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 暑い季節は叩きつけるかのようなきつい雨に見舞われる事が多い。しかも魔素が満ちている世界では高所に建物があるのが常識なので、殊更影響を受ける。
 残念な事に、そのきつい雨に見舞われてしまった女性がいた。
 豪雨で烟り見え辛くなった道から街区を繋ぐ屋根のある空中回廊へと避難する。
 濡れて色濃くなった青の帽子を取り、髪についた水滴を落とそうと犬猫のように首を振ると、いつもならさらっと流れるブロンドが重そうに揺れた。
 ジン=キサラギは鬱陶しそうに頬に絡む髪を払い、ずぶ濡れになった羽織と袖を脱ぐ。
 見回りに街へ出ていたが不意に空気や気温が変わったのに気付いた。しかし、もうじき見回りも終わり統制機構の支部に帰れると余裕を見せたが、それが間違いだった。
 歩く速度を上げたが、五分も経たない内に暗雲が頭上いっぱいを埋めゴロゴロと不吉な音を立てる。鼻につく、コンクリートに雑ざる土と草の匂いがむっと強くなった瞬間、大粒の雨が頬や目蓋に落ちた。
 次いで、「ザァー……」と突如響く無情な音に軽く舌打ちをしながら屋根のある場所へ入ろうとするが、同じように突然の雨に降られ慌て逃げ込むように街の住人が集まっていて、ちまちまと群衆になっていた。
 人目を集めやすいジンはそこへ雑ざる気にはなれず、結局必要以上に濡れながら走り人の少ない所へと急いだ。
 そうしてジンが落ち着ける場所まで辿り着く頃には、空気に面する部分の色が変わる程に水を吸ってしまっていた。
 濡れた羽織と袖のリングを外して帽子も一緒に朱塗りの欄干にかける。ずしりと垂れ下がる布からぽつぽつと滴が落ち、床板に染みを作った。
 幸い、戦闘用の軍服である為厚手の袖や羽織のお蔭でその下の着物と手袋への浸水は少なく、湿気る程度で留まったので火急に着替えを用意しなければいけない程ではない。
 支部へ戻るのに道中で傘を買うという方法もあったが、どうせ雨もじきに止むと欄干に背を預け、腕を組んで暫し休息を取る事にした。正しく言えば、本日の自分の室内での仕事は終えているので急ぐ理由が無い。
 手持ち無沙汰につい今しがた通った路と、下の風景とを見比べた。
 力強く地面を殴る雨は大粒の涙を極小に砕き、霧雨のように烟っては視界を覆う。
 欄干の柱の合間から見える崖下は雲海のように白く沈んで何も見えない。
 朝の濃霧が発生したように辺りが白く染まっている空間で、自分も普段は晒さない白の着物姿になっていて、可笑しな気持ちになってくる。
 まるで、水に溶けて、空間に融けていってしまうような心境になった時、静かに――というより、恐る恐る近付く足音に気付く。
 ゆっくり近付く気配を不審に思い面を上げると、ジンの動作に一瞬びくりと肩を震わせたが、顔を確認するとすぐにほっと肩を撫で下ろす赤いシルエットがいた。
 ラグナだ。
 何を疑っていたのか、「なんだジンか……」となぜかラグナは安堵しながら歩くペースを上げた。
 向かってくるラグナに嬉々とした顔で飛びつこうとしたが、服が湿っているのを思い出し、ラグナの衣服を汚してはいけないと気遣って抱きつきたい興奮をぐっと抑える。
 代わりに頬を膨らませ、文句を言う。
「なんだって何よう。僕じゃない方が良かったの?」
 そうからかうように言うものの、ラグナが自分じゃない“誰か”を期待していたなんて考えたくなくて、否定してほしいという複雑な願いが湧いてしまって、この言葉は失敗だったなと俯きたくなってくる。
 けれどラグナはバカかとジンの揶揄を一蹴し、ジンの隣に立つとでこぴんをかました。
「うにゃっ」
 あまり尾を引かないわりに最初の痛みがやたらインパクトのある一撃に、大袈裟に見えてしまうかもしれないがついおでこをさすってしまう。
 痛がるジンに「僕」と一言だけ告げる。どうやら先程のでこぴんは一人称による戒めのようだ。
 もうと唇を尖らせようとしたが、ラグナの口からは別の話題が既に出ていた。
「そういう風には言ってねえ。……ていうか、逆だ。“お前”で、良かった」
 テンポの悪い遣り取りに一瞬何を言われたか解らなかったが、少しの間の後にその言葉の意味に気付き、淡い期待と、兄がそう言う理由が思い当たらなくてどうしてという疑問が湧き、思わず「え……」と呟いていた。
 きょとんとなっているジンを一瞥するとなぜかラグナは外方を向き小さい声でごにょごにょと話す。
「雨で視界は悪いし辺りは暗いしで、人気が無い所で白い着物の女がいたからな……その……」
 口籠り目を合わそうとしない態度にジンは一つ思い当たる節があった。ぴん、とそれに気付くと思わず笑みがもれた。
「もしかして兄さん、幽霊とでも思ったの? ふふ、まだ怖いんだ」
「なっ……!! ふっざけんな! 別にあんなの怖くねえし!」
 妹に茶化されるのが恥ずかしいのか、ラグナは顔を真っ赤にして否定してくる。しかし力強く否定しても声が上擦っていたのに気付いてないのかと思うと更に笑いが込み上げてしまい余計にラグナを煽る。
