フスベには立ち寄れるようになった。
 が、良く考えてみると、肝心のワタルはチャンピオンという忙しい身だ。
 フスベに実家はあるのだろうが、普段の寝泊まりを行う家は別の場所にある可能性が高い。
 そこが分からなければ意味は無いのではないだろうか。

 ――どうしようかな。

 いっそ恋文でも書いて出すか。
 ポケモンリーグ本部に郵送すれば確実に届けてもらえるだろう。
 あるいは、キュウやイブキに訊けば連絡先は教えてもらえるだろう。
 しかし、あの二人には「罪を祓いたいから」という事情は説明はしたが、ワタルに好意を抱いているという事は伝えていない。
 どうしようか。
 うーん、と迷い悩むユリの顔に、いきなり水がぶっかけられた。

「わ、わあああっ!?」

 悩み考えていた最中に顔面に冷たい水をぶっかけられ、中庭の縁側に腰掛けていたユリは思わず飛び上がって悲鳴を上げた。
 気を利かせてタオルを持ってきたキレイハナがユリの反応に目を瞬かせる。
 ユリに水がかかった原因である、池ではしゃぎ回っていたスターミーやマリルリもぴたりと動きを止めていた。
 旅をしている最中は頻繁に怪我を負い、生傷には慣れっこで、こうした軽い悪戯をするとじゃれてきてくれるユリが、間抜けな悲鳴を上げて飛び上がった。
 マリルリやマリルは意外そうに目を見開くが、スターミーはすぐに気を取り直して、今度は自分から水鉄砲を吐き出した。

「わひゃっ」

 池の水より冷たい水をかけられる。鼻に水が逆流して痛い。
 ユリは慌ててキレイハナの差し出すタオルで顔を拭いた。

「スターミー、晩御飯抜きに、――えっ?」

 スターミーを叱ろうとしたユリは思わずぽかんとした。
 スターミーの背後。
 そこに、診療所にはいないはずのミニリュウがいた。
 目が合う。
 ミニリュウはにゅるりと身をもたげて背を向けると、にょろりと身体をくねらせて去って行った。

「ちょ、ちょっと待って! スターミー、そのミニリュウ止めて!!」

 スターミーの中央のコアがチカチカと点滅する。
 スターミーはミニリュウの去った方向に身体を向けたが、すぐにユリに向き直った。

「スターミー?」
  

 ユリはキレイハナに「有り難う」と言ってタオルを返しつつ、サンダルをつっかけて中庭に入った。
 スターミーに歩み寄る。

「何を言いたいの?」

 指先でそっとコアに触れる。
 またチカチカと点滅する。
 カントー地方からの長い付き合いだ。
 何となくではあるが、言いたい事は分かった。

「あのミニリュウは、引き留める必要は無いって?」

 また点滅する。
 普通より間隔を空けた、ゆっくりとした点滅だ。
 うん、と頷いているように見える。

「……分かったよ」

 ユリは頷いた。
 少し釈然としないが、今はスターミーの意見を聞き入れて頷く事にする。
 取り敢えずは納得した直後、ふと気づいた。

「というかガーディは……?」

 番犬の役割を任せているはずのガーディの声が聞こえてこない。
 ミニリュウは一応は不法侵入者のはずなのに、とガーディの姿を探すと、ミニリュウが去った茂みの近くにいた。
 そこにいるなら何でさっき吠えなかった。
 まさか不法侵入の回数が重なったために、常連のお客さんみたいな認識になっているのだろうか。

 ――不法侵入は不法侵入なのに……。

 ガーディにちゃんと言っておかないと。
 そんな事を考えていると、不意にズボンのポケットの中でポケギアが着信音を鳴らし始めた。
 画面を見る。
 ゴールドの名前が表示されていた。

「もしもし?」
『ああ、ユリちゃん?』

 ゴールドの声じゃない。
 ユリは思わず画面を確認した。
 ゴールドの名前だ。これは間違いない。
 しかし聞こえてきた声はゴールドのものではなかった。

「……ワタルさん?」
『正解』

 笑みの声が聞こえてきた。
 ユリの首筋に熱が走った。
 耳がくすぐったい。さわさわとくすぐられているようだ。

『イブキから聞いたよ。ライジングバッジをゲットしたんだって? おめでとう』
「あ、有り難う御座います」

 嬉しいけど、何でだ。
 何でゴールドのポケギアからワタルの声が聞こえてくるんだ。

『次はポケモンリーグに挑戦するのかい?』
「ええと、まだ考えていないです」

 フスベの代表格であるイブキに勝って、ライジングバッジを得て、過去の罪と罰をどうにかするのが目的だったのだ。
 それ以降のバトル、ポケモンリーグの事は全く考えていなかった。
 しかしワタルはポケモンリーグのチャンピオン。
 そちらに話題が行くのは確かに当たり前だ。

