虎若×伊助♀
金吾×喜三太♀
前提
童話パロ
昔々、とは言ってもそれほど古くは無い時代のお話です。
ある所に、伊助という一人の娘がいました。
伊助は早くに両親を亡くしており、兵太夫と三治郎という二人の姉と一緒に暮らしていました。
兵太夫と三治郎は見目がとても麗しい姉妹でした。仲の良い二人は朝から出かけ、夕飯の頃になると帰ってきます。
二人は自分達をナンパしてきた男がどうのこうの、奢ってくれた昼食がどうのこうの、買ってくれた物はどうのこうのと喋りながら、伊助に要求します。
「今日の晩御飯、お米がいい。和食がいい。あ、でも味の濃すぎる漬物は駄目だよ。御新香も駄目」
「お味噌汁は豆腐と油揚げとワカメがいいなあ。おいしいの作ってね。おかずは任せるから」
ああだこうだと注文を付ける二人に、伊助は健気に頷きます。
「じゃあ、御飯とお味噌汁と出汁巻き卵とほうれん草のお浸しと肉じゃがでいいですか?」
「うん、それでいいよ」
「おいしく作ってねー」
「はい」
伊助は健気に返事をし、台所に向かいます。
元より家事全般が好きで、よく気が利く性格の伊助は普段から進んで炊事や洗濯を引き受けていました。
だから料理はお手の物。卵焼きもくるりんと上手に丸められるし、御飯のおいしい炊き方も熟知しています。
今日もあっという間においしい夕飯が出来上がりました。何も手伝わない二人の姉はいそいそとテーブルに着きました。早速、夕飯を食べ始めます。
伊助は二人分の湯飲みにお茶を入れます。と、ドアの方からピンポーンというインターホンの音が響きました。
「私、出ますね」
伊助は軽い足取りでドアの方へ向かいます。ガチャリとドアを開けると、そこには絹をふんだんに使った高価そうな服に身を包んだ恰幅の良い男性がいました。
ふっくらとした頬ににこにことした笑みが浮かんでいます。
「こんばんは。お城からやってきた使者の者です。一週間後の舞踏会の招待状をお渡しに参りました」
すっと一通の封筒が差し出されます。伊助は反射的にそれを受け取りました。お城とは、そこに住まう王族一家のことを示す言葉です。そのお城からの招待状なら、受け取らないわけにはいきません。
恰幅の良い使者は優雅に一礼をしました。
「では、一週間後に〜」
後ろに止めてあった牛車に乗り込み、去って行きました。
「ねえねえ、お客さん誰だったー?」
リビングの方から兵太夫の声がします。伊助は後ろ手にドアを閉め、夕飯を食べていた二人に招待状を差し出しました。
「ああ、お城の招待状か」
「もうそろそろそんな頃だと思ってたよ。王族の王子様、もうそんな年頃だもんね」
「そうなんですか?」
伊助が尋ねると、情報通の兵太夫は「うん」と頷きました。彼女は日々、色々な男性と巡り合っては弄び――もとい遊んでいるので、幅広い情報網を持っています。
とはいっても、今回の話題、王子様の年頃については国内の女の子は誰もが知り、気にかけていること。今回ばかりは知らなかった伊助の方が世間知らずと言えそうです。本人はただ興味が無いだけなのですが。
「今年でもう十五、六かな。確かにもうそろそろお嫁さんを探さなきゃいけない時期だよね」
「でもさ、普通こういうのって周りとか王族が勝手に決めて政略結婚でさっさと終わっちゃうのががセオリーなんじゃないのかな?」
これは物語なので、物語が進む都合の良い方に話は進めます。なのでセオリーとか無しです無し。
気を取り直して、時間は飛んで一週間後の舞踏会当日。
「駄目、ですか」
眉尻を下げて伊助は少ししょんぼりとしました。気分は落ち込みますが、櫛を持つ手は無意識に動いて三治郎の髪を梳きます。
「うん。駄目」
大きな姿見でドレスを着込んだ自分の姿をチェックしながら、兵太夫は意地悪に言います。
