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 ジンを強引に部屋へ連れ戻し、ベッドに座らせるとほっとラグナも肩を落とす。ジンは無表情のまま俯いて膝に置いてる手を睨んでいるが、暴れる気配はない。
 気まずい、というより苛立ちが織り交ぜられた重い空気が流れるが、あの場の空気よりはマシだと思えた。
 あのままの空気にしてはいけないと、ラグナの本能が警鐘を鳴らしていた。“ノエルがジンを”見つけるよりも、“ジンがノエルを”見つける事態が危険だと。
 場の空気が冷たく感じたのは恐らく錯覚ではない。
 あの時言葉を閉ざしたジンの瞳にはノエルが映り込んだのだろう。『妹』と瓜二つの顔が。扉のすぐ傍らにいたラグナには瞳の色が変わったのに早く気付けた。そして逸早く行動に移れた。
 ジンの瞳を染めていたのは、自分に向ける焦がすような殺意とは真逆の、慈悲のない凍てつかす氷獄の殺意だった。そんな状態のジンが何をしでかすなど想像に易く、一刻も早くあの場から離さなければと身体が勝手に動いていた。
 統制機構は嫌いだが、やはり妹の顔に似た人に弟が刃を向けるような光景は見たくなかった。
 面倒臭いと徐にラグナが溜め息をつくとジンの手がぴくりと揺れた。
「……兄さんは……あの女をどう思うの……」
 「は?」と言いたくなるような質問だが、ジンの声色は茶化すような色は一つもない。本人は至って真剣、なのだろう。
 ジンもきっとラグナと同様、彼女の顔を見て『妹』の事を思い出すのであろう。だから嫌悪する。
 『家族』だった頃、ラグナは身体の弱かった妹を何よりも優先していたので、もしやジンは何かしらすぐ妹を引き合いに出していたのだろうかと考えてしまう。先の行動も、『妹』に似たノエルを庇っての行動と捉えているのだろうか。

――ならば、それは誤解だ。

 ラグナは怠そうに膝に肘をつき、面倒臭さげに質問に答える。
「何とも。確かにアイツは似てるけど、似てる“だけ”だ。アイツは『サヤ』じゃない」
 似てるから動揺はすれども、それ以上に思う事はない。
彼女と戦いたくないのも、ジンに刃を向けさせたくないのも、全て『自分』の為でしかない。
 ノエルの為でも、ジンの為でもない、『自分』の為だ。
 態度は不真面目だが、言葉はきっぱりと言い放つ。けれどジンの表情は変わらず、俯き腹立たしそうに拳を握っていた。恐らくラグナがどう言ってもジンの不機嫌は治らないだろう。賢い彼は一人自問自答を繰り返して無意味に自分を追い詰めているのだから。
 ふう、と二度目の溜め息をつくとサイドテーブルに手を伸ばす。
 カチン、と無機質な音を聞いて何をとジンが目線を上げると、目の前には食べ切っていなかったリゾットが乗ったスプーンが突き出されていた。
 突然の事に言葉も出せず動揺すると、ラグナが口を開けるよう「ん」と短く催促をする。
「バカが、テメェがとろとろしてるから冷めただろうが。さっさと食え。片付けれねえ」
 ぶっきらぼうに、押しつけるようして突き出してくるのでジンも促されるままに口を開いてスプーンを口内に招く。
 汁気も米に吸われて、空気に触れていた上部は確かに冷めてしまっていたが、下の米などまだ仄かに温かくて、やけに舌に馴染んだ。
 飲み込んだのを確認するとまたラグナが器からリゾットを掬って口元へと運んでやる。少し多めに感じる一口だが、文句を言わずにジンは自分で食べる時よりも大きく口を開けて黙々と受け取る。
 そうしてぐだぐだと進まなかった食事は、ようやく終わる目処をつけた。


