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 それだけの変化を、成長を、無事に遂げたジンにラグナは喜ぶ反面、複雑な思いで妹を見ていた。
 今のジンは、ラグナ自身がイメージしていたものとは全く違っていたのだ。
 邪魔だと疎んでた髪は短いままで、女の子の割につり目がちの凛々しさで中性的な雰囲気を纏っているのを想像していた。
 ずっと男の子のようだと思っていたジンは、けれど“意外”という形であっさりと崩壊した。
 想像は都合の良い妄想のように何一つジンの変化にそえていなくて、無性に、ありもしない距離感に圧された。

――まるで他人のようだ……。

 『家族』という自分とジンを繋いでいたものが薄れてしまったようで、そう思ってしまったラグナの表情が徐々に重い色を帯びていく。作り笑いのような安っぽい笑みになりそうで何とか無理に口角をつり上げようとしたが、ジンが不意にちょこんとラグナの額に横手をそえてきて、意味が解らずラグナの目が丸くなる。
 背比べのような仕草はやはりそれで、「背」と一言だけ口にしてジンが綺麗に笑う。
「兄さんも、身長ぐんと伸びたね。昔は背中に乗せれたけど、今だと流石に僕も潰れちゃうかな」
 背中――というのはおんぶとかではなく、身体の筋を解す為の体操の事だ。
 互いに背中合わせになり肘を組んで引っ張るように反らす運動。よくやったなとラグナも思い出す。
「それに……眼、どうしたの?」
 下からずいっと緑色の目が覗き込む。
 ラグナを怪訝に見つめる瞳は同じ色合いで揺れる緑ではなく、妖しく煌めく“赤”を射抜くように睨んでいた。
「それ、カラーコンタクト?」
「いや、違げえ……」
「違う……? まさか移植でもしたの!?」
「それも違う……」
 失明するような事故でも遭ったのかとジンは心配するが、違うとラグナは首を横に振る。
 正直、ラグナにも説明が難しいのでどう言えばいいかと考えあぐねたが、結局口下手に上手い言葉が見つけれる訳もなく「色々あってな」と極度に濁した言葉で誤魔化した。
 勿論ジンもそれで納得できないが、説明に困っているラグナを話したくないと解釈して問い詰めるのはやめておいた。しかし、まだ不満そうに見ている箇所があった。
「髪は……どうしたの?」
 揃いの筈だったラグナの金色の髪は色が落ちてしまったかのように白く透け、陽の光で銀色に透けて輝いていた。
 じいっ、とジンが見つめる白髪をラグナは気まずそうに指先でちろりと摘まみ上げる。
 幾何か逡巡するが、身内に変に隠す事ではない。
 そう考えて、ラグナは苦笑気味に説明をする。
「これ…な……。“あれ”から暫くしたら、何でか色が抜けてったんだ」
 あれ、と言われてジンは何の事か解らず目を屡叩かせた。しかし、語りながら落ち込んでいく兄の瞳の色合いの動きで何の事かすぐに察する事ができた。
 互いが共有する家族と過ごした時間は決して長くはない。だがその時間の中で根深く息づいている出来事は幾つかある。その一つが、恐らくそれは兄妹の中で一番忘れ難いショックであろう、『シスターの死』だった。
 ある日、何の前触れもなく死んでしまったシスター。
 親のいないラグナ達兄妹を独り身で育ててくれた、親代わりの剛くて優しい女性。
 皆で朝食を摂り、祈りを済ませ、溜まっていた洗濯物を干しにせわしく庭へ出て行って、そのまま事切れていたシスター。
 それを最初に見つけたのは、珍しく自発的に手伝いをしようと外に赴いたラグナだった。
 ジンは知らず声をもらしそうになり、けれどゆっくりと手を翳して口元を覆う。
 訊いたのは自分だ。それに対して相手の回答に勝手に己が罪悪感を抱くのは間違っている。
「そっか……」とジンは頷いて少しだけ視線を泳がせた。
 目を逸らすのは、兄への罪悪感からではない。
 シスターの突然の死は、ジンにとっても納得のいかない無情で理不尽な悲しい出来事だった。
 前触れの無い別れに意味が解らず落ち込む人達を遠目にしていたが、日を重ねる程にもう彼女が家の扉を開ける事はないんだと、漠然と実感した。
 茶目っ気のある、淑女ならではの穏やかで魅力的な笑みが脳裏を過ったりする度にもうあの笑顔には会えないのだと目頭が熱くなったりもした。
酷い時は彼女との常しえの別れに目元が腫れるくらい泣き暮れたりもしたが、逆に言えば、それだけだった。
 涙腺が痩せ細ってしまうくらいに涙を流したりもしていたのに、気付けば涙は収まっていた。こんなにも、あっさりと。あんなにも哀しんだのに関わらず。
 兄は、重過ぎた死のショックで髪の色が変わる程に、深くその身にシスターの存在を刻んで残しているというのに。
 兄が示唆するまでその存在を思い出そうともしなかったあまりにも薄情な自分自身に苦笑せざるを得ない。
 ジンにとって、生きていくのに必要なのは『ラグナ』だった。勿論シスターの事は本当に愛していた。けれど、それを上回る存在がいるからこそ彼女を蔑ろにして、受けてきた寵愛を裏切る酷い女だと兄に責められてもおかしくないだろう。
 僅かに歪んだ複雑そうな口元にラグナはどうしたのかと怪訝に眉を顰めるが、ジンは気にしないでと曖昧な笑みを浮かべた。
 自分の醜さに傷ついているなど、反吐が出そうで言えはしない。その代わり、自分の事よりも目の前の兄に視線を戻した。
 真っ直ぐに見上げられても言葉の無いジンにラグナはどう対応すればいいか解らずいつもと同じ仏頂面で妹を見下ろす。
 静かに観察するように見つめていたジンは、無表情に見つめてくるラグナにくすりと小さく笑って、徐にラグナの広い胸に凭れかかった。ぽふっ、と軽い重さが胸板に乗って苦しくはないが、突然の事でラグナは身を固くする。
 とくん、と響くあたたかな音にジンは愛しげに頬擦りをした。
「変わらないな……」
 ぽつりと落とした呟きを何がと気にすれば、ジンはより深く笑みを象り“体温”と短く紡ぐ。
「僕の手はこんなにも冷たくなったけど、兄さんは今もあったかい。変わったとこはあるけど、僕の大好きなとこは何も変わっていない……」
 本当はラグナの手で頬や身体に触れて欲しかった。布越しでも解るあたたかさは、幼い頃に繋いだ手のぬくもりと同じだった。
 あの手に触れられているだけで幸せだったと、誰が知っているだろう。
 成長と共に冷えていった己の手と違う、今もきっと同じあたたかさを持つ大きくて武骨な手。そして、ラグナ自身が気付いていない優しさが、何よりも好きだった。
 ぶっきらぼうで雑で文句も多いけれど人が困っていると放っておけないお節介な気質は、見ている側のジンは好きの気持ちが過ぎて周囲に嫉妬してしまう事もあったけれど、詰まりはそれだけラグナの事が好きという証でもあった。
 とく、とく、と規則正しく鳴り打つ心音を聞いていて、どんどん昔から抱いていた想いが溢れ返ってきてジンは腕から体からとむず痒さを覚えてくる。
 離れてしまったあの日からずっと傍にいなかったぬくもりが目の前にあって、眺めているだけ、で満足できる程ジンの欲求は浅くなかった。

