スノー・トリップ《1》
鄙びた駅には人の姿が見当たらない。代わりにホームや小さな駐車場に植えられた木々が来客を迎える。
休日の昼を少し過ぎた頃。電車から降りてきたのはラグナとケイス、ジンとシンの四人だ。それ以外はいない。
というのも、ここへ来るまでの途中の駅で人が次から次へと降りていったのだ。ビルから民家へ。更には田園へと、辺鄙な風景になるほど用が無いからと去っていく。
最終的に、この駅に着く頃にはラグナ達だけになって貸し切り状態になってしまって、逆に戸惑ってしまうぐらいだ。
そんな寂寞としたホームに降り立つと、冷気を充分に帯びた澄んだ風が吹き抜ける。先程まで空調の効いた電車に乗っていた所為で肌を撫でる冷たさに萎縮してしまう面々。寒い、と誰しもが口にしていた。
「これだけ積もっていたら流石に寒さが身に沁みるな」
トロリーバッグを引き、片手で赤いマフラーを巻き直しながらジンが言う。
陽射しは燦々と照っているが、雪焼けしてしまいそうな程に辺りの雪は厚く、陽に溶けず目映く照り返している。
ホームの階段をゆっくりと降りてジンの隣に立った男は顔色が悪いが、重そうなドラムバッグを提げている所為ではない。
「ヤバイ……死にそう…マジで死ぬかも……」
胸を押さえて、今にも倒れてしまいそうな震えた声でケイスが呟く。
ケイスは寒さに滅法弱く、常々のふざけた物言いが今だけは冗談に聞こえず、あまりケイスを気遣ったりしないジンでさえ思わず気にかけてしまう。
「大丈夫か?」
「何でお前はそんな涼しい顔なんだ……まるで解せぬ」
吸い込んだ空気で体内から冷やされ息も絶え絶えとなってくるのに、けろっとした様子で立っているジンが不思議でならないとケイスは眉をひそめる。
「……僕らは気温に強いからな」
寒がりでも暑がりでもない。感覚が鈍いのではなく、堪える強さがあった。生まれながら剛い身体に恵まれただけあって、病気に脅かされる心配はない。
ただ、健康なだけというのもたまに傷だなと思う。――今の場合は違うが。
紺のダッフルコートの合わせを確かめながら、ジンはちらりともう一人を見遣る。自身の“片割れ”だ。
白のダッフルコートを着た女はふらついた足取りでホームの床を踏む。脇にいる男も心配げに様子を見守っていた。
「大丈夫か?」
「平気だよ。大分痺れも取れたし……」
ラグナに訊かれ、にこりと笑うシンだが疲れ気味な色が滲んでいるものだから、中々傍を離れられない。
「たく、ケイスのバカが悪い事したな」
段差があるからと手を出し掴まれと促すと、シンは照れた様子でその手を頼る。
「いいよ。起こさなかったのは私だし」
気にしてないから気にしないでと言う。
シンの言う起こさなかったというのは電車の中での事だ。
風景の変化に喜ぶ年頃でない若者に長時間の移動は退屈なもので、到頭飽きたケイスがシンの膝を借りて眠り始めたのだ。一時間近く、少しも離れようとしないケイスに拘束されていたので、電車が停まって降りる頃にはすっかり痺れて足の感覚がなくなっていた。
なので、シンの足がふらついているのは乗り物酔いではなく、痺れからだった。
しかし、シンが言った通りもあってそれで怒ったり困ったりする気は毛頭無い。
起こそうと思えばいつでも膝で眠る人物を起こせた。それこそ、足が痺れ切ってしまう前にも。
ケイスは奔放であるが我が儘ではない。一度目の言葉で従わないなら、二度目に拳を振ればちゃんと従ってくれる。
それらを解っていてしなかったのは、いつも甘やかしてくれるケイスを甘やかしたいシンなりの背伸びでもある。
先にホームから駐車場に出ていたケイスはラグナが自分の事を好き勝手に言ってくれているのを目聡く拾っていて、ジンに寄り添って文句を訴える。
「俺は悪くねえしー。膝枕はシンのお許しがあってだぞ。それに、兄貴だってジンの肩で爆睡だったろうが」