 自身の弱点を笑われればいい気分でないのは当然で、苦虫を噛み潰すような渋面でジンを睨む。
「お前なあ、て……」
 そこでラグナは欄干にかけられているジンの衣服に目が留まる。
 ふと何でこいつは薄着の白の着物姿かと疑念が湧いたが、滴が垂れる青の羽織を見て合点がいった。
「降られたのか」
「え? ああ、うん。ちょっとね」
 ラグナの視線が背後に行ってるのに気付いてジンはそう言う。
 滴が落ちる程の量を“ちょっと”と言っているのではなく、それだけ濡れてしまった事情の理由を濁す為に“ちょっと”と使ったのだ。
 群れるのが苦手なジンの事だからここまで濡れた経緯はラグナも大体は想像がつくので追求はしないが、夏場とはいえ目で知覚できる程に雨で気温が下がってしまったこの場所で肩や太腿と気温に敏感な箇所が露出している格好はそぐわない。
 厚着をしているのに、見ているこちらがうっそりと寒さを覚えるくらいだ。
 それでもけろっとした顔でいるのは本人が氷を操る刀の所有者で、寒いや冷たいに慣れている所為かもしれないが、慣れと症状は全く異なるものだ。
 薄く霧の立つ気温に、端から見るだけでは気付き辛いだろうが湿った服を着ていれば体温は徐々に下がっていく。
 常なら淡く色付いている唇が、冷えで血の気が失せてしまって青みが差していた。しかし、異変を訴えるその変化に肝心の本人が気付いていないのだから、やれやれと呆れた顔を隠す事もできず着ているジャケットを脱ぐ。
 袖から腕を抜くとジンが「やだ兄さんったら、こんな所で……」と悪ふざけを言うのでまたおでこ、今度は少し上にチョップをかました。
 ラグナは言葉につっこんだのではなく、態度に怒った。
 ほらと今しがた脱いだジャケットを突き出すと、ジンは「うう……」とたじろぐ。差し出された深緋の上着を受け取ろうとしないのだ。理由は、至って簡単。
「着とけよ。寒いんだろ」
「寒いとは感じてないけど」
「唇。青くなり出してんぞ」
 指摘されて「えっ」と自分の唇に触れるがそれで色が解る筈もなく、そうなのかと眉間を顰める。これしきで不調の兆しが出るとはと悔しそうな反応を示す。
 ラグナがまた一歩進めると、後退るジン。
 ぱくぱくと口が魚のように動くが上手い言葉が見付けれず、まるで溺れる魚が必死に酸素を求めるかのように辛そうに表情を歪める。
 ラグナの前だと饒舌なジンだが、結局何も思い浮かばずきゅっと唇を噛んで申し訳無さそうな目でラグナを見上げる。
「……いいよ。僕の服、湿ってるから羽織ったら兄さんの上着汚れちゃうよ……」
 親切心を断る罪悪感から気まずそうに顔を伏せ、ラグナの視線から逃れようとする。
 予想していたジンの言葉にやはりなとラグナは肩を竦めたくなる。
 ジャケットを頑なに拒む理由。要するに、遠慮しているからだ。
 最初に飛びついてこなかった時に既に違和感があった。いつもならと思った時点でジンが何か考えていると気付く所だ。
 そういえば小さい頃からそうだったなと既視感が湧く。
 普段は自己アピールが病的に酷いが碌でもない所で遠慮をするこの拙い妹が、余計に放っておけなかったりする。
 溜め息を一つ落とすと、ラグナはジャケットをぽんと放り投げた。赤が黒から離れて、ジンがぎょっとした表情で物体を見上げる。
 ジャケットは緩く弧を描き、咄嗟に伸ばされたジンの腕の中に無事収まる。
 受け取る形になって戸惑うジンにラグナは言う。
「下らねえ事言ってんじゃねえよバカ。そんなに汚れが気になんならクリーニングにでも出して返してくれりゃあいいだろ。……つうか、どうせ元よりそんな綺麗なもんでもねえしな」
 旅をする身なので、埃まみれになっている方が多い上着を渡すには逆に気が引けた。
 自分にとって師から貰った思い出深いものだが、常に清らかである事を望むジンには不格好で相応しくないと思うと、余計な世話かと却って居た堪れなくなる。
 そんな考えに苛立ちに似た違和感が浮かんできてがしがしと白髪を掻くとジンの方ではない明後日の方向を見る。
 要らぬ気遣いをされたり、上手くものの言えない自分自身に惨めさすら覚える。
 不意に視線を反らされ戸惑ったままのジンはラグナの様子を窺っているしかできなかったが、視線に居た堪れなくなったラグナが振り切るようにぼそりと一言呟く。
「……要らねえなら捨てちまえよ」
 自棄になってるような呟きは、僅かにだが重厚に含まれている苛立ちと、希薄な悲愴感の帯びた響きにジンはがんと頭を殴られたようなショックを受ける。
 素直でない兄の、偽りのない心配からの気遣いを無下にしている言動にああと嘆息をつきたくなった。無惨に、傷つけてしまったのと同義だった。
 不貞腐れてるようにも見える態度だが、それだけ自分の事を思い遣ってくれているのだと態度が教えてくれているその事実に、自分が馬鹿な事をしていると思わざるを得ない。
「――い、要る! 要るよ!」
 気付いた時には口が即座に否定をしていた。


 

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