3

 ラグナの前まで辿り着くと、少女は待ち侘びた言葉を口にした。
「兄さんおかえり!」
「ジン! 何でここに……」
「もうすぐ兄さん帰ってくるかなって待ってたんだ」
 えへへ、と照れ臭そうに笑うがラグナは不意にジンの手をきゅっと握り締めた。握り込んだジンの小さな手はひやりと冷えていた。
 川にかかる橋の上は空気が冷やされ独特の空間ができる。ラグナが帰ってくる時間に合わせたように言うが、この冷たさは少し待ったぐらいではならない。長い時間、橋と一緒になってラグナを待っていたのだろう。
「冷えてんぞ。家で待ってりゃあ良かったのに……」
「だって――……ううん、ごめんなさい」
 何かを言おうとして、口を噤む。ラグナが言った事に間違いは無い。ジンがここにいた理由も、ラグナに早く会いたかっただけの自分の我が儘からだ。我が儘を言ってラグナに嫌われたくない。自分の理由なんてどうでもいい。謝れば、許してくれる。優しい兄に似合う従順な妹になろうと自然と謝る。
 けれどラグナは謝らせたくて注意をした訳ではない。
 ジンの理由はどうあれ、自分の身体は大事にすべきだ。迎えは嬉しいが、それで体調を崩されでもしたら堪ったものではない。
 ジンはサヤよりも身体が強いとはいえ、ラグナにとっては大事な妹の一人なのだから心配してしまうのは当たり前だった。
 逃げるように俯いてしまったジンにしまったと己の言葉のきつさに叱責をしつつ、握った手を締め直して歩を再開する。
「帰るぞ。シスターも心配してる」
 どれくらい待たせてしまったかは与り知らぬ所だが、女の子一人の外出だと心配するだろう。
 ジンが外に一人だけで遊んでくると出ていった時の自分は何度も時計を見て時間経過を気にしてしまう程だ。シスターなど気が気で無い筈だ。そうだそうだと内心で頷きながらジンの手をどんどんと引いていく。
 ラグナに引っ張られて縺れ気味な足取りだったが、足場が橋の板に乗ると安定し、ゆっくりと体勢を立て直してラグナの隣を歩く。
「兄さん、荷物持つの手伝うよ」
「ん? んー……いいや。大丈夫」
 ちらりと篭の中を見て、そういえばと思い出しながら指輪の事を考える。
 ジンが待っていたのに驚いて意識をそっちへ持っていかれていたが、本来はジンにプレゼントを買う為に町へおりた訳でもある。
 家で渡そうかと思ったが、家にはシスターとサヤがいていつ渡せるか難しい気もする。
 サヤにはささやかなお菓子を買ったが、指輪の玩具に比べると見劣りするかもしれない。事情を知っているシスターにもからかわれたくないので、誰の目もない今の内が一番安心して渡せるのではないかと思って、不意に立ち止まってみせた。
「どうしたの兄さん?」
 立ち止まって篭を漁るラグナをジンは不思議そうに見つめる。
 ふっくらと膨らんだ篭の中身を落とさないよう慎重に、だが急いた様子で漁ると、漸く目的の物が手を掠め、嬉々と引き抜く。
「これ、ジンにやるよ」
 ずい、と差し出されたのは小さな箱。けれど外装がしっかりした重量感のある箱を見てジンは目を点にした。
「え……? えっ? えぇ!?」
 思わず後退るほど箱の高級感に圧されジンは動揺しているが、逆にラグナは開けた時にがっかりされるのではと不安になって思わず口につく。
「いや、まあ、中身は玩具の指輪だけどよ……」
 言って、何だが居た堪れない気持ちになって不思議とジンから目を逸らす。
 露店商が態々探してくれたサービスだと指輪を買っていったラグナに、硝子ではない本物の石をつけた指輪を収める為の箱に入れて渡してくれたのだが、ジンへのサプライズとしては充分に一役買ってくれたようだ。
 中身を明かすと、ああと理解したジンは漸く箱を直視できるぐらいに落ち着いた。しかし、渡そうと差し出されたラグナの手から箱を受け取ろうとはしなかった。
「やるよ。欲しかったんだろ?」
「え……。それは…確かに……欲しいな、とは思ったけど……でも……」
 きょどきょどと目は泳ぎっ放しでラグナを直視できていないジンは躊躇うような、困惑しているような挙動ばかりだ。
 気遣いばかりする妹は、末の妹に対して遠慮してしまっているのかとラグナは思った。
「サヤの事気にしてんのか? サヤにはお菓子があるから……」
「そ、そうじゃないの!」
 肩を張り、顔を赤くして大きな声で否定するジン。何が違うのか解らないラグナは困惑気味で、手にある物をどうしていいか解らなくなる。
 ジンは言葉に詰まっていたが、ラグナの困った顔に気付く。このまま黙っていたら兄に何か勘違いをさせてしまうのではと怖くなってしまった。
 散々に逡巡したが、観念して胸の内を訥々と語り出した。
「僕が……指輪を見てたのは…………」
 指輪を受け取ろうとしないジンはぽそぽそと言葉を途切れがちにしながら、それでも見つめてくるラグナに答えようとして、緊張のあまり固く服の裾を握る。
 顔を真っ赤にし下を向きがちな視線に何だよとラグナが先を促すと、ジンはゆっくりと答えた。
「兄さんから…指輪…欲しいなって……思って…………」
 蚊が鳴くよりも小さい、途切れそうな声に耳を疑う。
 ジンが言った事はさっき否定した事と矛盾していて一瞬何の事か解らなかったが、結局はラグナがやろうとしている事と変わらないではないかと気付く。
「だからコレやるって……」
