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「のんちゃん、」
稲峰さんが困った顔をして、私の顔をシャツの袖で拭ってくれる。 ファンデーションの肌色がついたけれど、稲峰さんはそんなこと気にしていないかのように、次々に溢れる涙をふいてくれた。
「そで、汚れちゃうから」
「いいよ。気にしないで」
春の暖かい風が頬を撫でていく。 涙の跡だけ冷たく感じるその風に目蓋を閉じたその瞬間、風が遮られた。
「泣かないで」
びっくりしすぎて声が出ない。涙も引っ込んだ。 稲峰さんの腕が、春の風よりも優しく私を包んでいる。
「のんちゃん、今日はせっかくおしゃれしてるんだから、泣いたら台無しだ」
稲峰さんの大きな手が宥めるように私の背中を撫でてくれているけれど、おしゃれしてるってちゃんと気付いてくれていたことが嬉しくて、また涙が出てくる。
「ねえ、のんちゃん。今日は特別かわいいけど、まだ大人にならないで」
かわいいって言ってくれて、それだけで今日の努力が報われる気がする。 でも、まだ大人にならないでって、どういう意味なんだろう。 私が顔を上げると、稲峰さんがふにゃんって笑う。
「誰のためにおしゃれしたのか知らないけど、俺はいつもののんちゃんが好きだよ。化粧して、大人っぽい服着てるより、いつものまんまでも充分かわいいじゃないか」
16年間生きてきて、心臓が飛び出そうになったのは初めてだ。 今、私の聞き間違いじゃなかったら、稲峰さんの口から「のんちゃんが好きだよ」って出なかっただろうか。 深い意味はない。そう思っているのに、期待せずにはいられない。 稲峰さんを好きになって3年。まさか、彼の口からそんな単語が聞けるなんて思わなかった。 私の顔は今真っ赤に染まってるに違いない。 見られたくなくて稲峰さんの胸に顔を寄せると、「のんちゃんは甘えんぼだ」なんて笑いながら頭を撫でてくれる。
もう少しこのままで。 私はそっと稲峰さんのシャツを握りこんで、甘えているふりをしていた。
to be continued.
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