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 愛は毒だと思っている。
 甘過ぎる蜜は却って嫌悪されるように、注げば注ぐほど与える側も受ける側も狂っていく。
 だから『私』は狂っている。兄に狂っている。
 兄を誰にも取られたくない気持ちは、他の宗教を弾圧する信仰心に似ていると思っている。
 崇拝するように兄の事ばかりを考え、他を視野に入れようとしない。正常とは言い難いだろう。
 けれど“兄狂い”ではあるが、自身が狂っているとは思っていない。
 狂っている、と自分の想いに銘を打てば、その感情はあっという間に嘘になってしまうものだ。
 言葉に表現できるほど、身内に恋をする事は生優しいものではない。片想いなら尚更だ。
 だからこの苦しみは、自分だけが抱えていればいいと、諦めている。


 好き、好き、と言えば顔を引き攣らせ、耳を塞ぐようにして逃げる兄。
 つんと跳ねた白い髪が兎の耳のように見えて可愛らしい。脱兎の如くとはこの事だ。
 歳上のくせに歳下を上手くあしらう事も出来ず逃げる兄にもっと逃げてよと赤い背中を追いかける。
 割と強いと自覚している加虐心がいかんなく発揮されながら、照れる兄の背をずっと追いかける。

「好き好き兄さん大好きー」

 ずっと見てきた背中が前にあるのは落ち着く。
 いつの間にか消えていた背中。小さい頃に見たものとは比べるのも馬鹿らしくなるぐらいに大きくなっている兄の背中。
 それでも変わらず兄は困った様子で逃げの一手。
 可愛いなあと、昔は思いもしなかった感情を抱きしめて、ひたすら背中を追いかける。

 けれど、いつもふたりには距離が空く。

 性別とか、歳とか、生き別れた事とか。とにかく、“世界”は『私』達が同じである事を拒絶する。
 その癖、『家族』として生み堕とすのだから性質が悪い。
 繋がっている筈の『血』が、自分達を決定的に引き離す。

 そんな苛立ちを抱えている『私』を余所に、兄は少しずつ、ゆっくりと、確実に、距離を作っていく。
 かけっこで兄がいつも勝っていたから、自分は敵わないと解っていた。
 だから少しずつ遠ざかって小さくなる背中を見つめるのは、『私』の務め。
 懸命に走っても、届かないのは解っている。
 だから兄の背中を見失うまで、『私』はその背中を見つめる。


 息が切れる頃には兄の姿はなくなっている。いつもの事で、慣れた事だ。
 兄の反応を充分に楽しんだし、走るのにも疲れたし、休もうと場所も構わず腰を下ろす。足はじりじりと痛み、もう嫌だと弱音を吐いている。
 気持ちも、真っ白に近くて何も考えてはいない。ただ俯き、疲れたと譫言のように繰り返すだけ。

「……兄さん」

 誰もいないのに兄を呼ぶのはひどく薄ら寒くて嫌だった。一人だと、身を刺す程感じてしまうから。けれど、その名を呼べば空っぽな胸が満たされる気がして口にする。
 目蓋を閉じれば網膜に焼きついた兄の顔が浮かぶ。
 鋼のような白髪に、鮮烈な対極を宿す双眸に、身も心も焼き焦がすような赤。
 一つ一つ思い返して、けれど違うよと否定をして。
 自分の中にいるだけでは満足出来ていないのは識っていた。
 肉体も、声も、想いも、全部全部欲しかった。
 けれど叶わないとも識っていた。人は他人を所有する事は出来ない。物のようにはいかない。
 だからこそ子供の我が儘と同じで自身の独占欲が凶々しいまでに膨れ上がったのだ。
 この汚いと自覚している感情を、兄は純粋と錯覚しているようだが。
 歳上にありがちの、歳下に抱く夢見がちな幻想。ありのままの、偽らない姿を無垢と兄は思っているだろうが、そんなものは残念ながら持ち合わせていないし、そもそも存在しているとは思っていない。
 ただ、自分を見てほしい。
 その欲望にうつくしさなどありはしないのだから。


 休んでいるのに、息が苦しくなって胸を押さえる。ありもしない器官を労るように俯き息を整える。
 いっそ横たわろうか……。
 そうぼんやりと考えていたら、足音が聞こえた。
 伏せた目蓋を上げると、視線の先に見覚えのある靴が見えて顔を上げる。
 あったのは、鋼のような白髪に、鮮烈な対極を宿す双眸に、身も心も焼き焦がすような赤。
 少し違うのは、気遣わしげに目の端が落ちている事。
 態々戻ってきたのかと、物珍しそうに兄を見上げる。
 兄は座り込む『私』を見下ろし、どうしたものかといった様子で困っていた。
 逃げていた筈なのに、どうしてこの人は戻ってきたのかと、不思議な気持ちになる。
 けれど解ってはいた。
 でもそれは嬉しいと悲しいを同時に彷彿させる理由だから目を逸らす事にしている。

 視線を外しては戻して、また外してはまた戻しての繰り返しで地面に貼りついたように動こうとしない『私』を見下ろす兄。
 当たり前だ。だって『私』は逃げ出す兄を待っているのだから。
 届かないと解っている。でも捕まえれるかもと期待をしながら追うのは好きなのだ。
 だから、早く兄に逃げてほしかった。

 早く、背を向けて、走り出してよ。追いかけるから……――。

 物言いたげな自分の視線を受けて兄はきゅっと唇を噛み、すっと手を差し出した。「掴まれ」と言っているのだろうか。
 逃げろという意思は全く伝わらず、助けてよと解釈されたのだろうか。どうしてここまでこの人は鈍感なのだと、逆に感心出来た。

 ……そんな風に優しさを見せられたら、勘違いをしてしまう。

 ……手が届くのだろうかと、夢想してしまう。

 手を取ろうとしない『私』に痺れて兄が更に体を傾け、地を撫でるようについていた手を掴んでくる。
 無理矢理に立たそうとするものだから、手を引く力を言い訳に兄の胸にここぞと飛び込んでいく。
 驚き飛び退きそうになるがひしっと抱きつけば動揺して抵抗が緩むので離そうとしなければ兄は逃げれない。
 悔しくて、悲しくて、でも好きで仕方無い。ごちゃごちゃする感情を制御出来ず、ぎゅうぎゅうと兄が苦しげに顔を顰める程に抱きつくしかできない。
 身近に兄がいる筈なのに、自分のものではない現実に胸が痛くて、息が苦しくて、泣いてしまいたかった。
 そんな自分を見て何を思ったのか頭を撫でるのだから、本当に最低だと思う。
 無駄だとわかっていても、しつこく夢を見てしまうのはいつも兄のどっちつかずの優しさの所為だった。


 夢を見るのは嫌いだ。
 泡沫のように儚く割れて消えるから。


「……バカ……兄さんのバカ」

 そうやって甘やかさないでほしい。

 もっと強く撥ね除けて拒絶さえもして欲しい。
 そうすれば『私』は惜しみなく兄を憎んで、惜しみなく愛せるのに。
 遠慮無く、歪み捩じ切れそうな恋情で圧し潰してあげれるのに。

 拒絶してくれないのなら。

 ――この魂ごと愛してほしい。

 青を赤に。白を黒に。跡形も無く侵蝕し、他のものへと染め上げてほしい。
 己の存在意義を明確に束縛し、この手に、この首に、武骨な指を絡めてほしい。


 『私』はあなたから逃げない。

 『私』はあなたから逃げれない。


 《獣》のあなたと、《狩人》のわたし。

 いつかどちらかが喉頸を掻き切るまで、この円環は終わらない。


《終》
 

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