「舞踏会に行くなんて許さないよ。伊助は王子様とか貴族より、もっと堅実で誠実な庶民の男と結婚した方が絶対にいい」
「兵ちゃん、それ伊助を苛めているの? それとも過去の経験から諌めているの?」
「両方だよ三治郎。――あのね伊助。舞踏会はね? 女を貪ることしか眼中に無い男の集まりなんだよ」
「タカることを目的とした女が集まる場とも言えるよね」
「せめて貢がせてるって言いなよ。――んでさ? そんな世間知らずな男達は伊助には釣り合わない。家事全般がパーフェクトにできる伊助にはさ、そんな奥さんの支えを必要とする、庶民でもガッツがあって頑張って働く汗だくの男がぴったりだと思うわけ」
「は、はあ……」
力説をされても、今まで男の人と付き合ったことのない伊助にはよくわかりません。
しかし元より「舞踏会に行きたい」と言い出した理由は、王子様に会いたいわけではなく、単にお城の内部を直接見てみたいからというちょっと身も蓋もない理由でした。
ですからすぐに舞踏会への興味も失せ、伊助は特に反論することなく兵太夫の意見を受け入れることにしました。
「わかりました。今日はここでお留守番をします」
「玄関の鍵はちゃんとかけるんだよ。誰か来ても居留守を使うこと。いいね?」
「え? あ、はい、わかりました……」
伊助は慣れた手つきで三治郎の髪に髪飾りを付けました。
兵太夫が三治郎の手を取り、二人は待たせておいた馬車に乗ってお城へと向かいました。
一人残された伊助は行ってらっしゃーいと振っていた手を下げ、小さく溜息をします。
「……いいなあ、兵太夫姉様と三治郎姉様は……」
――可愛くて、綺麗で。立ち振る舞いは優雅で、気品があって。自信があって。女の子らしくて、魅力的で。私は二人とは違って、ドレスや髪飾りといった派手な服装は似合わない地味な顔立ち。
兵太夫に「舞踏会はやめておけ」と言われた際も、だから伊助はすんなりと納得してしまったのでした。
確かに、最初からお城への興味はそれほどあるわけではありませんでした。でも、やっぱり女の子だから、舞踏会という響きには憧れを抱いていたのです。
だから行きたいと思い、言いました。けれども長姉からの許可は下りませんでした。
「……はぁ」
両手を擦り合わせて丸めます。片方の手で、もう片方の手の指や掌に触れます。
手は、日々の洗濯物や繕い物でかさつき、荒れていました。
「……舞踏会、か」
家事は好きでやっていることです。だから嫌だと思ったことはありません。
でも、もうちょっと可愛く産まれていたらなあ、と思うことは時々あります。
そしたらあの二人みたいに自信を持って振る舞うことができただろう、と伊助は何度も思ってきました。
――男の人と出会って、ときめいたり、お付き合いをしたり。そんな『普通の恋』をする機会にも恵まれていたのに。
きっと。
「……っ、妬んでも仕方ないって……」
無いものをねだりをしても仕方ありません。今夜はもう不貞寝しよう、と家に戻りました。
その時、台所の方からごそごそという物音が聞こえてきました。
「んーと、ピーマンは形があれだし、人参じゃ車になっちゃうし、玉葱は臭いしなぁ。他には……あ、カボチャ見っけ! これにしよう!」
バタンと冷凍庫の戸を閉める音が響きました。
伊助は呆然と、台所の隅でうずくまって何やらぶつぶつと言っている、黒いローブを着た栗色の髪の少女を見つめました。
泥棒にしては盗む物がおかしいです。着ている物も、忍び込む家もです。ここは一般家庭ですから大した財産はありませんし、そもそもどうして泥棒がローブを着て顔も隠さずに家に上がり込んでいるのでしょうか。
取り敢えず警察に連絡しようか、と思っていると、視線の先で少女がくるっと振り向きました。
「お姉さん達の見送り、終わった?」
「え?」