「……あの、どうしてゴールドのポケギアから」
『ああ、本人は今リーグ本部にある俺の部屋でいかり饅頭を食べながらテレビを観ているんだけど』

 ワタルの部屋でソファにどっかりと座り込んで饅頭を食べながらテレビを観ているゴールド。

 ――あ、羨ましい。

 その饅頭を用意したのはゴールドかワタルか。
 ソファをくんかくんかするとワタルの匂いがしたりするのだろうか。
 くんかくんか。
 今は声で満足するしかない。
 いや、声だけでも充分に嬉しいのだが。

『俺がユリちゃんに連絡を取りたいと言ったら、ポケギアを貸してくれたんだ』

 通話の向こう側から薄くテレビの喧騒が聞こえてくる。ゴールドのげらげらと笑う声も聞こえてきた。
 ゴールド。同じ室内に電話をする人がいるのなら気を遣いなさい。音量を下げなさい。端的に言うなら邪魔だお前。

「そうですか。連絡してもらえて嬉しいです」
『そう言ってもらえると俺も嬉しいよ』

 嬉しい、だって。
 嬉しい、ってさ。
 ユリは何も無い中空に腕を上下に振り下ろした。座布団があったらバンバンと叩きそうな勢いだ。
 声だけでも充分に物凄い。
 確かにちょっかいを出してきた人達が守りたがるはずだ。
 声だけで充分に異性を惑わせる。
 これで何人の女を虜にしてきたのだろうか。

 ――罪作りな人だ。

 心臓の鼓動が跳ね上がる。
 血流が沸騰したように熱い。
 頬が赤いという自覚があった。

『――今度はユリちゃんもおいで』
「え? でも私、ポケモンリーグには……」
『四天王やチャンピオンの私室に入るだけなら、その人の許可があれば大丈夫だよ』
「あ、そうなんですか」

 リーグ本部には一種の神聖視をしていた。
 だから、挑戦した事も無い一トレーナーの身で、バトル外のスペースに出入りするのは無理だろうと無意識の内に考えていた。
 しかし、そうではないらしい。

『ゴールド君も結構立ち寄ってくるしね』
『ワタルさん、饅頭無くなりましたー』

 ――ワタルさんの分も残せよ!!

『ん、そうなのかい? この部屋にもうお菓子は無いんだけど』
『無いんですか!?』

 ――更に食う気かよ!

 ゴールドは相手が誰なのか分かっているのか。
 大半のトレーナーが憧れ、尊敬し、あるいは怖じ気づくチャンピオンに対してその態度はどうなのか。
 ワタルの方は特に気分を害した様子は感じられないが……。

『んじゃユリ、今から何か持ってきてー!』
「わ、私!?」

 通話越しに大気の気流が当たるくぐもった音が聞こえてくる。
 恐らくはワタルがゴールドにポケギアを渡したのだろう。
 ゴールドの声が近くなる。

『何でもいいからさ、お菓子!』
「ん……、あ、御免!」

 ユリは不意に思い出した。
 それは閃きに近しい感覚で、

「仕事があるから、御免、今日は無理」

 先程も中庭でポケモン達の様子を見たら、薬草室に籠もって薬を作る予定だったのだ。
 スケジュール的には切迫しているわけではないが、こなしておくに越した事は無い。

『そう。じゃ、また連絡するからね』

 ――何でワタルさん!? いつの間にゴールドと替わった!?

「あ、は、はいっ、すみませんっ」
『謝らないで』

 耳が蕩けそうです。
 ワタルは多分二十代だ。十代ではなく二十代。
 程良く低くて、芯が通って響きやすい声だ。
 二十代になるとみんなこうなるのだろうか。

『御仕事、頑張って』
「あ、え、有り難う御座います! ワタルさんも御元気で!」

 通話を切る。
 一息つくと、息が荒れている事に気づいた。
 心臓の鼓動が速すぎて、冷静になろうという思考が追いつかない。

 ――恋愛って予想以上に面倒臭い……!

 顔を見合わせない電話でこうなるのなら、直接対面した時はどうすればいいのか。
 両手でポケギアを持って、思わず溜息をついた。


 

 
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