――やっぱり僕は…………。

 だらりと下がっていただけの腕がぴくりと跳ねると、がばっと物凄い勢いでラグナの背に絡みつき込めれるだけの力でぎゅうぎゅうと抱きしめてくる。
 突然の抱擁に呆けていたラグナは驚いてぎゃあと叫びそうになったが矜持が働いて懸命に悲鳴を飲み込み、何だとしがみついてくるジンを見下ろし問いかけようとしたが、密着した所為で胸と腹の間に不意に触れてきた柔らかさに言葉を詰まらせた。
 下らない動揺に翻弄されながらラグナはどうすべきかと回らない頭で考えていたが、胸にうずめている顔が身動いだ時にちらりと表情を覗かせて、感極まった様子でジンは言った。
「兄さん、大好きっ……!」
 エフェクトがかかったようなはっきりとした音色で言葉はすうっと耳に吸い込まれた。
 林檎のように頬を赤に染めて、くしゃりと緩んだ笑顔で好きと告げる妹は、ずっと記憶にあったものだと、ラグナは目を瞠った。
 古いフィルムで再生するように男の子のようだったジンが脳裏で微笑む。けれど何て事はなく、目の前のジンもあの頃と同じ微笑みを浮かべて同じ言葉を囀っていた。
 何も変わらない笑顔で――。
「…………」
 すとん、とラグナの胸に引っかかっていた蟠りが綺麗に落ちた。落ちるというよりも、さらさらと消えてしまった風にも感じたがそんな事はどうでもいいかと苦笑する。そんな違和感よりも、根深くいつこうとした違和感が失せていったのだから。
 ラグナは呆れるような、安堵したような顔で胸の金糸をさらりと撫でた。一度二度と撫でるとわしわしと整っている髪を乱暴に掻き乱した。髪を乱され「キャー」とジンがはしゃぐと「バーカ」とラグナも笑ってジンにでこぴんをした。
「お前も変わってねえよ。見た目ばっか変わって、肝心の中身は成長してねえな。甘ったれなトコも、馬鹿なトコも」
 親鳥に連れ添う雛のようについて回る幼子は今もここにいるとラグナは気付く。
 「ひどーい」と怒ってる風でもなく言葉のみで非難するジンは自覚する所があるのだろう、くすくすと楽しげに笑っていた。
 兄さん、兄さんと、馬鹿の一つ覚えのように己をずっと呼んで、応えねば泣いてしまいそうな甘ったれはラグナが識る泣き虫な妹。
 そういえばと、ジンの性格を知らない大人が見ると彼女の事を真面目で利発な女の子だといつも褒め称されていたなと薄らぼんやりと思い出す。
 家族に見せる年相応の不器用な少女らしさと、他人の前ではそうでない大人びた表情や言葉遣いになる聡明なジンのちぐはぐな二面性に、解りやすい程単調な性格であったラグナの目からは眩しく見えて子供ながらの憧れがあったなと、当時の自分に我ながらガキらしいと呆れてしまう。
 どうしたって互いに馬鹿なんだなと笑ってしまう。
 つまらない見栄や要らぬ虚勢を張ったりして、届きもしない形無き夢想に背伸びをしたりする。
 自分にすら素直になれなくて上手く立ち回れない、愚図な兄妹でしかなかった。


 

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