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「に・い・さぁ〜ん」
後方から、甘ったるい響きを乗せてラグナの事を兄と呼ぶのは一人しかいない。
ラグナは目元を手で覆い晴天の下の不幸を呪った――次の瞬間背中に強い衝撃がぶつかる。前につんのめりそうな勢いがあったものの、普段から鍛えてる足腰もあって体勢を崩す事はなかった。
ラグナの逞しい体に細い腕をいっぱいに広げて抱きつく人物はやたら興奮していて、見た目の年齢に相応しくない程の感情表現を体で示していた。
「会いたかったよ兄さん! もう兄さんったら、こんなごみごみした所にいたら見付け難いじゃないか!」
飛びかかった背中に頬を擦りつけ、ラグナは何も悪くもないのに文句をつけてくる。
願わくば会いたくないから人が集まる場所に買い出しに来てたのだが、気運は己に向いておらず願っていない方へと事は成ったのだが。
そんなラグナの心中など蚊帳の外で、件の人物は軽く自己陶酔をしていた。
「でも僕ったらそんな中でもちゃんと兄さん見付けれるんだから健気だよねえ。これって愛でしょ〜」
背中にのの字を書きながら頬を赤らめ、べらべらと早口に喋るのはラグナの妹のジンである。
外見を一見して言えば、すらりと背の高い切れ長の目をした金髪美女だ。
しかし彼女には幼い頃から極度のブラコンが入っていて、成長するにつれてそれは薄まるどころかエスカレートし、理想の男性像は兄さんと近寄る男性を全て撃退している現在も更新中の記録の持ち主で、未だ恋愛経験無しの健気な乙女である。
しかも軍人だから『戦乙女』。少しも笑えない。
ジンの発言を軽く流して、それよりも気にかけている一人称にラグナは注意する。
「お前なあ……“僕”って言うのはやめろって言ってるだろ」
ジンは自分の事を“僕”と呼ぶ。それは幼少の頃からの癖で、普段はちゃんと“私”と相応の使い方をしているのに、ラグナを前にすると出てくる。
「え〜……いいじゃない、別に。今更直す気にもなれないよ」
ぷん、と唇を尖らせて上目遣いに睨む。
こうなった理由は至ってシンプルで、『妹』のジンが、『兄』であるラグナと身近にいられる為に“僕”を使っていたのだ。
子供の世界でも、男女の壁が作られたりする。
ラグナが大好きなジンは兄と一緒に遊ぶのが好きだったが、当時のラグナの遊び相手に男でないからと拒絶される事があった。
ジンにとって兄のオマケのような人達に仲間外れにされても泣く事はないが、兄と一緒にいられなくて泣いたりもした。
泣く妹が気にならない訳ではないが、遊びたいという誘惑に勝てない心もあって、我慢を強いる事もあった。
一緒にいられない辛さは兄の必死の説得で嫌々で承諾はすれど、ジンは納得できずいた。
性別の隔たりで兄と離れるのがどうしても嫌という気持ちから、いつしか男言葉の真似をし始めた。
荒い口調は根の真面目さもあって使われる事はなかったが、自分の事を“僕”と言ったりした。長めの髪も襟足まで短くしてもらい、スカートも穿かなかった。
『弟』のように、兄と同じ『男の子』のように。
そうした子供独特の感性と思い込みから始まったものだった。育ての親のシスターは大分その行動に困らされていたが。
その経緯を知ってか知らずか、ラグナは会う度にやめろと注意を促すのだが、面白がっているのかジンは笑ったりして軽くあしらうだけだ。
そんな事よりもとジンは体を預けながら腕に抱きついてきた。
「何か食べに行かない? 僕まだお昼食べてないからさ。本当はもう食べる気無かったけど、兄さん見付けたら行きたくなっちゃった」
