2

 最初に抱きつけれなかった代わりにラグナのジャケットを強く抱きしめる。
 湿った雨の混じる空気に、入れ替わりにすんとラグナの気配が鼻孔を擽り、その存在を強く感じられてほわりと口元が綻ぶ。
「それじゃあ、借りるね」
 大事そうに宝物を抱きしめているような貌で言うジンに思わず頬が赤くなるような気持ちになり、顔を反らすようにして背を向け「へいへい、どーぞ」とぶっきらぼうに放つ。
 うんと頷き抱いていた上着にいそいそと腕を通していく。
 動きの邪魔にならないよう体にフィットするようになっているが、細身のジンでは少々だぼついた感があって、体躯の違いをありありと教える。
 随所に金具があしらわれているので普通よりも重さがあるが、普段から軍服を身に付けている人間とすれば心地好い重さである。
「あはは、彼シャツならぬ兄ジャケだね」
 くるりと戯れに舞ってみると、かちんと背中から足元へと垂れている飾り紐の金属が回廊の床板を叩いた。
「バカな事言ってんじゃねえよ……」
 恥ずかしい事を、と呆れながら振り返ると、ジンが飾り紐を両手に提げてじっと見つめていた。
 何だと訝しんだが、ジンとジャケットの対比を視認するとすぐに答えは見つかった。
「やっぱ引き摺るか」
「うん。どうしよう」
「放っとけばいいじゃねえか」
「ダメ! それこそ汚れちゃうよ!」
 肩を怒らせてまで強く主張するジンに怯みつつ、じゃあどうするかとラグナは思案を巡らせる。
 とはいえ、雨が降ってて動き回れるような状況でもないし、大人しく止むまで待てばいいかと単純な事であり、ならばとラグナは自分がさっきまで居た場所を思い出してジンの後ろの欄干に掛けられている濡れた服たちを掴み抱える。
「兄さん?」
 突然自分の服を回収する兄にどうしたのかと訊ねるジンにあっちと橋の中央を指差す。
「向こうに休める場所があるから。そこ移動すんぞ」
 立ったままも疲れるので、ラグナは移動を促す。
 一通りジンの衣服を抱えると有無も言わさずそのまま先立って歩き出す。ジンも距離が空きそうになって慌てて小走りで追いかける。ジャケットの紐は、結局手に持ったままだ。
 歩いている間二人とも言葉は無く、ブーツの底が木の板を打つ音だけが響いている。
 雨の暗さに山間の風景もあって重い沈黙のように見えるけれども、二人には全く気まずさなどなく、それどころか互いの足音が聞こえている事に一抹の安心感を抱く。
 確かに存在している、大切なもの。
 敢えて横に並ばず連れ立つように歩くのは、小さい頃兄に手を引かれて走り回った時の事を思い出せて、幸福だと、そして今も幸福なのだと実感できるからだ。
 そうして、静かな沈黙は五分程で終わりを告げる。
 回廊の中央に設けられた休憩所代わりの場所は六角形に縁取られていて、高めの天井の真下に同じように六角形になるよう長椅子が六個並べられ、中心に角張った机があった。
 神社の社を彷彿させる朱を緩和させる為に節々に花のついた植物が飾られているが、雨天の気候の所為で花は皆蕾のように閉じていた。
 和式の造りにきょろきょろと辺りを見回している間に、ラグナは机や椅子にジンの濡れている服を並べ、終えると空いている椅子にどかりと腰を落とす。
 誰もいないのをいい事に足を放り投げてだらしなく机に肘を置いて背を凭れかける。
 さて自分はどうしようかとジャケットの前を合わせながら手持ち無沙汰に立ち尽くしていると、ラグナの右足、踵がこつんと地面を叩くのが見えた。それが何かを示すような動きに見えて辺りを窺ってみる。
 辺りには古さも新しさも感じさせぬ板張りの景色以外何もなく、その向こうの風景にも、烟るように霧深いだけで何か異変があるようには見えない。
 足癖でも悪いのかと特に気にかけず見なかった事にして視線を戻すと、また“こつん”と、先程よりもはっきりと耳に届いた。強くなった音に、やはり何か示唆されているんだとラグナを見ると、かちりとラグナの目と合った。
