その日。
珍しく、本当に珍しく、虎若が本を読んでいた。
教室の椅子に座り、机に着くというよりは椅子に背をもたれさせているという少しだらしない姿勢ではあるが、確かに本を開いていた。時たま本の頁も捲っているから読んでいることには間違いない。
ブックカバーをかけているから本のタイトルは見えない。逆に言えばブックカバーをかけているから教科書や図書室の本ではない。
つまりは宿題のためではなく、自発的に本を読んでいるということになる。
その光景を見た乱太郎は、午後からの体育の授業を担当する山田先生に「先生! 午後は雨です!」と言い、兵太夫と三治郎は「雷雨かもよ」「嵐じゃない?」とひそひそ話をした。
一番驚いたのは団蔵だった。大盛りの弁当を平らげはしたが満腹にはならなかったため、成長期の男子である彼はバリボリとおかきや煎餅を頬張りながら、困惑した表情で同室の親友を見つめる。
ゆっくりと口を開き、
「それ、官能小説?」
「なわけねーだろ」
ずびしっ、と漫才コンビのようなタイミングとノリで虎若は突っ込んだ。溜息をつき、かけていた遠視用の眼鏡を外す。
「それ伊達じゃなかったの!?」
「お洒落眼鏡かと思ってた!」
「まあどっちにしろ似合わないけどね」
「これ度が入ってるから、かけるなよ団蔵。喜三太、俺に眼鏡は似合わねェよ。兵太夫、わかっちゃいるがお前に言われると何か腹立つ」
溜息をつき、
「銃とかライフルの訓練やってたら、最近だんだん近くの物が見えなくなってきたんだ。……遠くの物はまだ見えるんだが」
肩を落とし、
「『前』はこんなに軟弱じゃなかったんだけどな。どんだけ火縄銃の訓練しても教科書の文字が霞んで見えるなんてことなかったのに……」
「ママーン、パパンが落ち込んでるー。慰めてあげてー」
三治郎が声を上げる。と、
「呼んだー?」
開け放たれた教室の戸から伊助がひょっこりと顔を覗かせた。いつものように明るい色の髪をポニーテールで纏めていて、明るい笑顔を見せている。
「ママンどこ行ってたのー。パパが激シリアスに落ち込んでたのにー」
「御免ね、下の自動販売機に行ってたの。カフェラテ買いに」
と、450mmのペットボトルを見せる。
緩い足取りで歩み寄りつつ、
「それで、虎はどうしたの?」
「聞いてくれ。俺は眼鏡をかけて本を読んだだけなのに団蔵と兵太夫が悪口攻撃を」
「駄目でしょ。団蔵、兵太夫。――眼鏡も一味違うんだからいいじゃない」
「ママンも方向性が違うと思う」
兵太夫が引きつった笑みで突っ込んだ。
伊助は淡く笑い、机の上の眼鏡を手に取る。
「これ、遠視用だよね?」
「ああ。あ、覗くなよ。目が悪くなっちまうから」
「うん。……ねえ虎」
「何だ?」
「これが無きゃ近くの物が見えないってことは、もうキスはできないってことかな?」
「――え?」
「あ、そうだよ。近くの物が見えないってことは相手の唇も見えないってことじゃん。お気の毒様、虎若」
「何でそこだけ食いつく兵太夫。――伊助、俺は眼鏡が無くてもチューはできるぞ」
「本当に?」
悪戯っぽく伊助が笑った。
椅子を軽く引いて、虎若に椅子ごと身体の向きを変えるよう促す。壁に背中をつける姿勢だ。
伊助がポンポンと虎若の膝を叩く。均して、と言うように。
虎若が片腕を差し伸べてから、伊助は横向きに膝の上に座った。虎若の腕が背中を支える。
上機嫌の子供のように足をぷらぷらさせながら、
「見える? 私の顔」
「ああ。……スゲェ真っ赤。実は緊張してんだろ?」
「うん。だって、虎若がすぐそこにいるから」
「はは。――俺も、緊張してるよ」
つい、と首を伸ばす。伊助は首を遠ざけなかった。
ふにゅ、と柔らかいもの同士が重なり合う。虎若は伊助の唇の表面を軽く吸ってから離した。
「ん、バッチリ。眼鏡が無くても位置はわかる」
「そっか」
頬を緩めて微笑む伊助。
二人の周りにイチャイチャと桃色の雰囲気が漂い始める。
兵太夫がぼそりと、
「……ここ教室なんだけど、あの二人、僕達の存在も含めてすっかり忘れ去ってるよね」
膝に乗っかって
「授業を始めるぞー、席に着け――学校で何やってるんだおまえた、あいたたたたたっ……!」
「土井先生どうしたの!?」
「いつもの胃炎!? 乱太郎、土井先生が!」
「二人が教室でイチャつくのやめたら先生の胃も落ち着くと思うんだけどな」
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