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 赤いジャケットを着た男が群衆から隠れるように、だが不遜且つ堂々とした足取りで暗い路地裏に入っていく。
 人の目から遮断される為に無意識下に危険視して人が寄りつかない路地裏を、敢えてこの男は選んだ。こういった道は陽が高い内の方が人が少ないと知っているからだ。
 他人から身を狙われる賞金首であるラグナ=ザ=ブラッドエッジの、人目を避ける為の経験から学んだ事だった。
 暗がりで見え辛い道だが、普段から飯処への近道として使っているので最早慣れてしまって間違える事もない。
 何を食うかと年中寒い財布と相談しながらすいすいと足を進めると、狭い道で常識では有り得ないだろう光景を目の当たりにした。
 空き缶や空箱がそこら適当に転がっている場所に、統制機構の制服を着た人間が倒れている。胸糞が悪いが、社会的地位では良い位にいるあの組織の人間がこんなゴミ溜めのような路地裏にいるなんておかしい。
 しかもそれは『イカルガの英雄』と謳われるジン=キサラギその人だった。尚更おかしい。
 何度か遭遇しているからこのカグツチにいるのは知っているが、汚れを嫌うようなこの男が布団も敷かずに地べたに寝ているなど下ネタを言わないニンジャ並におかしい。
 野宿に慣れた赤いジャケットの男だったらこういう場合段ボールを供にするだろうが、それは別の話である。
 取り敢えず警戒しながら近づき、屈んで息をしているか確かめてみる。
 前髪を分けると、苦しそうに顔を歪めて今にも途切れてしまいそうな浅い呼吸を繰り返している。
 じいっと伏せられた睫毛を見ながら、この男をどうするか考えてみる。
 懐かしくも忌々しいこの男を、腰に提げている大剣で一思いに始末するのは容易い。これだけ近づいても全く反応しないのだから。しかし殺してしまえば訊きたかった話は聞けなくなる。ラグナとジンの過去に起こった出来事は、殴って済ませれるほど納得のいく生優しい惨劇ではない。
 けれど、命を脅かす要素が減るというリターンもある。ジンの持つアークエネミーは己の大剣でどんなに打ち合っても折れない氷刀だ。指折りの中でも上位に食い込む厄介な敵だ。
 自分の命と、理性を天秤にかける。この男を助けて本当に正しいか、後悔しないか。
 正直、助けた方がリスクが高いかもしれないのだ。
 相見れば狂気を口走る唇は今は薄く開けられて酸素を懸命に吸っているだけ。
 見てて、不思議な気持ちになってくる。黙っていれば、まだ会話をする気にもなれるのに。しかし口を開いた瞬間、捻じ曲がった感情を押しつけてきて、また殺意が振り返すだろう。結局は今の瞬間だけの気の緩みであり、ジンの意識がある限り会話は成立しない。
 独り言のような雑念を追い出し、改めて真下の男を見遣る。
 苦しそうな寝顔。じわりと汗が滲んでいる額。
 ――まるで悪夢を見てるような、貌。
「…………」
 短い逡巡を終えた後、掴んだのは細い肩だった。ぐったりして動かない身体を肩に担ぐと、過去に僅かだが接触した医者の元へと向かう。
 視界の端の項垂れた後頭部を見ながら仕方無いと自身に言い聞かせる。
 納得のしないまま『弟』を無感動に殺せる程、ラグナの神経は太くなかったようだ――。


  *****


 カタン、と何かが音を立て、それで目が覚める。
 目蓋の向こうにあったのは全く知らない空間。清らかな白い天井だ。
 白む思考の儘、視界を動かすと病院によくある視界を仕切る為のカーテンに、小さな棚に置かれた控えめに飾られた花瓶の花。

