明日は休日。
というより、予定が何も無い日だ。
自宅の自室でベッドに腹ばいで寝そべりながら、ゴールドはポケギアを操作した。
クリスの番号を表示させ、発信。
一コール。二コール。
三コール目で相手は出てくれた。
明日の予定を尋ねる。明日は特に予定が入っていないらしい。
オーキド博士は出張するので研究の手伝いは無し。珍しいポケモンの情報も無し。
ジョバンニ先生の塾に行くか、家でゆっくり過ごすか、どうしようか迷っていると言うクリスに、ゴールドは提案した。
「ピクニック行こうぜ。ワカバタウンの町外れの丘の上」
野生ポケモンが多く生息している森の奥にあるため、人気が少ない場所だ。
クリスはその提案に了承し、御弁当も作ってくると言ってきてくれた。
翌日。
「お待たせ」
「おう」
二人は空を飛ぶ≠ナ移動をし、町外れの丘の上で待ち合わせをした。
ゴールドは用意してきたレジャーシートを広げた。
靴を脱いで、二人で座る。
モンスターボールを開けると、ポケモン達はそれぞれ草の上で丸まったり走ったりと、思い思いに行動し始めた。
クリスは大きめのバスケットを持ってきていた。
「色々と作ってきたのよ」
「さんきゅ。――ん?」
不意に、ゴールドの鼻先に、嗅ぎ慣れない臭いが引っかかった。
バスケットから――ではない。
クリスからだ。
「……何か匂う」
ふんふんふん、と匂いを嗅ぐ。
ゴールドは隣に座るクリスと更に距離を詰め、クリスの襟首に鼻先を近づけた。
至近距離にゴールドの気配と体温と息遣いを感じ、クリスは頬を紅潮させた。
しかし、「何か匂う」というゴールドの発言に、甘く上ずった気持ちは冷水をかけられたように一気に静まり返った。
気まずい思いが込み上げてくる。
「匂うって、何が? 汗?」
「……いや」
くんくんくん、と匂いを嗅ぐ。
鼻を動かし、首を捻り、頭の中からごちゃごちゃと記憶を引っ張り出して――。
ゴールドはようやく匂いの正体に気づいた。
「分かった」
「やっぱり汗?」
「違ェよ。香水と煙草だ」
「え? でも、香水なんて付けていないのに――」
あ、とクリスは零した。
「あの時にぶつかったからかしら……」
「ぶつかった?」
「ここに来る前、家の近くで女の人にぶつかったの。あの時、香水の匂いを感じたから、多分それだと思うわ」
「煙草は?」
「それもその女の人。煙草を吸いながら歩いていたから……」
クリスは自分の襟首の辺りに鼻先を寄せ、くん、と鼻を動かした。
くんくん、と匂いを嗅ぎ、小首を傾げる。
「……匂い、するかしら?」
「その辺じゃなくてこの辺」
ゴールドはクリスの鎖骨の辺りに指先を当てた。
クリスはその辺りの匂いを嗅ぎ、眉尻を下げた。
「……本当だわ。うっすらとだけど、匂いが付いている……」
「まあでも気にすんなよ。普通にしてりゃ分かんねえし」
クリスは項垂れた。
ゴールドの言う通り、クリスの襟首の辺りに付いてしまった匂いは、確かに薄く微かなものだ。
余程の至近距離にでも近づかれない限りは気づかれないだろう。
しかし、
――ゴールドに言われてから気づくなんて……。
相手に指摘される前に自分で気づきたかった。
溜息を零そうとして、ふと疑問に思う。
「――でもゴールド、こんな薄い匂い、良く分かったわね。私自身でさえ気づかなかったのに」
「まあ、な」
ゴールド自身も驚いていた。
当人であるクリスが気づけなかった匂いに気づけた自分自身に。
「……ゴールド?」
クリスはきょとんとした。
ゴールドが再度、クリスの襟首に鼻先を寄せてきた。
ふんふんふん。
くんくんくん。
「やっぱり臭い? 一度家に帰ってシャワーを浴びた方がいいかしら……」
頭上からクリスの声がする。
ゴールドはひたすら嗅覚を働かせた。
香水と煙草を掻き分ける。
その奥の奥。
そこから、何とも言えない、甘い匂いがする。
クリスの肌から滲み出る匂いだ。
桃でもオレンジでもレモンでもない――果物の匂いでも人工の香水でもない。
前にテレビか何かで観た事がある。
女性の肌から滲み出る、甘く芳しい、不思議な匂い。
これがフェロモンというやつなのだろうか。
クリスのフェロモン。
――いい匂いだ。
肌を噛んだら、もっと甘い匂いが湧き出るだろうか。
理性を侵食する衝動のままに歯を立てようとする。
と、
「ゴールド?」
クリスの声がした。
ゴールドはハッとした。理性がひょっこりと戻ってくる。
「どうしたの?」
「ん、いや、何でもねえよ」
ゴールドは曖昧に笑った。
前のめりになっていた姿勢を直し、クリスの襟首から離れる。
クリスの匂いが好きだ。
だから、他人の匂いが被さっている事が気に入らない。
――苦ぇ……。
舌の上に煙草の苦みが広がる。
煙草の匂いはしつこいから嫌だ。
でも、今はすぐ近くにクリスがいる。
クリスの姿を見るだけで、舌の上に甘い汁が広がったような気がした。