乱太郎から、虎若が風邪を引いて倒れたと聞いた。
さっきの体育の時間中、長距離を走るための準備運動の最中に突然バッタリと倒れたそうだ。
慌てて山田先生と団蔵と金吾が保健室に運び、新野先生と乱太郎が虎若を診た。結論は一言。
「風邪ですね」
「風邪だね」
新野先生から絶対安静を言い渡されたため、今は保健室にいるらしい。
「熱は九度三分。咳はしていないし頭痛も感じないそうなんだけど、とにかく身体が怠いらしいんだ」
「そう……なんだ」
教室に帰ってきた乱太郎から虎若の具合を聞き、伊助は細く溜息をついた。
――何で気づいてあげられなかったんだろう。
昨日まで虎若とずっと一緒にいた。今日は生憎と朝から体育と実技の授業が立て続けに入っていたから会えなかったのだけど、でも顔を合わせて挨拶はしたのに。
今にして思えば少し顔が赤かった。運動男子に特有の血色の良さと思い込み、見逃してしまったのかもしれない。
伊助の周り、例えば庄左ヱ門は体調が悪くなると顔色が悪くなるタイプだ。だから逆に熱があると顔が赤くなるタイプの虎若の不調には気づいてやれなかった。
――気づいてあげなきゃいけなかったのに。
思う。自然と俯くと、横から兵太夫の声が聞こえてきた。更衣室で制服に着替えてきた彼は石鹸の匂いの消臭スプレーを振りかけながら、
「てか馬鹿旦那、寮で同室だろ? 何で気づいてあげなかったんだよ」
すると自分の机でバリバリと菓子を貪っていた団蔵がぎくりと顔を強張らせた。いや、あのさ、と口をもごもごさせつつ、
「言い訳かもしれないけど……いや言い訳だけどさ、朝に起きた時も朝飯を食った時もいつも通りに見えたんだよ。顔だってそんなに赤くなかったし、本人も体調が悪いとか一言も言ってなかったし」
「虎若は昼頃に熱が出るタイプなんだろうね」
忍たまの友を読んでいた庄左ヱ門が顔を上げる。
「僕も似たようなタイプなんだけどさ、朝、起きたばかりの頃は体温も体調もいつも通りに感じるんだ。ただ昼頃にまで時間が経つと徐々に怠さとか熱っぽさを感じていくんだよ」
「要するに、朝に準備体操をして昼に身体が全開になった時に初めて体調に気づくってこと?」
兵太夫の真似をしてストロベリーの消臭スプレーを振り撒いている三治郎が小首を傾げた。
そう、と庄左ヱ門は頷く。
「虎若自身、体育の途中辺りから気づいたのかもしれない。でも疲労と思い込んでしまったのかもしれないね」
「で、マラソン前にやる準備体操の途中で不意にバッタリ倒れた、と」
兵太夫が溜息をつく。
「虎若が悪いよ。忍者志望なのに自分の体調に気づけないなんてさ」
「そうだね」
庄左ヱ門は鷹揚に頷く。兵太夫はふんと鼻を鳴らした。
「ふ、ふ、ふえ……」
不意にどこからかむずかるような声が聞こえてきた。しんべヱだ。慌てて机の中から箱ティッシュを取り出して数枚引き出し、鼻に当てている。
原因に気づいたきり丸が叫んだ。
「三治郎、消臭スプレー振り撒きすぎだ! やめろって、しんべヱ、鼻炎なんだからさ!」
「あ、そっか。御免ねしんべヱ」
「い、いいよ……へっくしょーい!」
しんべヱが盛大なくしゃみをした。ティッシュを鼻に当てていたので被害は出なかったが。
立ち上がったきり丸が窓を開けて換気をする。
「乱太郎、虎若の傍には新野先生がいるんだろ?」
「うん。でも他の怪我人とか来たら新野先生が診なきゃいけないから、私もすぐに戻るよ」
よっこいせ、と身支度をしていた乱太郎がバックを肩に背負って立ち上がる。今日の授業が午前だけで良かったよ、と呟きつつ、
「そうだ伊助、良かったら手伝ってくれない? 一緒に調理室でお粥を作ろ――」
ガラッ。ダダダダダ! ――タタタタタ……。
という効果音が起きて過ぎて遠ざかって行った。
「……早いね、伊助」
「そうだね、兵ちゃん」
「ま、待って伊助ー!」
「乱太郎危ない、お前は保健委員なんだから無闇に走るな!」
「二人とも待ってよ〜」
乱太郎、きり丸、しんべヱが騒々しく教室を出て行った。
その直後。
「うわあああああっ!?」
「ら、乱太郎ー!」
「大丈夫ー!?」
「だ、大丈夫ー! てか伊助は大丈夫かな、カラクリに引っかかってないかな!?」
「お、おいこれ見ろよしんべヱ」
「え? あ、これ、ワイヤーを切った跡!?」
「それにここ、何か強い力でジャンプしたような跡があるぜ。確かにこの辺りからジャンプすればこの辺りのカラクリは一通り避けられる」
