稲峰さんの背中は広くて、あったかかった。
さっき店長にくっつかれて、すごく鳥肌が立ったけど稲峰さんは違う。
ドキドキするし、ほっぺたが熱くなってきてそわそわしちゃうけど、くっついているとすごく安心した。

「ねえ、稲峰さん」

「うん?」

「桜、どうしたの?もしかして、公園の折った?」

「はは。まさか。花屋が花傷つけたらダメでしょ。うちの商品です」

稲峰さんの高くも低くもない、耳に心地いい声が、背中を伝って私の体に入ってくる。
稲峰さんの声は、柔らかな砂糖菓子に似ている。
舌の上で溶ける小さな砂糖菓子みたいに、体の中へすっと溶けていく。
そして、それはどこかで恋の栄養に変化するのだ。
だから、稲峰さんの声を聞くたびに、顔を見るたびに、私の中で稲峰さんに対する気持ちがむくむくと成長していく。
きっとこのままじゃそのうち、咲谷のぞみという容れ物を溢れ出していってしまいそう。

「稲峰さん、重くない?」

「平気だよ。デンファレとか、パキラの鉢のほうが重い」

それは、どう受け取ればいいのか。
私が返答に困っていると、今度は稲峰さんから話しかけてきた。

「ねえ、のんちゃん。ハルトの家行ったら、ハルトの妹に靴借りなよ。その靴だと歩きにくいでしょ?」

「うん……そうだね……」

たしかに、ヒールだと歩きにくい。
稲峰さんは私のためを思って言ってくれてる。
でも、おしゃれしてるって気付いてほしかったな。
少しでも、かわいいって思ってほしかったな。



「のんちゃんにそうゆう靴はまだ早いよ」



「……っ、」

今日ほど、悔しいと思った日はなかった。
稲峰さんはきっと悪気があって言ってるんじゃない。
たしかに、ハイヒールを履くにはまだ早い。現に、さっきだって転んでしまった。
7cmのピンヒールは、私を少しは大人に見せてくれる。
そう思っていたのに。

「のんちゃん?どうしたの!?足、痛い?一回下ろそうか?」

稲峰さんの背中に、ぽつぽつとシミができていく。
せっかくがんばってまっすぐ引いたアイラインが、涙に混ざって落ちていくのが見えた。
稲峰さんがゆっくり私を下ろす。
心配そうにのぞきこむ顔を見たら、余計に涙がこみ上げた。

「どうしたの?足、痛むんなら病院行く?」

私は首をふる。
たしかに足はひりひりと痛んだけど、そうじゃないのって言いたかった。言いたいことはたくさんあった。
でも、全部嗚咽に飲まれて消えてしまう。
転びそうになりながら、みどり公園まで行ったのは「まだ、早い」って言わせるためじゃないの。
がたがたのアイラインをまっすぐになるまで、努力してお化粧の練習したのは涙で落とすためじゃないの。





 

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