「毎日お姉さんの御飯を作って、服を洗って、干して乾かして取り込んで、部屋を掃除して、買い出しに出て、我儘を聞いて。その繰り返し。――君にも願いを叶えてもらう権利はあるはずだよ」
ローブの少女はにこりと微笑みました。
「僕はね、頑張ってる人の前に現れる魔法使い。いつも頑張ってる人が肩の力を抜けるように、ほんのささやかな望みを叶えに来るんだ」
えへ、と微笑まれても伊助はきょとんとするしかありません。取り敢えず野菜を返して、あと片付けて、と言おうとすると、ローブの少女はカボチャを抱え込んで勝手口から外に出ました。
「君の願いはなぁに?」
「え? え、ええと……」
「ううん、言わなくてもいいよ。僕にはわかるから。――じゃあ行こうか」
少女がカボチャを道の上に置きます。ローブの内側から取り出したステッキを振って呪文をぺらぺーらと唱えると、不思議なことにカボチャがどんどん大きくなりました。
ある程度の大きさまで膨れると、ポンと軽い音を立てて別の姿に変わります。それは先程と同じ巨大なカボチャながらも、キラキラと輝く素敵な馬車なのでした。
あまり豪奢な物を好まない伊助でも「凄い」と呟くくらいの素敵な光景です。ローブの少女は誇らしげに胸を張りました。
「さ、次はドレスだよ。――なめなめなめくーじ。それっ」
「わっ」
ポフンと白い煙に包まれます。何だ何だと伊助が思っていると、何故か一瞬のうちに服が変わっていました。
洗濯を繰り返して擦り切れた黒いワンピースは白くて清楚なドレスに。長年愛用していた白いエプロンは無くなり、代わりに頭には小さなティアラが載せられていました。
ドレスは腰元をリボンできゅっと絞り、裾を大きな花弁のように開かせた愛らしいデザインです。毎日の水仕事で荒れた手は肘までの長さの手袋で覆われていました。
ティアラと手袋はありますがネックレスはありません。それは何故かというと、
「あ、あの、魔法使いさん。ここ、その、涼しすぎるんだけど」
胸元が大きく開いていて、常は服で隠されている柔らかな膨らみが露わになっているからなのでした。白いお肌と悩ましい谷間が外気に晒され、伊助は少しではありますが本当に肌寒さを感じていました。
露出を好まない少女はデザイン変更を訴えます。しかし魔法使いの少女は「そっちがいいの!」と断固主張して譲りません。仕方ないので伊助が折れて妥協しました。
「あ、そうだ、忘れてた。僕、魔法使いの喜三太。宜しくね?」
「ああ、はい、こちらこそ……」
ドレスのデザインが変更できなかった少女はやや落ち込みつつ返事をします。喜三太は構わずステッキを振り、
「馬と御者さん、しょーかーん! ていっ!」
ドロン、と煙が上がります。
ひひーん、と馬の鳴き声がしました。
煙が消えた後、カボチャの馬車を引き摺るための馬が二頭現れていました。手綱は馬とカボチャの間に設えられた御者台にいる若い青年が握っています。
「俺、御者の団蔵。喜三太の友達なんだ。宜しくな!」
と、親指をグッと立てられます。はあ、と伊助は曖昧な返事をしました。
野菜の大きさを変えられることといい、人間を召喚できるといい、魔法って何て便利でアバウトな単語にして技術なのでしょうか。
そんなことを考えていると、喜三太に「早く早く」と腕を引っ張られ、急かされるようにして馬車に乗り込みました。
「出発進行!」
団蔵の声がします。ひひーん、と馬が鳴き、馬車が動き出しました。
進行方向に座っている伊助の斜め前に、向い合せるようにして喜三太が腰掛けます。
「伊助の願いはさ、生涯にただ一人の人と出会うことだよね」
「え? ……うん、まあ……」
伊助は普段から「家庭的」「結婚したら良い妻になれる」と周りから言われてきました。しかし、家庭を作るために、また結婚するために必要な肝心の相手とは、まだ出会ったことがありません。異性とお付き合いしたことすらありません。
