目の前に積まれた強烈な刺激臭を放つ洗濯物の山を見て、伊助はこっそり小さな溜息をついた。


 後ろを向く。そこには地面の上に直接正座をしている団蔵と虎若の姿があった。


「あのね、二人とも」


「はい母ちゃん」


 団蔵が畏まった態度で口を開く。しかし隣にいる虎若が、


「なーに? 奥さん」


 と、微妙に空気を読めていない朗らかな笑顔を返した。


 その反応に、中庭に集まっていたは組のメンバーの一人、兵太夫は肩を竦める。虎若の馬鹿、今日はこれでお説教フルコース確定だな、と。


 しかし伊助の態度は兵太夫の予想とは大幅に異なっていた。カアッと顔が赤くなり、視線がうろたえたように左右に揺れ動く。


「み、みんなの前でそういうことは……」


「恥ずかしいから駄目って? でも伊助が可愛いから、つい反応を見たくなっちまった。御免な」


「……ん、うん……」


 頷く伊助。兵太夫はわざと茶化した。


「甘やかしちゃ駄目だよママン。パパンそうやって付け上がるから!」


 伊助がハッとなった。ぽやーんとズレかけていた瞳の焦点を結び直し、


「と、とにかく、今すぐ洗濯を片付けるの。でないと晩御飯を抜きにするからね」


「母ちゃん勘弁してくれよ、俺、頑張るからさ」


「団蔵。それより言うことは?」


「……洗濯物を溜め込んで御免なさい」


 よし、と伊助ははにかんだ。その淡い微笑みに兵太夫は心の中でバンバンと床に拳を打ち付ける。何であんなに可愛いのに虎若に惚れてしまった。他にいい男はいくらでもいるのに。


 その幸せ者である虎若を見る。地面の上に正座をし、本来なら反省すべき立場の彼は何故か顔に薄い笑みを湛えていた。


「伊助」


 空気を読めていない――否、敢えて読んでいない、にこりとした笑みを浮かべる。


「チューして。そしたら頑張るから」


「……虎。虎は本来、反省すべき立場のはずだけど」


 おお、と団蔵が呻いた。兵太夫に矢羽根を飛ばす。


『伊助、今日はなかなか虎若に厳しいな!』


『ここで甘やかしたら駄目だからね……』


 やっぱりは組のママンだね、パパンの躾ができるのはママンだけだ!


 うんうんと頷く兵太夫。


 そんな彼の耳に、虎若と伊助の声が聞こえた。それは甘みを含んだものであり、何故か二人が桃色の雰囲気を出す時に良く出るイチャつきモードの声であり、しかしその内容は、


「駄目ったら駄目。今日は甘やかさないよ」


「頼むよ。一回だけ。ディープじゃなくてもいいから」


「だ・め。正座はもういいから、ほら立って。一緒に洗濯しよう」


「むぅ……」


 と、極めて健全なものだった。


 あれ、と兵太夫は小首を傾げる。叱るママンと叱られるパパン。ただそれだけの構図なのに、イチャついているように見えるのは何故だろう、と。


 ああもうあの二人だから仕方ないか、と無理矢理に結論付ける。視線の先で団蔵が、


「虎若ァ、図体のデケェ男がむくれてみたって気持ち悪いだけ――いででででっ、殴ることねえだろ!?」


 余計なことを言って、虎若から痛烈な一撃を貰った。


 団蔵を一発ぶん殴ったことで少し気が晴れたのか、虎若が立ち上がる。しかし表情は眉尻が下がった寂しげなものだった。


 せっかくチャンスがあったのにスキンシップが取れなくて残念なのはわかるが、キスくらいいつでもできるだろうにどうしてああも落ち込むのか。


 雰囲気か。みんながいるっていう、このシチュエーションでキスをしたかったのか、と兵太夫は溜息をつく。


 ――年がら年中盛りっぱなし。まるで獣だな。伊助の奴、保つのかな……。


 と思い、級長の庄左ヱ門に視線を向ける。は組を纏める級長はどういう表情をしているだろうと伺うと、彼はちょいちょいと伊助に手招きをしていた。


 素直にやってきた伊助の耳元で何か囁く。それを見た虎若の目が軽く見開かれた。


 ビリッ、と寒気が走る。


『やべえええええ!』


 団蔵から矢羽根が届く。人が良いので洗濯を手伝おうとしていた金吾と喜三太はガクガク震えて虎若を見た。


『虎若がキレた! やべえ!』


『……庄左ヱ門は伊助に耳打ちをしているだけだよ。それを何でいちいち怒るのさ?』


『そりゃ恋人が自分以外の男とくっついていたら嫌に決まってるだろ!』


『いやそうじゃなくてさ、普段からああもイチャついているんだから少しくらいは落ち着いて正しい判断ができないかどうかを――』


 兵太夫は言葉を切った。


 とてとてと伊助が虎若に歩み寄っていた。伊助が虎若に近づくにつれ、氷のように冷め切っていた虎若の殺気が徐々に緩んでいく。


「虎」


「何?」


 甘い笑みで答える虎若。


 伊助はにこりと微笑んだ。その笑顔に、虎若はトクンと鼓動を高鳴らせる。


 伊助が片手を虎若の肩に置いた。ぐっと背伸びをして、自分の唇と、彼の唇を触れ合わせる。


 ディープではないしリップ音もない。それでも何故か兵太夫は二人のそのキスに見とれた。


 唇同士が重なっているというのは、実際で見るとかなり生々しい。だが二人のキスには、お互いがお互いを委ね合う、依存にも似た甘い信頼関係を漂わせていた。


 周囲の視線を集める中、伊助が唇を離す。


 彼女は半身を後ろに向け、指で大量の洗濯物を指差し、言った。

















「夕方までに終わったら、膝枕と耳掻きしてあげるから。――ね、旦那様」


「団蔵、昼までに全部終わらせるぞ!」


「えええええ!? 無理だっつの!」


「……庄左ヱ門、さっき伊助に何を言ったの?」


「押して駄目なら引いてみろ」


「はにゃ? 甘やかさないのをやめて、逆に甘えろってこと?」


「……それなら確かに甘えられるのが好きな虎若は言うことを聞かざるを得ない。成程。流石はは組の学級委員長だな」


「いやいや、それほどでも」


「おーい、団蔵がひいひい言いながら洗濯物を片付けているから手伝ってあげようー。作法委員会の僕が言うのも不本意だけどさ」








 





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