えへへーと笑いかけてくる顔を、ラグナはなるべく周囲に見えないよう体の角度に気を配る。
先程から向けられてくる視線が非常に疎ましいのだ。
ただでさえ一人で歩いていても目をつけられるのに、注目されやすい統制機構の制服を着た女性が現れて更に集中の度合いが増す。
兄の目から見ても整った顔立ちの麗人はスタイルも申し分無く、無駄な脂肪がないどころか日々の鍛練で程好く筋肉もあってシルエットに隙がない。
そんな女がやたらはしゃいでいれば何事かと周囲の気を引くのも致し方無い。
兄からすれば、妹が好奇の目に晒されるのは気に入らない。野郎など論外だ。
視線を向けてくる輩に威嚇の意を込めて睨み返すと、皆一様に慌てて目を逸らしそそくさと逃げるように早足でどこかへと消えていく。
ビビリがと内心にて鼻で笑い、何人かそうやって追い払っていると、ジンがあっと声を上げてラグナの袖を引っ張る。
「そういえば新発売のお菓子とか出たし、それ買っとこう! 兄さん気になるのがあるって言ってたよね!」
お菓子、という単語にラグナは複雑な心境でジンの顔を見つめた。
食事を摂っていない人間が菓子類を主食代わりに食うなど許し難い。
幼児期に主食である米やパンを食べない子供には栄養を与える為菓子類でも許されたりする場合があるが、目の前の女性はどう頑張っても子供ではない。世間体から見れば大人だ。
記憶にある幼き姿から大分成長したというのに、甘え気質が強くなったのか、それともだらしなくなったのか、今のジンを決して良き大人としては認め難かった。
勿論、そこはかとなく注意しようが解りやすく正面堂々と叱ろうが、本人から改善される気配は微塵も感じられないが。
偏食家のくせにやたらスタイルだけはいい理不尽な妹をじっと見ていると、「やだなあ兄さんそんなに見つめないでよ」といきなり照れ出して仄かに赤くなった頬を両手で押さえ、効果音にキャッと文字が浮かんで語尾に星かハートが付いてそうな反応を示した。ダメだこの妹、早く何とかしないと。
敢えてジンの謎の照れをスルーしてラグナは問題点を指摘する。
「お前なあ、菓子なんかで腹膨らませてんじゃねえよ。そもそも、どこで食うつもりだ」
「どこって、歩きながらでも食べれるじゃない。その為の携帯食でしょ」
しれっと何の問題も無いとするジンの発言にラグナは自分の言おうとする事が逸れてしまいそうだからとつっこみを入れたい衝動を必死に圧し殺す。
菓子類を携帯食と称する辺り、かなりジンの頭の中では食べ物の定義がおかしい事になっていそうだ。今度一から食事について話し合う必要があるかもしれない。
「何で歩きながら……」
「だって兄さんと色んな所見て回りたいもん。時間は限られてるんだから勿体無いよ。そうだ、久しぶりに服も買おうかな。それで、服とか靴とか兄さんに選んで欲しいなあ。デートみたいでしょ」
花のかんばせで「ね」と可憐に笑う妹の貌を見て、咄嗟に馬鹿と言える兄がいるなら是非見せてもらいたいと自身への皮肉の意味で舌を打つ。
赤くなりそうな顔を掌で覆って隠し、呆れているように見せる。実際呆れてはいるが、顔が熱くなっているのを本人に知られたくはない。
呆れている様子を見て「あ、馬鹿にしてる」と、自分は本気なのにと唇を尖らせてジンが怒る。
妹を馬鹿にする前に、未だ妹を可愛いと思ってしまう己に呆れたんだと兄としては文句を言いたいが勿論言える筈もなく、違げえよと一言濁してジンの額を小突く。
「……この馬鹿、金に困ってねえんだからちゃんと食事くらい摂れよな」
見るだけでも細いと解るジンの手首を掴んで前へ歩き出した。上体を引かれて傾いだジンはわっと驚きながらも、急いでラグナとの距離を埋めようと進む。