「板を踏んだ跡もあるよ! 凄いね伊助!」
「ああ。愛の力だ。スゲェな伊助は……!」
「お、下ろしてー!」
「あ、悪い、すぐに行く!」
庄左ヱ門は兵太夫を見た。兵太夫は肩を竦めて、
「あの辺にあるのは殺傷能力高めのカラクリなんだけど。それを乗り越えるとは、やるなあ伊助」
「愛なんだねぇ〜」
ほわほわと笑う喜三太。
その横で金吾がぽつりと、
「……虎若は伊助を溺愛しているけど、伊助も虎若のこと大好きだよな」
*
闇から光へと意識が浮上していく。
目覚まし時計で起こされた義務的な目覚めではなく、身体が浅い眠りに入ったために意識が覚醒しやすくなり、そこへ身体の怠さや重さを一気に感じて起き上がったといった方が近い。
そのため、目覚めはスッキリしているものの、意識はひどく怠かった。
――怠い……。
あまり弱音を吐かないように努めている。が、心の中では簡単に弱音が出た。
咳は出ないし頭痛も無い。ただ頭の中に鉛が詰め込まれたように重い。身体中も血液が沸騰しているように熱かった。
意識が煮え滾って、まともに思考もできない。それを自覚して更に怠いと感じた。
――ここ、どこだ? ……保健室か。
確か山田先生の監修の元、体育の授業を受けていたはずだ。マラソンをすることになり、念入りに準備体操をしていた。
その途中、何だか怠いと思っていた身体が熱っぽいと感じるようになり、頭の中がぐらぐらし、あ、これヤバい、と思った瞬間には倒れてしまっていた。
倒れてすぐに気絶したが、周りのクラスメートが自分を見て騒然としていたことは覚えている。あの泣きそうな顔は三治郎で、慌てていたのは乱太郎だっただろうか。
心配をかけた。早く良くなって謝らないと。
「……水」
喉が渇いた。上半身を起こして、ベッドから出ようとする。と、
「虎若、起きてる?」
ベッドの周りを囲んでいた白いカーテンがシャッと引かれた。
乱太郎と、耐熱性ミトンを填めて小さな鍋を抱えた伊助が入ってくる。
「大丈夫?」
「……え? あ……うん」
ノロノロと頷く。今は頷いて喋るだけでも気力をひどく消耗した。
「お粥、食べれる? 梅干付きで薄塩味なんだけど」
伊助が虎若の顔色を覗き込む。
「ん、大丈夫。食べれる」
「食べれる分だけでいいからね」
乱太郎がテキパキとベッドの上にサイドテーブルを組み立てた。その上に鍋敷きを置いて鍋を置く。
もわもわと湯気が立っていた。
伊助が蓋を開ける。ほわりと米の甘い匂いが漂ってきた。
おいしそう、と言いたいのに言えなかった。それくらい怠い。
伊助がお玉を使って小皿に取り分け、梅干を一つ置く。蓮華で一口分を掬い、
「はい」
虎若の方へズイと差し出してきた。
虎若がきょとんとする。
乱太郎がそっと足音を忍ばせてカーテンの外に出た。またきっちりと閉め直す。
「口を開けて。あーん」
「……あ、うん。あー……」
「……おいしい? あ、頷くだけでいいから。……そっか。良かった。はい」
「ん……」
中から聞こえてくる声に、やれやれと首を振った。虎若のために薬を煎じている新野先生の元へ行く。
「二郭さんは、佐武君の傍に?」
「あ、はい」
「そうですか。しかし風邪はうつってしまいます」
「はい。虎若が食事を終えたら、伊助も帰らせますので」
乱太郎はちらりと、カーテンに囲まれたベッドの方を見た。
その外部と遮断された空間の中では、
「あーん。……ん、凄い。全部食べられたね。でも大丈夫? 吐気とかしない?」
「大丈夫。……眠い……寝る」
「駄目よ。新野先生がお薬を作ってくれているから、せめてそれを飲まないと」
「……そっか」
と、桃色の雰囲気が広がっていた。
その雰囲気の中に平然と居座る虎若は、ふと指を動かし、しかし躊躇ったようにシーツの上に下ろした。
察した伊助が手を伸ばして、虎若の手をきゅっと握り締める。
「……伊助……うつるから」
離れて、と虎若が言う。
普段の彼からは想像もつかないくらいのか細い声だ。きっと起き上がるだけでも体力を使ったのだろう。
伊助は緩く首を振る。
「大丈夫。あとでちゃんとうがいもするし、手洗いもするから」
「けど……」
「せめて、貴方が薬を飲んで眠るまで」
異論は聞かないぞ、と言うように微笑んだ。
傍にいさせて
「桃色の雰囲気のところ申し訳ないんだけど、お薬だよ虎若ー」
「おう、サンキュー」
「乱太郎、何が桃色なの? ……ああ、皮膚の色?」
「自覚が無いって一番恐ろしいよね」
[前] | [次]
戻る