  *****


 空になった器を見て満足そうに「よし」と頷き、膝を叩いて立ち上がる。
 さっさと使わせてもらった台所を片付けるかと意気込んで部屋を出ようとしたが、その前に服に違和感を覚えた。
 腰より下、主に尻の周辺。
 袴のように裾が広がっているゆったりとした大きいズボンが、ベッドからはみ出てる手に引っ張られていた。
 恐らく掴んでる位置に深い意図はないだろう。横たわっている身体と大きい体躯の関係で、そこに一番手が届きやすいだけだ。決して深い意図はない。大切な事だから二回言っておこう。
「ジン…………」
 お約束過ぎるだろうと言おうとしたが、物悲しそうにこちらを見上げてくる瞳を見たら、言うのも無粋かとやめておいた。
 恐らく、本人も解っているだろう。ズボンを握る手が屈辱か羞恥かは解らないが小刻みに震えているし、顔も赤みが増している。
 それでもそれらを置き去りにして手を伸ばしたのだから、それだけラグナを引き留めていたいという気持ちが強いのだ。
 だがラグナとしても面倒と思う前に雑用を済ましたい気持ちはあるし、このように縋られても、どう応えればいいのか解らない。こんな時間は砂嵐のようなノイズの向こうに掻き消されて振る舞い方さえも忘れてしまった。
「離せよ。片付けが出来ねえ」
 脅すように態と冷たい物言いをするが、そんな言葉に怯むどころか余計指先に力が込もってしまい、代わりに遣り場のない視線を下へと伏せた。
 離そうとしない手にいい加減にしろと言おうとしたら、ジンが口を開いた。
「わかってる……でも……」
 掠れてるように聞こえる声は小さく、この場にいるのが二人だけでなかったら聞こえないだろう。ラグナも耳を澄まして声を拾おうとする。
 ジンは肩に掛かってる布団をぎゅっと握り、ねだるように、縋るようにラグナに言った。
「でも…せめて……僕が眠るまで、それまで見張っててほしい……」
 だから――と続く言葉は儚く消え往き、結局声にはならなかった。
 奇妙なお願いにラグナも思わず目を瞠った。
 妙な事だと承知の上で、ジンはラグナに言っている。
 本来、ラグナがジンの傍にいる必要はなかった。病人なのだから医者であるライチにジンを任せ、問題の無いラグナはさっさとこの診療所を立ち去る事が出来た。
 それを理解しているジンは、それでもと、せめてと、自分の意思が水面から底へ沈み往くまでは共にいてほしいと、言葉にした。
 成り行きとはいえラグナに優しくされた後では、彼の背中を見送るのは堪え難い喪失感を与えられてしまいそうだから。
 だから、せめて去なくなるなら自分の意識が無い時にしてほしい。それならまだ傷は浅いと、自分を納得させれるから。
 けれど、そんなジンの心情とは別にラグナはここにいた。
 確かに今のままでは共にいる事は出来ない。またすぐにこの弟と別れ、肉親であるのを忘れたかのように当たり前に刃を交えるのだと思っている。
 それでも今ジンを“置いていく”という考えは浮かんでいなかった。
 置いていかれる『孤独』を識っているラグナは、弱っている弟を独りにする気にはなれなかった。
 食事を摂った後だからか、薄く汗をかいている額を撫で、前髪を掻き上げる。
 栄養も摂り、散々騒いで疲れたであろう身体がようやく休もうとしている為か、ぼんやりとした様子で手袋の冷たさに酔う。
「いいから寝ろ。言ったろうが、医者の姉ちゃんも忙しいって。だから……」
 不自然に、ラグナの言葉が途切れる。

――『だから安心しろ』

 なぜか、その言葉を使うのは躊躇われた。
 己の望む未来への布石も打てていない“今”、それを使うのは間違っているのではないかと、雑念がわく。
 額や髪を撫でられているジンはうとうととしていてラグナの言葉の続きを催促する気力はなく、徐々に目蓋も重くなっていくのに身を委ねた。
 長い瞬きの果て、到頭目蓋は完全に閉ざされ、間を置いてするりとズボンを掴んでいた手が落ちる。
 ぷつりと糸が切れたかのように身体は弛緩し、ジンの意識は夢境へ赴いた。
 ベッドから投げ出された腕を冷えないよう布団の中に戻してやり、丸椅子に座ってジンの顔を覗き込む。
 横を向いていて肩が痛くなるだろうかと思ったが、寝始めた身体を動かせば折角眠ったのに起こしてしまうかもしれないのでそのままにした。
 眠るジンの顔は路地裏で拾った時よりは表情が和らいでいるが、紅潮してる頬が熱の高さを物語っていた。
 辛そうな素振りを見せないので忘れがちになるが、熱があるのを再認識した時、ラグナはライチから薬を貰っていない事に気付いた。
 まさかのミスにしまったと思わず顔を押さえてもう一度ジンを見遣る。恐らく、目の前の静かな寝顔とは真反対の顔をしているだろうなと思う。
 服用する大概の薬は食後のものが多いから、食べ終えたばかりなので――本来は食後の間のない睡眠は身体に良くないが――まだ時間に余裕はある。片付けをした後にライチに頼んで薬を貰っておくかと予定に組み込む。
 部屋から出た際は時間も確かめておかねばと忘れないよう自らに言い聞かせる。
 一時間後に一旦起こして薬を飲まそうと頷く。それからまた寝かしつければ煩わしい風邪も早く治るだろう。
 やる事を決めると、今度こそ片付けをしようとラグナは腰を上げようとした。けれど、引き留める手も声もないのに中腰の高さで一度身体をぴたりと止める。
 不自然な格好でついと前へ傾ぐと、寝ているジンの前髪越しの額とラグナの額がこつりとぶつかる。ひどく熱く感じる額に、ラグナの眉尻も下がる。
 伏せられた長い睫毛がぴくりとも動かないのを確認すると、ラグナは誰にも聞かせないよう小さな声で呟いた。
「さっさと治せ、泣き虫小僧が……」
 幼き頃、住み慣れた教会にて不真面目にだったがシスターの隣で倣ってしたお祈りのように目を閉じ、小さく唱える。
――テメェの体調が悪いと、俺も気分が悪りぃだろうが。
 殴り辛い、とかそんなぶっきらぼうな理由ばかりが浮かぶが、きっとそれだけではないんだろうなと思うと歯噛みしたくなるような気恥ずかしさを覚えて、くそ、と癖のように悪態をつきたくなる。
 胸の内に落とした言葉は深い眠りに沈んでいるジンが聞く事もないし、聞かせる為に絶対に口にする事もないだろう。
 敢えて言うのであれば、呟やかれたラグナの言葉は頭の上で全く身動ぎをしないので存在を忘れられていたラオチュウだけがひっそりと聞いていた。


《続》
 

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