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「あー……そのぉー……あいつはー……」
 声を伸ばして時間を作っても名案となる答えが出る訳もない。寧ろ言い澱んでいるのがバレバレだ。何か言おうにも巧い言葉は浮かばないし、だからといってはぐらかせば肯定したと同じだ。
 女の目が細められ、隠し事は通じそうにない強さで睨んでくる。
 人間焦れば焦るほど不利な方へと追い詰められているのは解っているのについ目を泳がせて言葉を濁らせてしまう。
 この女性は患者の味方で、決して悪い人間ではない。人に害を成さない限りはこんな犯罪者でも匿ってくれる人なのだから、いっそ言ってしまおうかと腹を括ろうとした瞬間、落ち込んでいたジンが横から口を挟んできた。
「僕は兄さんの嫁だ」
「…………ハ?」
「あいつの脳内設定デス」
 間髪入れずラグナが注釈する。
「あいつ、頭の病気でたまにおかしい事を口走るんです。俺の事も兄と勘違いしてるんです。というかたまに変な世界にいるんです。可哀想な奴なんです。そっとしてあげてください。いえ寧ろよろしければ頭の中診てやってくださいお願いします先生」
 一息に言い切ったラグナの目は死んだ魚のように生気が無く濁っており、流石に何か追求し難いものを感じて女も言葉を詰まらせた。
 「酷いよ兄さん……」となぜか顔を赤らめるジンの頭を殴りながら殺気に似たオーラで拒絶する。
 踏み込んではいけない領域を感じ取り、女は大人しく身を引いた。
 過去に大事な人が境界を越えるのを止められなかった事があったが、多分その経験は関係無い。理性が引き下がった方がいいと警鐘を鳴らすのだ。
「……まあ、脳は専門外だから無理だけど……」
「うっ……」
 棚から掌に収まる位の道具を取り出すとボタンを押してジンに身を乗り出し、耳にそっと当てる。人に触られる事を嫌がるジンが思わず声を出してしまい、ぎゅっと目を瞑って堪える仕草が可愛いなと思ってしまうが、そう思った事自体を忘却するのにラグナは力を注いだ。
「はい、終わり」
 一秒程で計り終えたのはジンの体温。身体の状態を知る基礎の数字から取るのは当たり前だ。
 元気そうに叫んだり暴れたりしているので問題は無いだろうが、倒れていたという事もあってちゃんと診てあげようとしたのだが、女の表情が変わった。
「あなた……何でそんな平気な顔をしているの……?」
 我が目を疑うといった顔の女がラグナに見えるよう体温計を翳す。ラグナも数値を確認すると反射的に女の手から体温計を引ったくった。
「39.7!? バカかテメェッ!!」
「?」
 きょとん、と首を傾げるジンの体温は基礎体温から順調にかけ離れてもう少しで40度に達そうとしていた。涼しげな顔をしているので解らなかったが、明らかに健康体が持つ温度ではない。
「風邪かしら……。インフルエンザのようには見えないし」
「風邪……」
 女の推測にジンも自覚の足りない様子で呟いている。
「そうか、身体が上手く動かないと思ったら風邪か。何年振りだろうな……。久しぶり過ぎて感覚も忘れていた」
 はあ、と息をもらして手の甲を額に乗せる。
 まるで他人事のように呟いているが、きっとジンにとって本当に他人事なのであろう。ラグナを追って統制機構を抜け出し、一人でここまで追ってきたのだ。無茶のレベルでは済まされない。
 ここに来るまではきっと健全な暮らしで身体を労った生活をしていたのだろうが、軍の枠から外れ勝手が異なるカグツチで到頭疲れが出てしまったのかもしれない。
 たまたまあの路地裏で倒れてるジンを見つけたのがラグナだったから良かったものの、もしそうでなかったら何があったかと嫌な汗が浮かんでくる。
 まるで死ぬ事を恐れていない弟の無謀な振る舞いに、ラグナはぐっと拳を握る。
 体温計を仕舞いジンの掛布を直すと女は立ち上がる。検査の準備を始めるのだろう。
「どちらにしろ安静にはしないとね。ああそうだわ、名乗り遅れたけど私の名前はライチ。ライチ=フェイ=リンよ。見ての通り医者をしてるわ」