だから、生涯にただ一度だけでもいい、この人になら生涯を捧げられると思うような人と出会って恋をしてみたい。伊助はそう考えていたのでした。
「伊助は普段から頑張っているからね。魔法使いが御膳立てをしてあげる」
パチリと喜三太がウィンクをします。その時、馬車がガタンと揺れて止まりました。
「え? 何?」
喜三太が立ち上がります。
「団蔵! ねえ、どうしたの!?」
「ド……」
「ド? ……レミファソラシド?」
「違う! ――ドクタケの連中だ!」
「ええっ!?」
喜三太が慌ててドアを開けます。瞬間、彼女の喉元に鋭い武器が突きつけられました。
「はい、動かないでね。お姉様方、さっさと出た出た」
喜三太が無理矢理に腕を引っ張られて馬車を降ろされます。乱暴に促され、伊助も馬車を降りました。
伊助はやや困惑しながらも周りを見回しました。すると周りに赤い制服を着てサングラスをかけた大勢の大人や、少人数の子供がいました。中には女の子もいます。
子供二人が喜三太の腕を後ろで捕らえ、喉元に武器を突きつけていました。団蔵は地面の上に突っ伏していてぴくりとも動きません。その傍らには大人がいました。
「団蔵……君?」
伊助がそろりと呼びかけますが、団蔵は反応しません。
頭かどこか叩かれたのかな、だったら早く冷やさないと、と伊助は冷静に考えました。その時、ふっと足元に影が差しました。
顔を上げると、そこに伊助と同い年頃の少年がいました。
「手荒なことをして御免ね。お姉さん、金目の物は持ってる?」
「持っていません」
「じゃあこの馬車は何なんだよ。物凄く豪華じゃないか」
「魔法使いさんが魔法で出してくれたんです」
「へえー……って信じるか!」
ダンダンと少年が足踏みをします。
やがて落ち着いたのか、少年が一つ大きな溜息をしました。
「仕方ないな。だったら作戦変更だ」
「帰ってくれるの?」
「いや。――お姉さん達を人質に取るのさ」
まさか、と伊助の背筋に寒気が走りました。
「この近くにはお城がある。そこに乗り込んで、お姉さん達と引き換えに金目の物を要求するのさ」
「それは駄目っ」
お城では舞踏会を楽しんでいる王子や娘達がいます。一夜の夢、楽しみを壊されるわけにはいきません。
どうにかしなきゃ、と伊助はキッと少年を睨みました。すると少年が肩を竦め、
「俺達もこんなセコい作戦はしたくないわけ。だけど魔界之先生が通販をミスして高い物を買ってきちゃってさ、しかもそれクーリングオフ効かなくてこっちも大変なんだよ」
「どこかの店に売ってはどうでしょう」
「それが買った物が実はでっかい爆弾なんだよね。素人に売ったら危ないし、他の城に売ったら戦力増強になっちゃうわけじゃん? でもうちに置くにはでかすぎてスペースが無くてさ。困った困った……」
その後も少年はつれづれと愚痴を語りました。
この人ストレス溜まっているなぁ、と伊助は半ば呆れて半ば同情しました。その時です。
ドクタケの大人達が群れるようにわんさかといる道の奥から、何か音と声が聞こえてきました。声は男の子二人分で、一つは無骨で低く、もう一つは透き通るような性質の低い声です。
向こう側の群れから悲鳴のようなものが聞こえてきました。どっさどっさと人が倒れて行きます。
「何だ!?」
「た、大変だー! あれってこの国の上級警備隊のコートだ!」
「何!? 撤退だ撤退ー!」
どんちゃんどんちゃんと騒ぎが広まっていきます。
はにゃー、と喜三太は呆然としました。彼女の腕を拘束していた忍者が慌てて逃げて行きます。
ドクタケの忍者隊は大人も子供も逃げて行き、やがて周りにはあっという間に人気が無くなりました。遠くから逃げる足音がドタバタと響いてくるだけで、あとはとても静かです。
あ、自由になった、と遅れて気づき、喜三太は慌てて馬車に戻りました。先に辿り着いていた伊助が団蔵の身体を仰向けにさせて具合を診ていました。