――ここは……。

「……地獄の割には生活感があって、天国の割には質素だな……」
「質素で悪かったわね」
 カーテン越しから声をかけられ、ジンは眉を顰めた。
 コツンコツンとヒールが床を叩く音が近づくとカーテンにうっすら影が映り、横から背の高い女性が身を現した。はっきりしていない視界では、鮮やかな赤い服から兄のジャケットを彷彿させるのは簡単だった。
 そんな事など知る由もなく女は紅をひいた唇を開く。
「患者を選ぶつもりはないけど、文句を言うだけ元気のある患者を追い出すくらいの権利なら私にもあるわよ」
 脅しの科白の割に眼鏡越しの瞳に棘はなく、穏やかそのものだった。それがジンにとっていけ好かなく映り、ふいと目を逸らした。
 ジンの寝るベッドの下から丸椅子を引くとそこに腰を下ろす。腰よりも下にある黒髪がさらりと流れた。
 備えの棚から板のような物を取り出すと早速容態を訊いていく。
「気分はどう?」
 仕事柄だろう、ボードを持って容態をメモする姿勢に藪ではないなと認識する。だがそれで警戒を解くほどジンの性格も丸くないのだが。
「最悪だ」
 嫌味たっぷりにきっぱりと返事をするが、女はきょとんとした顔であらそうと返した。
「悪い夢でも見てたの?」
 嫌味をものともせず、余裕を持った態度で返され更にジンの眉間の皺が深くなる。
「これが夢ならよかったがな」
 見ず知らずの人間に世話になるなど苦痛でしかないが、これ以上嫌味を込めるのも疲れてくる。
 ふうと溜め息をつくと仰向けになって天井と向き直る。
 万全の体勢ならずっと尖った態度を維持しただろうが、身体の気怠さがジンの矜持を挫くという微妙な効果を発揮した。
「…………ここはどこだ? 貴様が僕をここに連れてきたのか?」
「ここは私の診療所よ。それに連れてきたのは私じゃないわ。あなたをここに連れてきたのは……」
 バァンッ、とけたたましいドアの開放音に女の声が途切れた、というか掻き消された。
 騒がしい音と共に現れたのは白い髪を――――
「オイッ!! このパンダいっこも頭から離れねえぞ!!」
 左サイドに小さなパンダが小さな手でがっしりと掴んで結われたジンの兄、ラグナだった。
「あら、動物に好かれるのは良い事よ」
 普段長い髪をパンダに留めてもらっているのだが、そのパンダがラグナの頭にくっついて髪留めの役割をしているのに笑いが隠せる訳もなく、女は楽しげに微笑む。
 だがジンはそんな事よりも、兄が現れた事の方が衝撃的だった。
「に……兄さんっ!!?」
 ジンに呼ばれ、ラグナはようやく彼が目を覚ました事に気付きあからさまに舌打ちをした。
「チッ、起きたのか……」
「あなたが連れてきといてそれはないでしょ。それと、病人の前で大きな声を出して踊らない」
「踊ってねえーよ!!」
 兄が誰かと会話するなど常のジンなら堪え難い事で、ラグナにもだがその相手に容赦なく全開でアークエネミー『ユキアネサ』の力を振るうのだが、ラグナに視線を向けられてそれどころではないジンは叫びを上げた。
「いやあぁぁぁぁ!! 見ないでえぇぇぇぇっ!!」
「何事っ!!?」
 いきなり甲高い悲鳴を上げて掛布を被るジンに二人は目を丸くして見た。
 怯えるように隠れてしまったジンにラグナははっと息を呑む。
 自分の弟をこう言うのもなんだが、ジンは中性的でかなり整っている顔だ。愛想を良くしていれば惹かれる女は少なくないだろう。
 黙っていれば上等であるこの顔を目当てに、どこぞのヒャッハーとか奇声上げるような人種に何かされたのではと青褪める。
 ジンが倒れていた場所が薄暗い路地裏だっただけに不安が募る早さも嫌な汗が滲む量も桁外れだった。
 幾ら因縁のある人物でも、血を分けた弟が何かしら乱暴を受けたのだとしたら、それを黙って見過ごせる程マダオな兄貴ではない。
「おいジンッ! ちょっと見せろ!」
「いやぁーっ!! やめてぇーっ!!」
「野郎が変な悲鳴上げてんじゃねえよ!!」
「いやあぁぁぁぁぁっ!!」
「ちょっ……、ラグナ、そんな乱暴にしたら……」
 無理矢理掛布を剥ぎ取ろうとするのを女が横から咎めるが頭に血の昇ったラグナが聞く筈もなく、呆気なくジンを晒すと暴れて逃げようとするジンの肩や腕を押さえ込んで着物の合わせを乱暴に開く。
「――――っ、…………?」
 白の着物の下は黒のタイツが汚されたり破かれたりした形跡もない、至って健康的な胸板だった。
 嫌な予感を抱いていたラグナが頭に「?」を浮かべているとラグナの拘束から逃れた手で顔を覆って、啜り泣くようにジンは呟いた。
「兄さんの……兄さんの中ではつるつるな弟のままでいたかった……」
(訳:キャッキャウフフな幼きあの頃のままの自分を覚えていてほしかった)
 ジンの呟きを余所に、ラグナは言葉を失っていた。
 カグツチ内でうっかり鉢合わせした折に撃退する為に戦った事があるのだが、あれだけ多彩な動きで武器を振り回す挙句、軍人なんだから長い事会っていなくても弟の胸筋や腹筋が割れているのは想像に易く、寧ろそれぐらいは当たり前だろうとつっこむべきだがそれすら出来ず、横から送られてくる女の呆れと疑いが込められた冷たい眼差しが痛い程突き刺さっていた。


  ◇


 ジンが落ち込んでいる横で女はくるりとラグナに向き直り、彼を呼んだ。
 眼鏡の奥の訝しむ視線にラグナは何だよと顔を顰めると、二人が失念していた事を彼女は訊いてきた。
「さっき、彼があなたの事を“兄さん”と呼んでいたけど、どういう事?」
「――――!!」
 自分達にとってソレが普通であったから、常識の枠から外れている関係と気付くのに遅れた。
 『ラグナ=ザ=ブラッドエッジ』は誰もが知る極悪と称される最高賞金額の賞金首、そして『ジン=キサラギ』は善い意味でも悪い意味でも有名な統制機構の衛士。
 真逆の立場である自分達が兄弟であるのを知っているのは、極僅かの者だけだ。
 ラグナが知られて困る事はない。寧ろ知られて困るのはジンの方だ。
 英雄と賞賛される男の実の兄が統制機構の面目を潰すSS級の犯罪者などと、機構からは勿論世間からの評価も変わるだろう。
 自分としては統制機構の評判が更に落ちる事は大変喜ばしいのだが、如何せんジンに何らかの飛び火があってもおかしくないと覚っている。
 酷くて除隊か、最悪で縁者だからという理由や自分への見せしめとしての理不尽な死罪か。こういった例は歴史の中でも何度かあったのだから楽観視出来ない。
 これ以上統制機構に身内を奪われてたまるかという私怨が胸に渦巻いていた。


 

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