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付き合っていた彼氏に振られた。


付き合っていたのは、もともとずっと憧れていた先輩だった。広く晴れ渡る青空のようにさわやかで朗らかな人で、まっすぐで嘘が吐けず、その見た目もイケメンの部類だったと思う。告白をしたのだってわたしだ。けれど、いざそういう空気になったとき、なぜだか心がいやだと泣き叫んでしまったのだ。熱のこもった先輩の視線と、火照った唇や手を拒み、逃げ出すようにしてその場を去ってしまったわたしに、先輩はどうやら愛想を尽かしてしまったらしい。
別に、そういう行為を求められたわけではなく、ただキスをされただけだ。それなのにわたしは、どうも形容しがたい嫌悪を感じてしまった。心のなかに渦巻くこのもやもに蓋をして知らない振りをしてまで、先輩を受け入れられなかったわたしも、もしかしたら始めから、そんなに好きではなかったのかもしれない。


どんよりとした空気を纏いながら、とぼとぼと通学路を辿る。開き直りつつあるとはいえ、好きな人との別れは、しょっぱくて苦くて、おいしくない。誰かに見られているわけじゃあないけど、そこはかとない悲しみとともにあふれ出そうになる涙を、下唇を噛んでなんとかこらえる。こういう、胸がぞうきんみたいにしぼられるような感覚、一体いつまでつづくんだろう。俯いているとこぼれそうになる涙を掬いあげるため、空を仰ぐと、見るからに雲行きが怪しくて、なんだかわたしの心みたいだった。誰も教えてくれやしない、この悲しみの終わりも、恋愛の正解も。そりゃあまだ高校生だし、わからないことはたくさんあって当然だけれど、今わたしのこの胸が、失恋によってちりちりと焼けるようにいたんでいることだけは、わかっていた。


ぎゅっと目をつぶって、瞬きをひとつ。その瞬間に、こらえていた涙の粒が瞳から流れて、なだらかに頬をなぞっていく。生ぬるい涙は仄暗い空から降ってきた雨粒のようで、とても心地がよいなんて思えない。手の甲で乱暴に拭い取ってやろうとしたそのとき、背後から「名前!」と、聞きなれた声で名前を呼ばれた。


「なんか水かぶったみたいな悲しい音するけどー!」


声の主はわたしの幼馴染だった。我妻善逸。彼のことは、生まれたときから知っている。そして、ここでひとつ情報を付け加えるならば、彼は特別耳がいい。耳がいいって、聴覚が優れているとかそういう次元ではなくて、感情や、その人のおおよその人柄やイメージなんかが、音になって聴こえちゃったりするらしい。だから善逸に言わせてみれば、今のわたしの音は、「水をかぶったような悲しい音」なんだろう。見透かされているにもほどがあって、苦笑してしまう。


自転車通学の善逸は、軽快な音を鳴らしながらわたしの隣までやってきて「どした?」といつもの調子で顔を覗き込んできた。わたしの頬を伝う一筋の涙に、彼はぎょっとしすぎて肩を跳ねさせ、視界の端にとらえる限りでもわかるくらいに狼狽していた。


「え…え!?泣いてんの?なに?痛いとこあんの?」
「…ちがうよ、ばか。先輩にふられた!」
「え……おまえ、ついこないだまで順調だっつってへらへらしてたじゃん」
「うん、ついこないだまではね。…まあ、こうなったのはわたしのせいだから」


泣き顔を見られるのが憚られて、善逸から視線は外したままに、唇をごし、とこすった。心配そうに眉尻を下げた幼馴染は、ゆっくりとしたスピードで自転車を漕ぎながらわたしの隣を並走する。「なあ、なんで?なにがあったの?」と訊ねるその声音は、わたしを慮るやさしさだけで形成されていた。善逸になら、話してもいっか。


「あのね。キス…されて、なんか、いやだって思っちゃったの」
「…あー、うん、そ、そっか。でも、それでなんでおまえが悪いことになるの?」
「え…だって、恋人同士ってそういうことするものでしょ?それを拒んだりしたから…」
「いや、好き同士だからってそうとは限らないんじゃないの。いろんな愛の形があるし。というか、それだけで振るって、名前の気持ちは一切無視なの?っていうのが俺の感想です…けど、ね」


尻すぼみな善逸の言葉は、自転車の車輪がまわってきいきいと鳴る音にかき消されていった。恋愛経験なんて、わたしが知る限りほとんどないはずなのに、なぜだか妙に的確なアドバイスをくれる善逸に、わたしはちょっぴり呆気にとられてしまう。なんだ、すごくまともなことを言うじゃないか。いろんな愛の形っていうのは、なんかちょっとくさいけど。そのどれもを口には出さずに、「そっか」とだけ答えて、また唇をこする。「おい」と隣から声がして、ちょっぴり失礼なことを考えているのが音でばれてしまっただろうかと、ちらとそちらを見遣ると、彼の視線はわたしの唇に注がれていた。


「さっきから、唇こすりすぎ。赤くなってる」
「わ、うそ。無意識だった…」
「…これ、やる」


そう言う善逸の制服のポケットから出てきたのは、清潔感あふれるリップクリームだった。え、いやいや、そんなのもらわなくても、一応女子だから持ってるし。いの一番にそう返したけれど、彼は「使ってないから!」とぐいぐいと押し付けてくる。きっとこれも彼のやさしさなんだろうな。あんまり器用じゃないかもしれないが、このやさしさには、これまでも幾度となく救われてきた。ゆるく笑って見せながら、差し出された小さな贈り物をそっと受け取る。

「ありがとう、善逸」そうやってお礼の言葉もちゃんと添えて。

リップクリームとひきかえに




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