ぐいぐいと連れていかれて何だろうと屡叩かせてラグナを見つめていると、横目でラグナは言った。
「喫茶店行くぞ」
「喫茶店?」と鸚鵡返しをするとぶっきらぼうな顔で頷かれる。
「“ながら食い”はダメだ。不格好だろうが。食うなら、ちゃんと座ってからだ」
まるでシスターが注意するように、食べながら歩くのは行儀が悪いとラグナは言うが、前に見かけた時にファーストフード店で買ったジャンクフードを食べながら歩いていたのを見た事がある。
ジンは単純に事実を指摘した。
「でも兄さん、この前食べ歩きしてたじゃない」
「俺は男だからいいの。お前は、女の子、だろ」
だから駄目だとラグナは念を押した。
その物言いが不服だったのは言うまでもない。ジンは数瞬言葉を失い、時が動き始めたように顔を真っ赤にしてもうと睨む。
「何それ。完全に兄さんの偏見。……それに、そういう時だけ女の子って言うの、やめてよ」
「うっせえよ。事実だろうが」
「……そういうの、ズルイと思う」
狡い。そう、狡い。
ジンは気付かれぬよう唇をきゅっと結ぶ。
子供扱いして、妹だからと甘やかして、たまに女の子だからと厳しくする。なんていう、飴と鞭。そんな態度の違いに翻弄されてしまうのだから、尚更悔しい。
ラグナに“女の子”と言われるのは、ジンにとって苦手以外のなにものでもなかった。
妹としての甘えたい欲求と、女としてラグナに認められたい欲求。二つが同時に擦れてちりりと焼かれる痛みを発する。それはきっと『葛藤』。妹にも女にもなれない、中途半端な子供の彷徨。
認めるにはあまりにも醜く、目を逸らすにはあまりにも心の軋轢が生じる事実だった。
自身の煩悶に気付かず手を引いたままあれこれと店を物色する兄を横目にする。掴む手の強さや辺りを見通す目の鋭さが、とくとくとジンの気持ちを高揚させる。緩急のある撹拌にじくじくと痛む胸を圧し殺す為に、自由な手がぎゅうっと兄の手を掴む。
手を絡められて「どうした?」と訊ねてくるラグナに答えず、手首を捉えた腕に飛びつく形で抱きしめる。
「うっわ! 馬鹿やめろっ、転けるだろうが!」
「いいじゃない、腕くらい貸してよ!」
頬を寄せれるほどくっついてくる妹にラグナは大きくなった声で抗議する。
ぎゅうぎゅうに抱きしめられるのは構わないが、密着すれば自然当たってくる胸にラグナは恥じらえと文句を言って腕を解こうとする。けれど意地の塊のようにジンは齧りつかん勢いでしがみつき「いーやー」と粘る。
「それとも兄さん、僕と並んで歩くのはイヤ……?」
しゅん、と一瞬でジンの表情が落ち込む。
悲しげに眉をつり下げ声の大きさを僅かに落とせば、やはり喉を詰まらせるような顔で怯む。ラグナが苦手とする貌だ。
「だーかーら、そういう問題じゃ無えって!!」
もう少し人目を気にしろとも言いたいし、そもそも兄妹なのだからと言いたかった。
懸念しながらラグナは辺りをちらりと盗み見したが、不安は的中しており、騒ぐ二人を周囲の人間が奇異の目で見ている。
中には、カップルらしき男女がこちらを見て微笑ましいものを見るようにくすくすと微笑っているものもいれば、呆れとも妬みとも取れる独り身であろう男女達の視線が刺さる。
自分達の仲を勘違いされているだろう空気に気恥ずかしさが募るのと、意固地なジンの我が儘に勝てそうになく、ラグナはくそと観念の毒を吐き、辺りの視線から逃げるようにしがみつくジンを引っ張っりながら足を進め出す。
解かれなかった事を喜びにこにこと頬を寄せるジンを脇目にして、傍らの存在を引き剥がすのは諦める。
どうしてこうも幼い存在には勝てないのか。
自身の刷り込まれた兄気質に振り回されながら、ラグナは痛む頭を宥めようと額に手をやった。
《終》