少し低い位置にある肩に頭を傾ぎ、こつりと乗せる。
弟の非を詫びたりしているが、大見栄を張れないのがこの兄である。
電車にて真っ先に寝始めたのは何を隠そう、ラグナだ。
うつらうつらと首が下がり始めたかと思ったら跳ねるように頭が上がり、何回かそれを繰り返したのち、隣に座っていたジンの肩に寄りかかって寝出した。
ボックス席に座っていたので、当の本人を除いて全員それを見ている。
自分が寝たのはその後だと、ケイスは全く威張れない弁解をする。
だが五十歩百歩と言えばそう。一人だけ責められるのは腑に落ちぬと開き直る。
何か言い訳があるかと強気なケイスの挑発と、言い逃れのしようがない現状に、ラグナは言葉をゆっくりと選ぶ。
「俺のは…………」
細く目を眇め、一拍の間を置いた。
「…………不可抗力だ」
肩から提げていたドラムバッグを雪のない地面に放り投げケイスの額にぶつかる程に距離を縮める。
「大体あんなあったけえ電車の中でゆらゆら揺られて寝ずにいられる訳ねえだろうが!」
「そりゃあ俺もそうだよ」
「が、俺は足を痺れさすような非道は働いてねえ!」
「そうそう。全く動けなくてトイレに行けなくても僕に寄り添って眠る兄さんを写真に収めれたし気にしてないよ」
「オイ今すぐそれを消せっ!!」
ジンのコートのポケットに入っているスマートフォンを寄越せと手を伸ばすが渡す筈もなく、嫌だよと唇を尖らせる。
鍵つきのフォルダに移動しているから、番号を知る者にしか消せれない。その番号も当然、他人に教えていないが。
お宝がまた増えたと喜ぶジンにラグナがまたとは何だと問い詰めている間も、シンの溜め息は尽きない。
「電車の事ではしゃぐのはいいから、移動を始めようよ。まだ旅館までには距離があるんだよ」
呆れ気味に叱り、己の分のトロリーバッグを引き出す。踵を控えた低めのブーツがしっかりと雪かきされた道路を行く。
そういえばそうだと、ラグナも放ったバッグを拾う。
三時間電車に揺られ、そこから更に駅からの路線バスで三十分。終いに徒歩で三十分の道が残っているのだった。
*****
「ふあっ……!?」
「おっと」
石段を上がっていく視線の先から倒れてきた背中をラグナは片手で受け止め、ゆっくりと起こして体勢を直してやる。
「ご、ごめん…ラグナ……」
謝るシン。
もう三度目となる人間キャッチにいよいよ恥ずかしさが切迫する。
雪かきされているとはいえ、頭上には深い緑に繁る枝が組み合っている。そこに雪が乗っている所為で、風で揺れたり溶けて変形した雪が下へ落ち、折角平らにしてくれた道を不安定にしてくれる。
不安定だから仕方無いとラグナはフォローするが、それでも回数が連なってくると情けなくもなってくる。これでも雪が積もる地方に住んでいた時もあったというのに、まるで駄目ではないかと。
その所為でラグナが自分の後ろについたままでいるのにも気付いている。
ラグナとしては、変に意地を張られたり無理をして怪我をされるより遥かにましだと思っているが。
「歩くのに邪魔だろ。バッグ持っててやるよ」
「そ、そこまでしなくていいよ……」
世話焼きのスイッチが入ってしまったラグナは断るよりも早く手からバッグを持っていってしまい、シンは困り顔になる。眉間の下がった表情に開けたりしねえよと言われるが、そんな問題ではない。
見なくても解る、後ろからの怒気。放っている本人の眉間には深い皺が刻まれているのだろうなと、容易に想像出来る。
嫉妬深い兄はラグナの性格を解って我慢していたりするが、妹の自分に構いきりになった限り、許容にも限界がある。
そろそろ臨界点を迎えるだろう。今までよく堪えていたなと、見た目よりも短気な兄を褒めてやる。
はあ、と溜め息をつくシンを見て、疲れたのかとラグナが気遣う。大丈夫だよと微笑むシンは、頼むから構わないでくれと、本当は言いたかっただろう。
