朝。
洗面台で洗顔をして、寝癖を整える。
いつものように身繕いをしていると、足下を誰かがトントンと叩いた。
この控えめな叩き方はキレイハナだ。
下を見ると、予想通り、いたのはキレイハナだった。
「どうしたの?」
キレイハナは自分の両手で頬を押さえた。
花が咲くように表情が綻ぶ。
笑っているのだ。上機嫌に。
しかし、理由が分からない。
キレイハナが喜ぶような、何か特別な事があっただろうか。
「んー……?」
考えるが、分からない。
キレイハナの仕草をじっと見つめる。
キレイハナは両頬に掌を当てていた。
虫歯を訴えている……わけではないのだろう。
多分。笑っているし。
――駄目。分からない。
できるなら自分の力で読み取りたかったが、これ以上は分からない。
かといって単なる雑談だと判断して放っておくわけにもいかない。
ユリは、近くでピチューとお喋りをしていたリオルを呼び寄せた。
『なあにー?』
キレイハナはやってきたリオルに、自分の言いたい事を伝えた。
くるりくるりと、上機嫌そうに回り始める。
リオルはユリに、キレイハナからの伝言を、そのまま伝えた。
『ユリちゃん、何だか可愛くなったね、ってさ』
「……え?」
予想外の答えに、ユリは唖然とした。
てっきり、口元に何か付いているとか、そういう事かなと予測していた。
キレイハナはにこにこと微笑みながら、ユリの足の周りをくるくると回る。
「私が?」
キレイハナが緩やかに止まり、こくりと頷く。
ユリは指先で自分の頬に触れた。
「……そうかな?」
首を捻る。
この数ヶ月で、自身の容姿が変わったと感じた事は一度も無い。
精々が「ああ、髪が伸びたかな」程度だ。
鏡の中の自分を見る。
自分だ。ユリという名前の自分。
大して何も変わっていない。
強いて言うなら、確かに身嗜みには前より気を遣うようになったが。
「――あ、時間」
あまりぼやぼやとしていられない。
時間に余裕はあるが、のんびりしていられるわけでもない。
ユリはリオルとキレイハナに声をかけた。
「行こう、御仕事に」
ユリのサポートをしてくれている二匹は「はーい」と言うように腕を上げた。
薬を作る部屋に入って、いつもの作業を黙々と進める。
材料を捏ねたり磨り潰したり、濾したり練ったり、固めたり冷やしたり。
一連の作業を終えてから、ユリはふと思い出した。
――夕飯の用意……。
ポケモン用のフーズはまだある。
人間の食事の方だ。
確か冷蔵庫の中は空に近い。
壁時計を見た。
午後三時。
近所のスーパーは午後四時頃から混み始める。
あまり時間はかけていられない。
まだ混んでいない今の内に行った方がいい。
ユリは作業用のエプロンを脱いだ。
「スーパーに行ってくる。いつもの所ね。急用があったら呼んで」
乳鉢で材料を磨り潰しているルカリオが頷き、リオルが手を振る。
ユリは財布を入れたトートバッグを肩に提げて、外に出た。
近くのスーパーで買い物を済ませる。
――今日は肉じゃがで、明日はポトフで、明後日はシチュー……。
残り物の使い回しが利くレシピを考える。
「あ。ユリちゃん」
「え? あ、こんにちは」
顔見知りのトレーナーに声をかけられた。
診療所の常連さんだ。
いつものように、両腕にブルーを抱えている。
「ブルーの具合はどう?」
「今のところは大丈夫。ね、ブルー?」
このブルーは、季節の変わり目に良く体調を崩す。
そのため今までに何度も診療所を訪れている。
トレーナー自身とも年齢が近いため、仲は良かった。
「ユリちゃん、恋人でもできた?」
「えっ? な、何で?」
ユリはいきなり事実を突かれてぎょっとした。
トレーナーの少女は小首を傾げ、
「だって何だか表情に艶が出ているよ」
「そ、そうかな……?」
「うん」
ふふ、と笑って、トレーナーは去って行った。
ブルーが手を振ってくるので、手を振り返す。
ユリは片手で、自分の頬を触った。
むにゅりとした感触が返ってくる。
自分の肌。自分の頬だ。
特に何も変わった事は無い。
ただの顔だ。
そのはず、なのだけれども――。
「……えええええええっ?」
ユリは赤くなった頬を抑えた。
一週間後。
そういう会話を交わしたという事も忘れた頃。
「ユリちゃん、何だか綺麗になったね」
「えっ?」
月明かりと外灯だけの夜道。
二人でゆっくりと歩いていると、不意にワタルが言ってきた。
確かにリップは塗った。
髪もきちんと纏めた。
――でも、それだけのはずだけど……。
メイクは普段はあまりしないから、慣れていない。
慣れていないものをいきなり頑張っても、変な結果になる。
そう思ったから、メイクはしていない。
他に何かした覚えも無い。
それなのに、どうしてキレイハナも、あのトレーナーの人も、ワタルも、同じような事を言うのだろうか。
「私、別に、何もしていないんですけど……」
ユリは俯いた。
零れた髪の隙間から見える頬が紅潮していて、艶を帯びたように見える事に、ユリ本人は気づいていない。
その事に気づいたワタルは、小さく笑みを漏らした。