「そ、そうじゃなくて……っ」
 指輪のケースを押しつけようと前へ差し出したがジンは違うと大きく頭を振った。
 言葉ばかりがまごまごして、ますます意味が解らないとラグナは不可解げに眉を潜めると、兄の顰めっ面に怒ってしまったかと勘違いしたジンは泣きそうな顔で言った。
「…………僕が欲しいと思ったのは、兄さんからの……けっこん…ゆびわ……なの」
 服の裾を握っていた指を解き、右手が左手を覆い、固く抱く。
 ただの指輪なら日常的に動くにはごてごてして邪魔だから要らない。
 けれど唯一欲しいと思ったのは、ずっと一緒にいる誓いとしてのラグナからの指輪だった。
 少女だけでない、誰しもが憧れる情愛を注ぐ者と繋がりを求める物だ。
 散々言い澱んでいた事を口にして、ジンは倒れてしまいそうな自分を足で必死に支えた。ラグナに見つめられていたら羞恥で倒れてしまいそうで、細く脆い土台に立っている危うい気持ちでいた。
 こんな事を言えばラグナに笑われてしまいそうで口にしたくなかった。けれど結局ラグナに圧されて口を割ってしまい、どんな顔をしていいのか解らない。
 馬鹿にされたくない、笑われたくない、拒絶されたくない――……。
 パニックを起こしそうな頭を何とか落ち着かせようと痛いほど唇を噛んでいたら、少しの間を置いてラグナが口を開いた。
「――いいぜ」
 言うや否やラグナは手に持っていた荷物を倒れないよう橋の欄干に凭れかけると、空いた手でケースから指輪を取り出した。
 買う時に散々悩んだ指輪は陽の光に照り、一層強く大きな硝子が輝いて綺麗に思えた。
 挨拶するように返事をされたジンは言われた事が理解できていなくてぽかんと口を開けていたが、ラグナが左手を取ると漸くやろうとしている意味が解った。
 手を取られあわわとジンは顔を更に赤くするが、全く表情が変わっていないラグナの顔を見て複雑に思いが揺れる。
 指輪をはめようとする指を丸め、小さな抵抗を試みた。
 「ん?」と片眉が下がったラグナをジンは控えめに睨んだ。
「簡単に言うけど、本当にいいの?」
 心からの疑問だった。ラグナからはジンのように好意からくる動揺や喜憂は全然見受けられない。指輪を渡そうと適当な相槌をされて、後からやっぱり無しだと言われたらひどく辛い。いい加減な気持ちで、残酷な嘘はついてほしくない。
 不安げにしょげるジンに小首を傾げるが、真っ直ぐに目を見てラグナは言った。
「お前、俺の事好きか?」
 日頃兄さん兄さんと口遊みラグナの後ろをくっついて歩いてくる妹に今更な質問だが、再確認といった風に訊ねる。ジンも、「うん」と素直に頷く。
 そうかと頷くラグナは言う。
「俺もお前が好きだから、それでいいだろ」
 あっけらかんに、ラグナは告げる。
 あっさりと告白されたジンは石柱のように身が固くなった。言われた事が信じられなくて、目がこぼれてしまうのではないかと思うほど丸く見開いて。
 折り曲げていた指を痛くない程度に開かされ、左の薬指に指輪がするりと滑りこむ。少々日焼けた細い指にしっくりとはまるプラスチックに輝きはないが、それに代わる硝子がきらりと煌めく。
 一歩下がり、まじまじと指輪とジンを見比べ、また一緒にして見る。
 飾りっ気の無い素朴な出で立ちだが、元が良いのと玩具の指輪という事でバランスは釣り合っている。
 薬指に通された指輪をしげしげと眺めるジンに「似合ってんじゃん」と言うが、ジンを褒めて言っている風というよりも、その指輪を選んだ自分自身を賛美する言葉だ。いつも以上ににんまりと笑っているのだから買う時相当悩んだのだろうと想像できる。
 からりと笑っていたラグナだが、ふとこめかみに指を当て、小さく唸りながら言葉を探した。
「え〜っと、あれだ……。こういうの、何だっけ……“こんやく”、ていうのか?」
 ラグナからの聞き慣れない言葉にジンが首を傾げる。
 知らないと言っている顔にラグナが記憶していた意味を説明した。
「“けっこんのやくそく”だ。子供はけっこんできないからな」
「大人じゃないといけないの?」
 幼い故の無知による甘い認識で『好きな人と一緒にいる』ぐらいにしか捉えていなくて、実質の言葉の意味や重さなど子供が理解している筈もない。
 それは、ラグナとて同じだ。
「そう。だから、やくそく。大人になってから、けっこんだ」
 “やくそく”と言ってラグナは手を伸ばしたが、差し出したのは約束を結ぶ小指ではなかった。
 視界が胸で塞がる程に近付き、肩に手を置いて互いの体を支えると、ジンの前髪を掻き分けラグナは額に唇を押しつける。
 子供がする小指の約束とは違う、誓いの口づけにジンは言葉を無くす。
 唇は額に触れて、すっと離れてしまう。ラグナは呆けるジンに髪を撫でながら改めて言った。
「やくそくだ」
 ジンが見上げる顔は、子犬が庭を駆け回るような可愛らしいものとは違う、日向のように触れるものを包んであたためてくれる柔らかい笑顔をしていた。大人びた貌に、知らず見惚れる。
 子供のする未来への約束など全くあてにならない。殆どが記憶の引き出しの奥深くに埋もれてそのまま出てこなくなってしまう。
 それでも。
 ジンにとって、今交わされた言葉がラグナからの愛情であり、そして渡された指輪から自分ばかりがラグナを想っていたのではない証明に思えた。