「ど、どんな感じ? 団蔵、大丈夫そう?」
「ええ。……後ろから頭を殴られただけね。……大丈夫?」
「うーん……」
団蔵の目がパチリと開きました。ズレていた焦点がゆっくりと定まっていきます。
「喜三太……あっ、そうだドクタケは!?」
団蔵はきょろきょろと辺りを見回します。
「逃げて行ったよ。それがね、何かよく分からないけどお城の上級警備隊の人が来てくれたらしいの。お礼を言わなきゃ」
「上級警備隊の人?」
「うん、ドクタケの人達が言ってた。……どうしたの、伊助?」
「だって今日……舞踏会よ? 警備隊の人ならお城に張ってなきゃいけないんじゃない?」
団蔵と喜三太は顔を見合わせました。
「確かに」
「そうだけど……どういうこと?」
わけがわからん、と団蔵は首を捻りました。
三人の後ろから土を踏み締める足音がします。
「城で張るのは侍従長や特級警備隊。俺達、上級警備隊はお城の周りを見回る役割なのさ」
「よりによって今日やってくるなんて……」
棚引く夜風で、二人の羽織っているコートの裾が翻ります。
左腕に着けた腕章のマークはこの国における上級警備隊の地位を、胸元に着けた徽章は上流貴族の身分を表していました。
二人がパサリとフードを取ります。
「上級警備隊、所属番号はの九、佐武虎若。宜しく」
太い眉毛に強い眼差しの目、愛嬌の良さそうな顔立ちがにこりと柔らかく微笑み、
「同じく上級警備隊、所属番号はの七、皆本金吾」
対照的に、細い眉と端正な鼻筋が特徴的な美男子が無表情で名乗りました。
はにゃー、と喜三太は上級警備隊の二人を見て唸ります。
「凄いですねー……」
ふにゃー、と二人を見つめます。と、不意に喜三太の目が輝き、
「い、伊助伊助伊助!」
「な、ななななな何?」
喜三太に慌てて腕を引っ張られ、伊助は虎若の前に立たされました。ちなみにようやく上半身を起こせた団蔵は金吾に診てもらっています。
「この人! この人だよ!」
喜三太が高揚した調子で叫びます。
「だ、だから何が?」
「あのねあのね――、あ! 御免、やっぱり言えない……」
何故か喜三太が一気にしょんぼりと落ち込みます。普段クールな伊助はアップダウンの激しい彼女のテンションを読み取れず、疑問符を浮かべるしかありません。
取り敢えず、どうしたの、と尋ねようとした――その時でした。
「麗しい、美しいお姫様」
大柄な体格の青年、虎若が膝を折って跪きました。慌てる伊助の手を恭しい仕草でそっと取り、
「良ければこの俺と、舞踏会である今宵のこの時を共に過ごしませんか」
「え? あ、貴方が、ですか? ……私と?」
伊助は虎若の左腕の腕章と、胸元の徽章を見て困惑します。
しかし立ち上がった虎若の熱い視線と、ぐっと握ってくる手の力の強さ、そして、
「俺は貴女がいい」
という口説き文句に、まるで魔法にでもかかったように首を縦に振ってしまいました。
伊助の返事に安堵したように虎若は微笑み、
「俺は運が良い。今宵の舞踏会、王子は妃の選定を行い、他の男は自身の恋仲と過ごしたり、新たなる相手を探したりする、まさに甘く苦い恋の時間。そんな夜に、共に過ごせる相手と巡り合えるとは」
「い、いえ、私なんて、その、ええと、庶民でして」
今宵の舞踏会には国中の若い男女へと招待状が配られました。身分は問わず、誰にでもです。
ですから、普段は澄ました顔で気取っている貴族もいるんだろうなあとは思っていましたが、まさかこんな形で会うとは思いませんでした。
しかも相手は上流貴族という身分の上に、上級警備隊という地位まで兼ね備えています。まさに玉の輿と言えるでしょう。
伊助は姉の兵太夫や三治郎のように玉の輿を望んだりはしていません。それでも目の前にいるのが貴族と思うと緊張しました。