 にこりと母性的な笑みを浮かべる。
 ジンはむうと口を噤み、ついとラグナに目を遣るがラグナの細められたきつめの目で催促をされるので、嫌々そうにジンは応えた。
「……ジン=キサラギ」
 その名前を聞いてライチはまた驚く。
「あなたがあのイカルガの……。こんな可愛らしい青年だと思ってなかったわ」
 可愛らしい、という言葉にラグナの眉がぴくりと動くが、確かに今日目覚めてからのジンの行動は狂人染みてはいなかった。変な妄言は出てきたが。
 けれどそれを差し引いたら、確かに記憶にはないが懐かしい雰囲気を感じた。
 『家族』としての、ジン――。
 それがやけに懐かしく、おかしな響きで喉が詰まりそうになる。
 戻れない過去に思いを馳せながら、この場に二人だけいるのが何だか狡く感じた。
 生死も定かでない『妹』の事を考える。
 そんなラグナの顔を見ながら、ジンもまた秘かな孤独感を抱いていたのにラグナは気付いていなかった。


  ◇


 検査の結果ライチに風邪と診断され、ラグナから部屋を出るなと軟禁紛いな扱いを受けてジンはベッドに転がっていた。
 仕事もない。読み物もない。寝転ぶだけで退屈この上ないのだが、呆けたようにずっと天井を見つめていた。
 ラグナの言葉に従う義務は己にはない。部屋に鍵をかけられた訳でもないから扉なり窓なり使って立ち去る事は可能だし、弱った身体を無視してラグナに死合いを申し込む事だって出来る。
 けれどあれほど求めたラグナを前にして、全く動く気になれなかった。意思が身体を動かす事を拒絶していた。指先一つ動かそうとしない。
 空間を超越してジンの愛刀、ユキアネサが直接頭の中に自らを喚ぶように呼んでいる気がしたが、外界への意識を全てシャットダウンする。
 何も考えない事に対するジンの構えは正に“本物”で、誰の声もジンには届かない状態になっている。
 忘却の彼方にいるような心地が、煩わしいものからジンの心を守る隔壁でもあった。
 汚れのない白い天井を見ていたら落書きのような線に気付いた。正確には、ずっと視えていない振りをしていた“黒い線”がやけにはっきりと目に映るのだ。
 中空に貼りついているような目障りなそれはどこかへ誘うように伸びている。地割れのように枝分かれした先を何となく目で追ってみると、扉の向こうに伸びているものがある。この診療所の構図は知らないが、扉が隔ててる向こうには兄がいる。
 もしやこの線は己の兄への執心から生まれたもので、在処を指し示しラグナへと繋がっているのだろうか。
 そんな妄想に嘲笑してしまいそうだが、納得出来ない部分がある。もしそうなら、黒い線は一本だけで事足りる筈。枝分かれした線はラグナとは反対の方を向いているものもあった。
 結局は何だろうか解らず思考を止めると線はまた見えなくなった。ノックの音がして、そこに意識が向いたからだ。
 返事を待たず「入るぞ」と無愛想な声と共にやってきたのはラグナだった。
 てっきりライチかと思っていたジンは驚きを隠せず「えっ!?」と声を上げた。
「な、何で兄さんが……!?」
 いちいち自分の動きに過剰な反応をするジンに面倒臭げな顔をしてぶっきらぼうにラグナは言った。
「あの姉ちゃんだって仕事があんだろーが。お前一人にべったりな訳ねえよ」
 ライチはこの近辺では知らぬ人がいない程の知名度に加え、住人からは絶大な信頼を得ている。母性的な振る舞いが男女問わず怪我だけでなく心も癒してもらえるのだろう。故に来訪者は多く、ジン一人に構っていられないのも確かだった。そこで手が空いているラグナがジンの世話を見るのは極自然の流れである。
 ぱたん、と扉が閉まると急に鼻孔を刺激する香りが部屋に充満する。その香りは、ラグナが持ってきたトレイに乗った器からしているようだ。
「兄さん……それは?」
「お前の飯だよ」
 ライチが用意してくれたサイドテーブルにトレイを乗せると横たわっているジンの身体を起こそうとする。
 ラグナの気遣いに気恥ずかしくなって一人で起きれると断ろうとしたが、折角動いたのに断られるのも癪だと結局強引にラグナの手に支えられながら身を起こされる事になった。
