くすぐるまぼろし
「暑い……」
雪野の言葉はアイスクリームのように発した先から溶け出し、目の前の扇風機に吸い込まれて適度に砕かれたあと、真夏の空気に散らばっていった。
「扇風機くらい買えよ」 「だって広井の家にあるからさ」 「なぁ、土地と資源だけ一方的に搾取されることについてどう思う?」 「おれとおまえが幸せならいいんじゃないかな」 「あぁそうだよな」
まったく、議論する気も起こらない。
日曜日の朝は静かだった。 眩しさで目を覚ましたとき、雪野はまだ眠っていた。体を起こして、眩しさの正体に目を細める。朝だ。薄暗い部屋の中で水色のカーテンだけが発光していて、それは明らかに朝の始まりを意味していた。カーテン越しからも伝わる日差しは昼間の気温を容易く想像させる。眩しい。ぼんやりしながら扇風機を体の横に持ってきた。窓は昨日の夜からずっと網戸にしているのだが、俺はこのカーテンがなびいたところをまだ一度も見ていない。そんな二人を慰めてくれるのは、青い羽根の扇風機だけだった。ひゅるるるる、と弱風が優しく髪を揺らす。涼んでいると、起き出した雪野の腕が不意に伸びてきた。その手は迷わす首振りボタンを押す。あぁおまえ、まだ寝てろよ。風がゆっくり離れていくのを、少し恨めしげに見つめた。
暑い、と雪野が言う。 そして、今に至る。
課題合宿だ、と雪野は言うけれど、机の上のノートにはキリンとクジラの絵が残っているだけだった。 いつの間に朝になったのだろう。雪野と夜更かしすると、いつも知らないうちに明日が来ている。
「広井、不思議なことが起こってる」 「あぁ、ノートには数式が一つも見当たらない」 「それは不思議じゃないよ。昨日は落書きしかしなかったじゃないか」 「そうだよな、現実って残酷だ」 「広井、風が吹いてない」
それは確かに。閉められたままのカーテンはぼんやり光るだけで、とても向こうが外と繋がっているとは思えないほどぴたりと静止していた。風が吹いてない。本来なら顔をしかめて言うはずの言葉なのに、雪野はどこか嬉しそうに笑う。 なににやにやしてんだよ。突っ込む前に勢い良く振り向かれて、俺は言葉を失う。
「この向こう、別世界だったらどうする?」
風の吹かない眩しい宇宙の中を、広井の部屋が浮かんでるんだ。 雪野はまるで、なにか大きな発明をしたみたいに嬉々と、歌うように笑った。
雪野と夜を明かすと、妙な気分になる。自分がまったく違うところに移動したみたいな気分だ。 静かな朝だ。窓は開け放っているはずなのに、カーテンの向こうからはそういえば物音が聞こえない。 雪野の言葉ばかりが、おれをくすぐっている。
「広井はアルコールに似てるよ」
じっとカーテンを凝視していると、前触れもなく雪野の言葉が飛んできた。その口元が面白そうに口元を緩んでいたので、自分が一瞬でも真剣になっていたことに気付く。
「なんだそれは」 「一緒にいたら病気になりそうだ」 「おまえな」
それはこっちの台詞だろう。 からかうなよ、というと、本気で言ってるんだ、と彼は主張した。うそつけ。
雪野は立ち上がって、ふわりと笑う。カーテンが眩しい。
「広井、開けるよ」
雪野の細い腕が、薄い膜を切り開く。カカカカ、と心地良い音を連れて、真っ白な世界が部屋を染めていく。水色のカーテンの奥から現れたのは、どこまでも柔らかい白の世界だった。流れるように光が差し込む。影色だった部屋が、ミルク色に染まっていく。 雪野の横顔が、その白い光を受けて透けそうな色になる。
眩しい世界に、おれと雪野が浮かんでいる。
ひゅるひゅると、たしなめるように扇風機が俺の方を向き、髪を揺らした。そうだ、いけない、これじゃまた雪野のペースじゃないか。なんだか呆れてしまって俺は苦笑いをもらした。
青い羽根は回りながら、甲斐甲斐しく俺の髪と雪野の髪を、交互になびかせていた。 そうだ、ここはちょっと残酷な現実なのだ。
雪野と一緒にいると、大切なことを忘れてしまいそうになる。
今日こそ課題をやらなきゃ、そんな言葉は一瞬頭を掠めて、再び夏の空に溶けていった。
【888hit記念作品/男の子二人】 written by ゆとさま
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ようせいのゆとさまよりいただいちゃいました。 888だよ、わーいなんてメッセージを送りつけたら、リクエストがありましたら…なんて言ってくださった。なんていい人(´エ`*) ゆとさまの描かれる世界なら何でも好物ですが、その中でもゆとさまの書かれる男の子が好きなので「男の子二人で!」って言ったら出てきた作品がこれだよ! もう、マジツボ。 ゆとさま、ありがとうございました☆
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