 肩越しにこちらを見ていて、赤い瞳のきつさのように、唇も尖っていた。
 何を、と注意深くラグナの座る周辺を観察すると、彼の座る背凭れもない長方形の椅子に一人分座れる場所があるのに気付いた。
 大きな身体で占領していたので座れないだろうと思い、じゃあどうするかと考えていたが、意外にもラグナは余裕を作ってくれていた。
 服が置かれてはいてもまだ席に余裕はあるが、ラグナの傍でないなら座る気の無かったジンは、自分の心を読まれているような気恥ずかしさと、そこへ座るように促してくる兄に嬉しさが込み上げて顔が熱くなるのを感じた。
 しかし睨むように見つめてくる兄の視線を受けているといつまでもたじろいでいられないので、恐る恐る躙り寄るように歩み寄って机に背中を向けて前に立つ。
 気付かれないよう深く息を吐き出すと、意を決したような潔さですとんと腰を下ろす。
 たったこれだけの事なのに、やたら緊張してしまっている自分に苦笑する。
 漸く座ったジンを視界の端で一瞥するとラグナの視線は前に戻った。
 欄干の向こうにある、どんよりとまではいかないが灰色の雲が波立つ昏い空は見ていても楽しくない。
 特に風情を楽しむ趣のないラグナは別の事を考え始め、隣のジンを見遣る。
「お前、今日の飯は?」
「へ?」
 突然食事の事を訊かれ間の抜けた声で返してしまうジン。
 一体どのような過程を経てそうなったかは解らないが、リアリストな兄の事だから雨が止んだ後の事を考えていたのだろう。
 そう納得するが、可笑しくなって思わずくすくすと笑い出してしまう。
「兄さん、いっつもご飯の事考えてるね」
 基本ラグナと遭遇するタイミングが飯処を探している時なので、いつもお腹を空かせているのかと心配したくもなるが、どう見ても目の前の人がご飯ご飯と面に出さずに考えているイメージがそぐわないので変だと笑ってしまう。
 妹であるジンが言うのも何だと思われるだろうが、それだけ格好良いのだ、ラグナは。
 基本人と接するのを避けているラグナの顔は無表情で、鋭い目付きに精悍な顔立ちで、普通では近寄り難い雰囲気を醸し出している。その顔立ちに相応な体躯はどこを取っても非の打ち所がなく、正に自慢の兄だ。
 そんな人目を引くであろうラグナだが、残念な所を挙げるなら、口が非常に悪いのだ。
 不機嫌そうに放つ数少ない言葉にクールといった冷ややかなイメージであるならまだましな言い方だが、耳をよく傾けてみると粗野もいい所の言葉付きの悪さに品性という言葉を期待するのは間違っているだろう。
 しかも見知った顔になると一気に外見のイメージを裏切る幼さが浮き彫りになってしまう。「バァーカ、バァーカ」と連呼する様など、さながら子供の喧嘩にしか見えない。
 そんな成長し切れていない所が見た目のバランスと反していて複雑な心境になってしまうのだが、古い記憶にあるラグナと違えていなくて、ああ兄さんだなと安堵できるのも確かだった。
 ラグナなりに体調確認も兼ねて妥当な会話を切り出したつもりだがいきなり笑い出したりして小馬鹿にされてるのかと眉間に深い皺を寄せジンに文句を訴える。
「何笑ってんだよ。馬鹿にしてんのかテメェ」
 凄みのかかったトーンだが、そういう反応がやはり子供の喜怒哀楽の明確な表現になってて、ジンは笑いを必死にこらえながらううんと首を横に振る。
「兄さん、すっごく格好良くなったのに子供の時と変わってないなって思って。……逆に安心しちゃう」
 褒められたのか貶されたのか解り辛い笑みに言いたい事がたくさん過ったが、肩を竦め口元に指を当てながら淑やかに微笑む姿は良家の令嬢のそれでいて、ラグナの記憶にある男の子だったような幼いジンと違って不覚にも動揺してしまった。