 思わぬ接近にドキドキしつつ、温かそうに湯気立つテーブルの食器の中をちら見する。
「あの……あれって、インスタント?」
 複雑そうな表情で妙な確認をするジンにラグナは思いっ切り顔を顰めた。失礼な奴だと怒っているようだ。
「んな訳ねえよ。俺が作ったやつだ」
 インスタント食品で元気になれるかと、最高峰の賞金首らしからぬまともな信条を持っていた。
 立場上仕方無いが、常に貧困生活に喘いでいる身なのに味に関しては煩い面を持っているのがラグナの面白い所だと思われる。
 ジンを躱してベッドに腰掛け、食えと眼前に器を押しつけるが頭を振ってジンは嫌がった。
「やだ! 無理! どうせ兄さんの料理なんて肉が入っているんでしょ!」
 折角起こしたというのにばふんと盛大な音が鳴るほど派手にベッドに倒れ込み、顔を枕に沈めて嫌々と叫ぶジン。
 幼少の頃より肉類は好きではないのは知っていたが、大人になった今でもまだ肉が食えないのかと呆れてしまった。しかもジンと反して自分は肉類が好物だから、それが入っているのが前提な物言いをした。
 しかし、そんな偏見に固まった発想も想像ついていたラグナがそれくらいの理由による我が儘で諦める事も怒る事もなかった。
「いいから食えって」
 掛布を被ってまで逃げようとするが布一枚で現状から逃げれる筈もなく、ぐいぐいと引っ張ってまたジンを掘り出す。
「イヤ、嫌だってば……!」
 起こそうとするのを必死に身を捩ったりして邪魔をするが、力強いラグナの手を振り解くのは困難で、背に腕をもぐらせると瞬く間に引き起こされ、囲うようにして器用に肩を右手で固定する。
 抱き込まれる形になってジンは緊張のあまりびくりと身体を震わせ、急に大人しくなる。兄の心拍が聞こえそうな近さにどきまぎしてしまう。
 逃げ出せないようにホールドすると左手でスプーンを扱いジンの口元へと料理を運ぶ。
「ほら、口開けろ。アーン」
 いい歳こいた男がなぜ“アーン”を言わねばならないか複雑だったが、そんな虚しさを無下にしながら尚もジンは食事を拒否する。
「ん〜……っ」
 逃げれないと解るとぎゅっと目を瞑り、唇を頑なに閉ざす必死さに呆れを通り越して感嘆する。
 昔は肉を口にするのをどうしても嫌で泣いたりして手に負えなかった分、成長したといえばそうなるが、進歩はしてないなと思う。
 はあ、と溜め息を落とすと不本意だがジンの意表を衝く言葉を使った。
「口開けねえなら……王道の口移しになるぞ」
「ええっ!?」
 解りやすい冗談と本当の事しか言わない兄からの有り得ない発言に思わず言葉を発して驚いてしまう。
 待っていたラグナはその隙を狙って喉を突かないようにスプーンを口の中に放り込んだ。
 「むぐっ」と変な声が出たが、性格からかがむしゃらに吐き出そうとはせず、恐る恐る具材を噛んで確かめるジンに、どうだと言葉にせず目で様子を窺う。
 ゆっくりと口を動かしていたが、コクン、と喉を通る音を確認するのと同時にジンの目が大きく見開かれた。
「――おいしい……」
 良好な感想にラグナは少しだけ得意そうに笑いながら拘束を解いた。この反応なら自分で食べられるだろうと。
「クリームシチューの風味を加えたリゾットだからな……とはいっても消化の事を考えて米は柔らかめに煮込んであるけど。多少濃いめに作ってるから味もわかんだろ」
 調理に時間をかけない為に小さく切られた野菜、ふっくらとしたお米一粒一粒に味が染み込んでいて口の中で万偏なく風味が広がる。
 味がしなくて食欲が落ちるといった事はまずないだろう。
 偏食気味の弟の舌に合うのを確認したら台所の片付けの為にスプーンを渡して部屋から出ていきたいのだが、差し出したスプーンをジンは一向に受け取ろうとしない。じいっとラグナの目を見て何かを訴えてくる。
 物言わぬ態度に料理に対してまだ不満があるのかと睨みながら面倒臭げに何だよと訊くと、察しの悪いラグナにもうと唇を尖らせて上半身を前に傾ぎ、徐に口を開いた。
「――んあ」
 雛が親に餌を貰うように丸く口を開けて“アーン”を催促する。