ラグナと妹の遣り取りを見続けていたジンが、到頭口を出した。
「おい貴様……ブーツを脱げ」
「どこの修行僧だ!!」
ラグナの後ろを歩いていたジンの目は真摯として揺るがなかった。同じ血が通う、しかも妹に対して慈悲も遠慮も無い鋭さである。
「大体なぜ旅行にブーツを履いてきた! 歩きを舐めているのか貴様は!」
「これでも散々妥協した結果だ! これより低い踵だと不格好なんだ!」
身体のラインを示すように手でなぞる。
太腿までをコートの裾が覆い風避けの黒のタイツを着用している。だがスニーカーの類いを嫌うシンは長時間歩くといってもそれを履きたがらず、自身が実践して見つけ出した歩き用のロングブーツを選んだ。
但しその実践経験も雪の積もらない都市でやったものなので、多少の計算の狂いがあるが。
だがジンにそんな事情はどうでもいい。
気に入らないのはブーツではなく、自分を置いてラグナに構われている妹なのだから。
ジンとシンの言い争いにラグナが困り出す。
旅館があるとされる村へ続く石段は人から聞いた話では五百段は下らないそうだ。
人が少ない土地らしいが、余所者が近寄らない原因の一つを担っているだろう。
自分を含め全員体力があるが、真ん中かどこかも解らない所で喧嘩をして体力と時間を消耗するのはよろしくないのではと心配になる。
どう仲裁するかと悩んでいたら、ジンと並んで黙っていたケイスが突如自身の荷物をラグナに押しつけた。
「兄貴、俺のも持っていってくれよ」
「はあ? 何でだよ……て」
シンの荷物に自身の物で、更に弟のドラムバッグを押しつけられバランスを崩しかけるラグナ。狭い足場を踏み外さぬよう慌てて抱え直していたら、「――ほわああっ!!?」と珍妙な悲鳴を上げながらケイスに担がれるシンがいた。
曲げた肘の辺りに担いだ人間の尻が乗るよう体勢を整え、肩に手を乗せるよう言う。
「兄様っ……!」
降りようにもしっかりと足と腰を腕で固定され、振り解こうと暴れたら二人とも危ないと判断するやシンは困り顔でケイスを呼ぶ。
歩けると訴えるが、さっきからシンが足を滑らせるのを見てて焦れたらしく、聞き届けてもらえない。
「こっちの方が早くて良いだろ。兄貴の手も煩わせないで済むぜ」
「でも、兄様が足を滑らせたらどっちも危ないよ……」
言われてケイスは階下を一瞥する。
登り始めて大分経っていたようで、一段目がある下の景色は遠い。階段を転げ落ちればただでは済まないだろう高さを、改めて実感する。
「そん時はー…………死なば諸共」
「ちょっと兄様!!」
言うなれば道連れにも聞こえる科白にシンは抗議をするが「お前が暴れなければ大丈夫」と言いつけ構わずケイスは階段を登っていく。
鼻歌を交ぜながら軽快に階段を上がるケイスと渋面を隠さないが大人しく抱えられているシンに、ラグナは呆れとも安堵とも解らない息をつく。
「あの野郎は……。まあ、ジンとケンカしねえならいいか」
両肩両手の荷物をちょいちょい直しながら自分も上がろうとすると、隣にジンがいて、草原の緑のように輝かせる瞳とかち合った。
嫌な予感を嗅ぎ取りながら、隣の存在を無視する訳にもいかず何だよと訊ねれば、ようやく自分の元に帰ってきたと喜ばんばかりに満面に咲かす笑顔の花。
「兄さん、僕も抱っこして」
妹がしてもらっているようにとねだる、ラグナからすれば弟と変わらないシンの兄。
整った顔を幼子のようにほどいた柔かい笑顔。
それを受ける、疲憊していくように弱くなる笑顔。
肩と手元には自分と弟とジンの妹の荷物。そんな状態で、どうやって178cmの男と残りのバッグを抱えろというのか。
短く溜め息をつくと、「無理」と一言突き返した。
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