 知らなかったジンの一面を見たような、離れていた兄としては複雑な心境になりながら、前のめりになって性急にラグナが言い返す。
「そっ、そういうお前だって……! やたら小綺麗になったわりに未だ兄さん兄さんってブラコンのまんまじゃねえか!」
 本当は“小綺麗”どころではなくそれ以上の変化であったが、実の妹にそう言うのも恥ずかしいし、そんな目で見ていたのかと思われそうな気まずさがあるので、控えめな表現にした。
 圧されるようにして言われたラグナの言葉にジンはきょとんと音がしそうな程に唖然としていたが、唇に指をそえ考えるような仕草をし、一拍の間を置いて指を離しジンは言った。
「あはは、ありがとう。でも、僕の兄さんっ子は治らないと思うよ」
 笑うジンの笑顔は微妙なもので、眉尻が下がり気味で困っているというより呆れているに近い様子だった。
 ふわっと足を浮かすと上着を踏まないよう膝を折り、腕に抱いて顔を埋めた。
 隠れるように伏せてしまったジンを不思議そうにラグナは見下ろし、言葉の続きを待つ。
 ジンもラグナが見ているのを自覚しているのでいつまでも沈黙を続ける気もないが、改めて口にするのも馬鹿みたいだと思った。しかもそれを本人の面と向かってなど、尚更だ。
「だって、兄さんの事、好きだもん……」
 飾る必要も無い、単純で解りやすい言葉で伝える。冗長的な言葉など、意味が薄れて自分も相手も訳が解らず朽ちていくだけだ。
 言われた事に理解が遅れ、少しの間を置いてラグナの顔が一気に赤くなるのはいつもの事で、不意に突き出される『好き』にいつまでも慣れないラグナが、余計にジンは愛しく思えた。
 言葉を詰まらせているラグナに、続けて思いを綴る。
「兄さんといると、甘えたくなる……。虚勢も意地も要らない、裸の自分でいられる……」
 他人が求める偶像を演じる度に、心は空虚になって身体は鉛のように重くなって、全てが面倒臭いと嫌気が差してしまう。
 けれどラグナはそんな嘘めいたものを押しつけてこない。
 見栄を張ると無理をするなと宥めて、涙を流すと泣き虫がと泣き止むまで頭を撫でてくれる。
 弱く情けない己を知る唯一無二の存在。
 それが、『ラグナ』。
 隣にいるラグナの腕にそっと自分の腕を絡める。はたと驚くが、そんなラグナを余所にジンは凭れかかるようにことりと頭を預ける。くっついた箇所の熱が逃げ場を無くしてじわじわと熱が高まり、体と同化して感覚すら薄れていく。
 熱かったりぬるかったりと、自分のものとは違う温度差に気持ち悪さを覚えるジンは、人肌が嫌いだった。
 触れなければ他人などいないに等しいのに、当たってしまった箇所から態々存在を強調してくるかのようなおぞましい違和感を覚える。
 ぞわりと悪寒が走る悪意のようなそれが嫌で、日頃から手袋を外せない方が多かった。
 それでも、こうして触れているラグナは特別で、触れる度にその体温を分け与えてほしいと懇願したくなる程の切ない気持ちになる。
 互いに厚着をしている方だが、それが余計に布一枚すら煩わしくなってしまい、本人に言ってしまえば激怒されるだろうが、身も裸になりたいぐらいだ。それだけ、兄に盲信だった。
「一緒にいたいって思うのも、触れられていいって思うのも、兄さんだけだもん。それって、僕が兄さんを好きって事でしょ? それが、僕も兄さんも小さい頃からその感情を持ってたなら、今更それを手離すなんてできないんじゃないかな……」
 だから僕は、ずっと兄さんを好きでいる。
 最後にそう付け加えて、ジンは黙するように目蓋を下ろす。
 無機質で氷のように凍てついて人間味の無い自分が、『好き』と伝えれる相手がいる事と、そうしてその情感を慈しめる気持ちが自分にもあるという事実に欣喜して、言葉に尽くし難い情感を抱く。
 これらも、全てラグナから与えられたものなのだから、余計に愛しいと思えるのだ。