すると虎若が伊助の目をまっすぐに見据えて、
「今、この恋の時間に、身分や貴賤など関係ない」
真剣な声で言います。
何でこの人こんなに口説くの慣れているんだろう、と伊助は思いました。
いつも通りのクールすぎるくらいにクールな発想です。でも実は心の中は全く冷静ではありません。
いつものように冷静であろうとしますが、虎若の熱い視線に射抜かれると何故か心臓の鼓動が高鳴るのです。頭の中が熱くなってまともに思考ができません。
「月下、俺のためだけにいてくれる俺の姫君。……良ければ名前を」
「私は――」
伊助は口を開きました。考えるより先に喉から言葉が出たので、伊助自身が驚きました。
虎若の熱い視線に促されるように、まるで魔法をかけられたように、あるいは心を熱く燃やされたように唇が言葉を紡いでいきます。
「私の名前は――」
顔に血が上って真っ赤だという自覚があります。いつもならそれをみっともないと思うのに、その時だけはそういうことを考える余裕がありませんでした。
つまり伊助は虎若のことしか見えていませんでした。
ですから伊助は、喜三太が「はにゃ〜ん」と言いつつ金吾の元へ歩み寄ったこと、金吾のつたないながらも誠実な口説き文句に喜三太がメロメロになっていたことに全く気づけませんでした。
そして喜三太も失念していました。魔法とは、少し気を抜けば解かれてしまう、とても繊細で扱いの難しい技術だということも。
ポフン、と軽い音が聞こえました。同時に立ち上る白い煙。伊助が幾度か耳にしたことのある魔法の音でした。
目の前にいる虎若が驚いた顔をしています。
伊助は胸元の涼しさが無くなったこと、手や腕が外気を浴びていることに気づきました。視線で腕から指へと辿ると、水仕事を繰り返して荒れた手が見えました。
胸元や腰元を見ます。伊助が纏っているのは、ドレスではなく、元通りの黒いワンピースと白いエプロンでした。
魔法が解けてしまったのです。
「……あ……」
顔からさあっと血の気が引きました。
今までの浮かれていた気分が一気に吹き飛びます。
あまりに唐突に解けた魔法は、恋でとろけていた伊助の心を残酷なまでに冷ましました。
これが現実だと見せつけられ、伊助は胸元を見た際に俯かせていた顔を上げることができませんでした。
どうしよう、と伊助は思い悩みます。
魔法が解けてしまいました、と軽く言えばいいのでしょうか。それとも、これが庶民の姿です、と開き直ればいいのでしょうか。
いつもの自分ならできることができません。心は冷めているのに、いつものクールな自分が戻ってきてくれません。
いっそのこと逃げようか、と考えた時でした。
「姫」
虎若の声がしました。優しい、温かい――いえ、甘い声でした。
「かけられていた魔法が解けたのか。……何か後遺症は?」
「え? い、いえ」
「僕の魔法に後遺症なんか――もがっ」
慌てて金吾は喜三太の口を掌で塞ぎました。ついでともう片方の手で団蔵の襟首を掴み、引き摺り去って行きます。
「それは良かった。魔法とは、恐ろしく繊細で難しい技術だから。貴女に何かあったら、俺はどうすればいいか……」
虎若は握っていたままだった伊助の手を持ち上げます。
白く細い手の掌の部分を自身の頬に当て、そっと唇を寄せて、掌の真ん中にキスをしました。
伊助の顔が一気にカアッと熱くなりました。思わず顔を上げて虎若の顔を見ます。
彼は、笑っていました。
「クールな振る舞いより、そちらの方がずっと可愛らしい」
「なっ……!? ――てか、え、ええと私、帰ります。帰りますからっ」
「それは、何故?」
「な、何故って……」
本当にきょとんとした顔で首を傾ける虎若に、伊助はしどろもどろに喋ります。自分でも何を言っているんだろう、と思いつつ、
