されたのだから焦りに焦った。


 だから、あの頃よりは随分と改善されている。


 だが、


 ――逆に俺の心は病む一方だな。


 何せ伊助の発作を宥めようと必死になるあまり、周りが見えなくなってしまう。そして慰めている間は、ひたすら愛おしいと思う気持ちが湧いて出てくる。


 ――俺もう駄目だな。


 別に構わない。


 戻る気はさらさら無いのだから。


「伊助、もう一回キスしようか」


「……ん」


 虎若の誘いに、伊助の顔が甘く赤くなる。


 伊助がそっと目を閉じた。


 今度は、かぶりつくのではなく、触れ合わせるように唇を重ねた。

















「……虎若が欲しい。私だけのものでいて」


「じゃあ伊助は俺だけのものな」


「そんなの、当たり前のことなのに」


「嬉しいよ」


 君はもう俺のものなんだ。


 ああ、なんて嬉しいんだろう!








  





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