 言われるがままのラグナは聞いてて恥ずかしくなってくる気まずさに狼狽えていたが、俯き逃げるように目蓋を伏せたジンに何か言う事もないのにそのまま黙っていられず適当に何か言おうとした。しかし、前髪の合間から見えるジンの頬が淡く紅潮しているのに気付いて結局口を噤んでしまった。
 赤いジャケットに映える白い肌に差し込む朱が鮮やかで綺麗だとすら思えたが、それ以上に、ひどく幸せそうに微笑むその貌を己の無粋な言葉で崩したくないと思ってしまった。
 空いてる手でわしわしと白髪を掻き乱してラグナはクソと言ちる事もできず不満げに宙を睨む。

――手離したくないのは、俺もそうだよ……。

 不機嫌に引き伸ばした唇は何も言わず、何も言いたくなさそうに腕に抱きつくジンの後頭部を見遣った。
 望んでいる事は同じでも、ラグナには決して口にする事は叶わない。胸の内で押し潰して、隠してしまう。
 らしくないだとか要らぬ自尊心や気恥ずかしさが口を溶接して言葉にできず、態度で示す事すら許さない。
 真っ直ぐに想いを伝えれるジンが羨ましかった。
 沈黙のままにぼんやりと腕に寄りかかる小さな頭を眺めていたら、ジンの姿が甘えてすり寄る小動物のそれに見えて愛護心が擽られる。
 保護欲からくる情愛を感じて何となしに手を伸ばしかけた。
 けれど、手は金の髪を梳く事はなかった。
 己の内側から強く抑止する情動が突如湧き起こり、椅子から離そうとした手がぎくりと強張るようにして身体全体にまで緊張が走った。
 猫を可愛がるように軽く撫でるつもりでいたが、細く脆そうな体が自身に預けられているのを見てぐらりと気持ちが揺らいだ。
 か弱い生き物を腕に閉じ込めて守りたい情動が不意に湧き起こり、束縛的な欲求を奥歯で噛み潰すようにぐっと顎に力を入れて圧し殺した。
 動かせなくなった手は椅子の縁にかけられ、木材が“ミシッ……”と鈍い音がする程に強く握り込まれた。
 自らの異変をジンに覚らせないようラグナはじぃっと一人厳しい表情で堪える。
 自分でも気付かない内に浮き上がる『手離したくない』という想いの起源は相手が“身内だから”なのか、“ジンだから”なのか推し量れず、よりラグナの顔に深く皺を刻む要因になる。
 あやふやに揺れる気持ちとジンから目を逸らすように投げやりに首を捻ると、ジンの向こうにある雨の風景が真っ先に飛び込んでくる。
 白と灰色の烟る世界は未だ濃い。景色からの音は無く、目に映らぬすぐ頭上を屋根を叩く雨音は強い。
 この勢いなら陽が沈む前にはやむだろう。だが、雨足が弱まる気配は微塵も無い。ラグナにとってそれが余計に気を重くさせた。
 どこか上の空で不安定な気持ちのままにジンの傍にいるのは、なぜだか申し訳無さを募らせた。
 早く上がればいいがと空を睨むが、雨はまだやみそうにない。
 傍らのぬくもりは、ほんの僅かも離れそうにもない。
「……………………」
 己の中で散々に逡巡した後、首をころりと傾げる。そうすればこつりと肩にあるジンの頭を小突くようにぶつかり、金色の髪からすっと香りが立つ。手入れの届いた髪は雨に濡れても艶や薫りを失わず、芳しく安らぎを与えてくれた。
 不穏な気配がラグナの胸中に渦巻いていたが、少しずつ、少しずつと鳴りを潜めていき、眉間の皺を解いてラグナは安心しきった顔でジンに凭れかかる。
「…………」
 耳を小さく掠める吐息の音を聞きながら何も考えないように努めた。
 難しく考えなくてもいい。ただ、ジンを好きと思っているなら良い事ではないか。形を浮き彫りにしなくても、ジンは愛すべき家族なのだから。
 言い訳めいた思想に耽り、ちらりとまた雨が降り頻る景色を興味も無さげに眺めた。
 二人きりの狭い世界と、停滞してしまったような時間はまだ続きそうだった。


《終》
 

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