「だ、だって、魔法は解けたんですよ? 私、もうさっきまでの綺麗なドレス姿じゃないんですよ? 貴方が今握ってる手だって……ほら、あかぎれに、ひびもあるし、ささくれも……」
穏やかな表情で伊助の言葉を一つ一つ聞いていた虎若は、「あと、その」とか「ええと」とか口籠もっている伊助を優しい笑みで見つめます。
伊助のもう片方の手も取り、彼女の両手を自分の両手で包み込みます。温もりを与えるように、熱を渡すように。
「俺は貴女がいい」
もう一度告げられた言葉に、伊助は心臓が止まったような錯覚を覚えました。
「先程のドレスは確かに綺麗だった。しかし、綺麗なのはドレスではなく、それを着て俺の目をまっすぐに見つめてくれている貴女。……貴女は服が替わっても、俺の目を見つめてくれている」
それは、と伊助は思います。それは私の瞳が、貴方を映した途端、他のものはいらないと言うように全く動いてくれないから――。
「手も、こうなったのは貴女が何かを頑張っている証なのだろう。俺は貴女の努力を嘲笑ったり、醜いと罵ったりはしない。ただ……ひどく冷えているな。俺の熱は伝わっているか?」
虎若が一歩、歩み寄ります。二人の間にあった距離が無くなり、胸元が触れ合いました。
至近距離で伊助の心臓はトクトクと呼吸が追いつかないくらいの速さで鳴り響きます。けれど、どうしてでしょう、触れた箇所から感じる虎若の鼓動もまたとても速いのです。
「……はい。とても、温かいです」
虎若の手に包まれている伊助の手は、伝わってきた熱でじんわりと温かくなっていました。
調理する際に感じる熱やストーブの熱気とも違う人肌の温もりに、伊助は涙を一つこぼしました。
最近、水仕事ばかりで、温かさというものをすっかり忘れ去っていました。
「俺だけの姫君。改めて続きを。……お名前は?」
虎若の顔が近づきます。目を伏せて行きます。
伊助はその近づいていく距離を受け止めます。彼より先に目を閉じて、
「伊助といいます」
唇を重ねました。
一拍の間を置いて、ちゅ、と表面を吸って虎若は唇を離します。
でも距離は開けません。額をそっと重ね合わせて、
「伊助」
「はい」
「俺のことも呼んで欲しい。……敬称はいらない。敬語も無しだ」
「うん。――虎若」
「もっと」
「虎若。虎若――虎若……虎、若……虎、虎……っ!」
胸の内から熱い何かが湧き上がります。堪え切れず、伊助はその衝動のままに虎若に抱き着きました。
脇の下を通して彼の背中に腕を回すと、虎若は伊助の身体全体を覆うように抱き締めました。
抱き寄せ、視線が絡むと、躊躇うことなく唇を重ねました。
遠くから鐘の音が響きます。お城が抱く大聖堂のベルの時計が、23時を示しました。
23時のシンデレラ
一方のお城では。
「おっかしいなー……」
「どうしたんだい、きり丸?」
「あ、庄左ヱ門王子。実は招待しているはずの女の子の数が一人足りないんですよ。招待状には義務だってちゃんと書いておいたってのに……」
「まあ、いいさ。きっとお城以外の場所で舞踏会を楽しんでいるだろうしね。義務付けた内容も正確には『お城に来い』じゃなく『舞踏会に来い』だし。だから何ら問題ないよ」
「は?」
「舞踏会はお城で行うものだけにあらず。舞踏会とは、愛を育み恋を見つける、甘く苦い恋の時間。言うなれば、今宵のこの国全体で行われている――合コンだね」
「舞踏会っていうロマンチックな場を合コンなんて現代風の単語で例えないで下さい王子」
「あ、御免御免。でもまあ、みんなこの合コン、じゃなかった舞踏会を楽しんでくれていればいいね」
ふふ、と王子は優雅に微笑みます。
「あと、さっき特級警備隊の土井さんと山田さんから、上級警備隊二人がサボってるところを見つけたらしい。今日は舞踏会だから無粋な説教はやめといてって言ってたけど、明日からどんな処分を下そうか楽しみだね?」
[前] | [次]
戻る