「自分で食えよっ!!」
 最初の行動は味を理解させる為に手ずからしなければならない仕方の無い事であって、なぜその目的を果たした後も野郎同士で“アーン”をせねばならないのだ。
 ラグナは事の展開に毛を逆立てる勢いで憤慨した。
 しかしここで断固拒否を掲げても、ジンからの更なる拒絶行動が起こるのも想像に易かった。
 血の気が下がっていくのと同時に、嫌でも溜め息が出た。


  *****


「はい、終わりですよ。今日からギプスでなくていいですから。でもまだ重い物を持ったりするのは控えてくださいね」
 レントゲンと比較しながら患者の手を診てライチがにこりと微笑む。
 症状の回復に患者はよかったと喜び、ライチに礼を言いながら会釈して診察室を後にする。
 お大事に、とお決まりの言葉だが慈愛のこもったライチの声に患者はありがとうと満面の笑みで感謝し、扉の向こうへと消える。
 背凭れに背を沈めてふうと一息をつけて、この後のスケジュールを思い出す。
 予約の客はいるが夕方からでそれ以外の予定はないし、訪れた患者も先程のが最後で待たせている患者はいない。
 ちょくちょく街を歩き回るライチは患者ともいえる街の住人の体調を殆ど把握している。その為診察に来た患者の容体をすぐに理解し、手早い処置を施せているのが彼女の凄い所でもある。
 デスクに置いてある時計を確認すると昼食には程好い時間で、空腹感があるのも否めなかった。
 仕事に戻る前、意外な患者を連れてきた賞金首である筈のラグナが、これまた意外に昼食を作ってくれるそうだ。
 失礼であるがインスタント料理を愛好しているように思えてその腕前を心配したが、舐めなさんなと得意気な顔をしていたので僅かな期待と大きい不安を抱えながら任せてはみた。
 まともなものが出るといいのだけれどと苦笑混じりな本音の笑みを浮かべつつ、人の足も減ったのだし休憩の頃合いだろうと判断して席を立つ。
 するとノックをされて控えめに扉が開いた。
「あの……ライチ先生……」
 扉からちょこ、と隠れ気味に女の子が顔を出す。
 健康的な小麦色の肌に、青藍色の髪と大きな瞳が可愛らしい活発な女の子なのだが、なぜか今は困った様子でライチの顔色を窺っている。
「あら、どうしたのリンファ?」
 言い澱む姿に何か問題でも起こったのかとリンファの身を案じながら訊ねると、眉を八の字にしてどう表現すべきかと悩んでる様子で恐る恐る内容を申告した。
「あの〜……お客……でいいのかなあ〜、あれって……。先生に用事があるって人が来たんですけど……」
「用事って?」
 好意的ではない、仕事の内容とは関係の無さそうな物言いに首を傾げつつ先を促す。
「それが……」
 リンファの口から聞かされた内容に思わずライチの唇が一文字に引き伸ばされた。穏やかな心境が一気に吹き飛ぶ。彼女がいやに言うのを躊躇った理由もすぐに解った。
 不味い事になった、と認めざるを得ない。
「わかったわ……。私が対応しますからあなたは部屋にいてね。それで、“騒ぎ”になった場合、真っ先に逃げる事。良いわね?」
「先生……! でもっ」
「――良いわね?」
 強くなった口調に穏やかな笑みがなくなったライチの表情にリンファは気圧され、散々間を溜めた後に「はい……」と渋々ながら頷いてくれた。そうならないように努めるが、“もしも”の場合に備えてこのか弱い少女の安全をまず優先せねばならない。
 (他にも奥に二人いるが彼らは問答無用で例外だ)
 勝ち気な少女なだけあって、尊敬するライチを見捨てるような真似は後ろめたいのだろう。しかし、リンファの心配は嬉しいが誰が守る立場にいるのかはっきりせねばいけない。
 取り敢えずの所不本意そうだがちゃんと返事をしてくれたリンファに、ライチも「よろしい」と笑みが戻る。
 一通り流れが決まると、腹を据えたようにして『客人』を迎えに行く。
 “もしも”の場合にならない事を願いながら。


《続》
 

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