 “この指輪と額への口づけで、誰よりも先にラグナに選ばれた気さえした。”

 指輪をしたジンがどんな喜び方をするかと胸を高鳴らせていたラグナは、驚いていたジンの顔がゆっくりと変わり出し、“ぎょっ”とした。
 はらりと、一滴の涙が落ちる。緑の瞳が薄い膜を張って宝石のように濡れた輝きを持つ。
 涙が一つ落ちれば、ゆっくりと雫は熱を呼んで目の奥を焦がしていく。
 震える感情に堪えきれなくって掌で顔を覆う妹に兄は狼狽して手を置いていた肩を撫でさする。落ち着かそうとしながら、あやそうとする本人が一番慌てていた。
 本来なら喜んでもらいたくてした事なのだから、逆の結果になれば無理もない。
 大人になるまで待てないのかと、涙の意味をラグナは勘違いして困っていたがそうではない。その理由はジンさえもきっと解っていない。
 ただ胸の奥から込み上げる熱さが、涙に変わっていっただけだった。


  ◇


「“やくそく”。早く思い出してね」
「は? あ?」
 喫茶店を後にし、ジンに腕を絡められて照れていたラグナは、やにわに言われた言葉に豆鉄砲を受けたような顔で返事に窮した。
 何の約束をしたかと顎に指をそえて悩み思い出そうとする兄の渋っ面を眺めながら、ジンは楽しげに笑う。
 振り解かれない腕に、愛情を感じながら。


《終》
 

prevnext


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -